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全身麻酔

その夜も多士済々といった風情で、ひとクセもふたクセもお持ちの逸材がカウンターに並んでいた。10年間プロのピエロ(正式には"クラウン")としてご活躍された経験を持つ遠藤さん、宇宙飛行士の最終選考6名に残られたことのある吉田さん、二度に渡るフランス留学を経験し「言語力を伸ばすには恋愛が一番」と断言される香里奈ちゃんらである。
 
カウンターの右手に座られていたのは川島夫妻。ご夫妻と私は、とあるノーベル賞受賞者の教授を介した不思議なご縁で結ばれていて、早い時間は他のお客様にそのことを語って聞かせたりしていた。実はその教授、私の中学・高校サッカー部の同級生のお父さんなのである。そしてかつてその教授のゼミ生だったのが川島の旦那の弘毅さん、ノーベル賞受賞の際にその教授の直下で働いていたのが奥様の明美さんなのであった。

もともと店主とお客さんの関係であった3人が、ひとりの偉大なノーベル賞受賞者を囲むように関わっていたという事実は、物理学が大好きでもある"宇宙飛行士"の遠藤さんの興味を特に惹いていたように思う。初対面の弘毅さんと遠藤さんはたまたま隣り合っていたこともあり、意気投合して会話に熱中し始めた。

ところで、私の頭の中には常連さんの膨大なデータが蓄積されている。「誰と誰を引き合わせたら面白いだろうな」などと私の特権たるファンタジーに酔い痴れることもしばしばだが、この二人の組み合わせは考えてみたことがなかった。人間の相性というのはつくづく謎めいている。

「ギリシャで骨折したんですよ」
 
どんな文脈で弘毅さんがそう切り出したかは思い出せない。しかし"ギリシャ"と"骨折"という二語の組み合わせが斬新すぎて、その話を詳しくして欲しいと促したのは覚えている。

「サントリーニ島でバイクに乗ってたらコケましてね。足をやっちゃってけっこう痛かったもんで救急車を呼ぼうと思ったぐらいなんですけど、結局現地の人に車で連れてってもらったんですよ」
 
ギリシャ人のやさしさであろう。現場近くの住民があーでもないこーでもないと相談し合いながら旦那を病院へと送っていった様子が目に浮かぶ。

「そこでは赤チンだけ塗られて、より専門的な別の病院へ行ってくれって言われたんです。ふつうはそれでもお金を取るじゃないですか。だけど無料だったんですよね。ああ、こういう感じなら財政破綻しても不思議じゃないなと」
 
やさしすぎるのかもしれない。ギリシャ人が。弘毅さんは苦笑しながら話を続けた。
 
「二つ目の病院に行くと、骨をしっかり固定しなきゃいけないと言われていったん処置してくれたんですけど、あとで"もう一回やるから"と告げられたんですよ。要は一回目を失敗したってことですね」

さも深刻そうな言い訳を並べ立てるギリシャ人医師の姿が頭に浮かんだ。結局そのまま処置したら痛すぎるからと全身麻酔をすることになったのだそうだ。奥さんの明美さんは相手の言葉もよくわからず軽いパニックに陥っていたと言う。

そんな話を聞いていたら、カウンターの左端に座していたフランス留学の香里奈ちゃんが突然割り込んできた。
 
「私もフランスで全身麻酔を受けたことがあります!」
 
独特のタイミングで天然がかった言葉を発するのが彼女の魅力。私はやや遠めからの不意のカットインに驚きながらも、香里奈ワールドの片鱗を見た思いで納得したが、エピソードの具体的状況よりも"全身麻酔"という四文字の重なりに反応して一同に問いかけた。
 
「全身麻酔を受けたことのある方ってどれぐらいいますか?」
 
弘毅さんと香里奈ちゃんはもちろん挙手。そしてよく見ると旦那の隣で明美さんも控え目に手を上げていた。
 
「そうそう、彼女も全身麻酔を受けたことあるんですよ。日本で、ですけどね」
 
と、ご本人が口を開く前に弘毅さんが素早く合いの手を入れた。これで3人。場所はギリシャ、フランス、そして日本だ。考えてみれば全身麻酔を受けるというのはよほどの大ごと。それを受けたことのある方がカウンターに3名も揃っていて、尚且つそれらがすべて別の国が舞台ということになればある意味奇跡ではないか・・・そんなことが脳裏をよぎった瞬間、ハッとなって思い出したことを早口でまくしたてた。
 
「私も全身麻酔を受けたことがありました!それもアメリカで!!」
  
9歳のときにニューヨークで盲腸炎を患い、全身麻酔で切除してもらった記憶が一気に蘇った。あれは痛かった・・・。しかしそんな激痛の記憶さえ、全身麻酔経験者が同じカウンター内に4人も居合わせ、それらがすべて異なる国で行われたことが明らかになったことによる興奮に軽く掻き消された。すごい。けっこうすごいことではないのか!?
 
まぁ、冷静に考えれば大したことではない。数年後思い返してみたときに、一回ニヤリとする権利を得ただけだ。しかし、その"いちニヤリ"がもたらしてくれる幸福の価値を私はよく知っている。いや、きっと私しか知らない。

(了)

*これは事実に基づいたフィクションです。登場人物のモデルになった人物の実名は出していません。

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