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吉野家の掟

こんな路地裏のしがないバーの常連さんに、かつて「ミシュラン一つ星のシェフがいた」というのが私の密かな誇りである。野菜のテリーヌを初めて本格的に作ったことでも知られるフレンチの達人・柏木シェフは、銀座への進出を本気で計画し始めた頃によくいらしてくださったのだが、決まって赤ワインのグラスを揺らしながら、

「おまえの店はいいなぁ。俺もほんとはこんな店がやりたいんだよ」

と、嘆くようにこぼすことがあった。大きな瞳の奥から放たれる眼光は異様に鋭く、風貌や態度にも圧倒的な迫力があり、一見して只者ではないことをうかがわせる方なのだが、その実とてもお茶目でチャーミング。抗えない魅力をお持ちの素敵な男性であった。

そんな柏木さんが営業後、私とお店のお客様3人を吉野家に連れていって下さったことがある。その一夜のことを私は一生忘れることがないだろう。

「おまえらに吉野家の掟を教えてやる。ついて来い!」

どんな脈絡だったか定かではないが、有無を言わさぬ空気であったことは間違いない。まるで催眠術にでもかかったようにカリスマの背中についていった我々は、まっしぐらに吉野家へ向かう途中、あろうことか商売敵の松屋が先に現われてしまった。そこで彼は徐に口を開いた。
 
「戦いはすでに始まっている。松屋の前はチッと舌打ちをし、流し眼をくれてやりながら通るんだ。いろんなものに手を出す松屋より牛丼一本の吉野家がいいに決まってるだろ」

なぜか素直に従う我々がようやく吉野家の前に到着すると、彼は次の指令を出した。

「ハト胸になれ。胸をこうやって前に突き出してから入るんだ。とにかくナメられちゃいけない。これが鉄則だ」


誰に!?という思いは拭えなかったものの、 居合わせた大の大人5人は敢えてハト胸になって入場。 カウンターに列座すると、"師匠"がまず供された湯呑を鷲づかみにする。

「吉野家の茶はなー、“ズズーーーッ”と、店内に響き渡らんばかりの音を立てて飲まなきゃならんのだ。ほら、やってみろ!(ズズズーーーーーッ!!)」

これは相当に恥ずかしい。 もともと我々が無理につくったハト胸に宿していた一抹の不安は、すでに大きく羽ばたこうとしていた。

「牛丼の並を注文しろ。出てきたらなあ、紅ショウガをドバッと加えて、グワーーーッと一気に掻きこむんだ」

擬音が多くなってきた。まるで長嶋茂雄の指導である。そして早速実演してくれた様子はさながらマンガのワンシーンであった。彼の手の動きは殆ど目に見えなかった。

「こうやって一気に掻きこむと米粒が鼻に入ったりするだろう。それを出すのとほぼ時を同じくしてまた掻きこむ・・・その繰り返しだ。ゲホッ、ゲホッ!!!ナプキンは大量に使っていい。口や鼻を拭いたティッシュをテーブルにボコボコ並べるんだ」

さすがに誰もそんな技は持ち合わせていない。我々はすでにただの傍観者となっていた。約30秒で平らげられた丼の中を誇らしげに見せながら彼は言う。

「丼の底を見てみろ。米粒と紅ショウガがバランスよく散りばめられているだろ?きれいに食べきっちゃいけない。こうやってまばらに残っているのが理想なんだ。これならナメられることもない」

誰に!?という疑問は相変わらず中空を漂っている。二人いた店員にはこちらの方を気にする素振りがなかった。

ズズズーーーーーーッ!!!

と、再び轟音を立てながら茶をすすった彼は、炭水化物を控えるために敢えて牛皿を注文しひと切れふた切れで満足されていた"弟子"の女性の様子に着目。

「仕方ねぇなぁ。俺が食ってやるよ」

と一言発するなり、約0.8秒で牛肉を残らず平らげてしまった。仲間の女性二人は吉野家初体験だったため、あまりに壮絶なシーンの連続に卒倒しそうであった。

「どうだ? こうすればやつらも"この客、知ってるな!"って思うわけだよ。とにかくナメられちゃいけねー」

この男は一体誰と闘っているのだろう?ずっと頭をもたげていた疑問に対しては、結局答えを導き出すことができなかった。しかし、この男の名誉のために言っておきたい。彼はフレンチ料理界の風雲児。テリーヌの天才と言われた偉大なシェフで、もちろんフレンチにおけるテーブルマナーは超一流である。

「牛丼は牛丼、フレンチはフレンチ」

そう言い残して夜の闇に消えていく柏木シェフは、思わず惚れてしまいそうなほどかっこよく見えた・・・。 

(了)

*これは事実に基づいたフィクションです。登場人物のモデルになった人物の実名は出していません。

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