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狼の子と猫の子のアルフライラ 第7夜:誰かが定義した自由

「おばあちゃん、ありがとう」

 ファルザードがそう言いながら老女の手に一金貨ディナールを握らせた。途端、老女は顔をくしゃくしゃにして半泣きで声を震わせ始めた。

「いやね、なんだかいろいろ話をしちゃったけど。怒風組もみんながみんな任侠アイヤールだってことに誇りを持っているわけじゃないから、本当に気をつけなさい。変なのに捕まったら、あんたみたいに可愛い子、どこに売り飛ばされるかわかったもんじゃないよ。アシュラフ人ならちょっとがんばるだけで官僚なり何なり職にありつけるんだから、悪いこと言わないからもうおうちに帰りなさい」
「うん、うん。大丈夫だよ。ありがとう」

 立ち上がりながら「元気でね」と言う。老女は路地に座り込んだまま「坊やこそね」と言って手を振った。

 ギョクハンとファルザードは二人連れ立って大通りのほうに出た。

「これで確定だね」
「ああ」

 結局のところ、昨夜アブー・アリー邸で捕らえた怒風組の構成員たちは口を割らなかった。あのあとすぐに役所へ引き渡したが、役人たちは彼らが何をしても情報を吐かず困り果てているようである。

 ギョクハンは複雑な思いだ。

 たとえ拷問にかけられても仲間を思って口を開かない姿勢は、気高く美しく思えた。

 だが、昨夜のファルザードやアブー・アリーの私兵の隊長が間違っているとも思わない。特にファルザードの言うことは道理で、いくら怒風組が広域で活動する任侠アイヤール集団であるといっても公的権力でない以上限界はあるだろうし、貴族からなら奪ってもいいというわけではない。特にアブー・アリーは非合法なことはしていないのだ。

 何が正義なのかすっかりわからなくなってしまった。

 皇帝スルタンが現状何もしていないのは、事実だ。

 何はともあれアズィーズの依頼はこなさなくてはならない。ザイナブが待っているのである。

 結局、ファルザードの提案で二人は貧民窟を練り歩くことになった。怒風組を支持する人々ならその本拠地を知っているのではないかと考えたのだ。

 貧民窟は治安が悪く土地勘がない人間は寄りつかないが、そこで暮らしているのも確かに人間である。人間相手ならギョクハンは負けない。

 結果ははたしてファルザードの読みどおりだった。

 貧民窟の路上生活者たちに情報料として金貨ディナールを握らせたら、さまざまな話を聞くことができた。真偽が定かではない噂もあったが、数をこなして重なる部分を注意深くあぶり出していくと怒風組の事務所がある街区ハッラが見えてくる。

「本当にお金に困ってるってさ、こういうことだよね」

 歩きつつ、ファルザードが言う。

「しゃべるだけでお金が貰えるなら、って思っちゃう。自分がしゃべったことで誰かを陥れるかもしれない、っていうのは考えない。怒風組って、彼らからしたら恩人で、大好きな存在であるはずなのにさ。こんな簡単にあかの他人に話しちゃうんだな」
「ああ……、そうだな。みんな、想像以上に口軽かったな」
「そういうのを考えつくのってさ、心のゆとりだったり、教養だったり、忠誠心だったりする。お金だけじゃどうにもならない部分だけど、お金があればある程度解決する話だったりもする」

 補足するように呟く。

「今回しゃべった人たちが特別悪いわけでもないと思うんだけどね」
「そうか……?」
「ま、僕は用事が済んだらワルダに帰るからヒザーナのことはどうでもいいんだけどさ」
「って言っても、ヒザーナもワルダも帝国の一部だからな。こういう――何て言うんだ、空気? こんなのがワルダにもうつったら困る」
「そう、それなんだよね。だからザイナブ様は僕たちのがんばりが帝国全体の平和につながるって言ったのかもしれないなぁと思ったり思わなかったりやっぱりザイナブ様と僕の暮らしが穏やかなら何だっていい気もしなくもなかったりでもザイナブ様がワルダを継承したらワルダがこんなふうになるのは嫌だなって思ったり思わなかったり……」

 ファルザードも少し混乱しているようである。ギョクハンは、どっちだ、と思ったがあえて突っ込まなかった。

皇帝スルタンってどんな奴なんだろ。会って殴りたくなるような人だったらどうしよう」
「お前がひとを殴りたくなるってよっぽどだな。その場合俺が止めるから大丈夫だ、と、思うけど。俺が皇帝スルタンを殴りたくなったら、お前が止め――止めて、くれるか?」
「が、がんばる」

 そして、腕組みをする。

「それにしても、ジーライルって何なんだろうね」

 ギョクハンはまたたいた。

「何だ突然」
「いや、僕らがたかだか半日歩き回っただけでわかることをジーライルが把握していないわけがないと思うんだよね。ここが本拠地って言ってたし、商売をするのにこういう情報は必要でしょ。しかもアズィーズ様の密偵もやってるんでしょう?」

 言われてから気づいた。

「もっと言えば、ジーライルだけじゃなくて、アズィーズ様が何なんだろう」

 立ち止まって、顔を見合わせる。

「これは本当に試験で、自分たちにはできることを僕らができるかどうか試しているんだろうか。それとも自分たちにはできないことを僕らにやらせようとしている……?」

 ファルザードが薄紅色の唇を尖らせる。

「できない場合、何ができないんだろう。情報を集めることが? 情報を集められても実行することが? ワルダから来たよそ者の僕らにやらせるより地元民のあの二人がやったほうが早いだろうに、いったい何が引っかかっているの……?」

 考えたこともなかった。ギョクハンはただ目の前のことを解決するのにせいいっぱいで、アズィーズとジーライルのことまで頭が回っていなかったのだ。

「あの二人が怪しいってことか。怒風組とつながってるかも、とか?」
「逆かもよ。あの二人、めんが割れてるのかもしれないよ。怒風組やこのへんの貧民窟の人たちに。ワルダから来た僕たちは知らないだけで、ヒザーナでは有名人なのかもしれない。だから身動きが取れないのかな、と思った」

 ファルザードが小さな声で言う。

「ジーライル、怒風組の犯行声明の写しを持ってきたんだよね」

 それを聞いてからはっとする。

「なんでジーライルが持ってるの? アブー・アリー氏と裏でつながってるの? アブー・アリー氏は非合法なことはしていない。ジーライルやアズィーズ様も非合法なことをせずに宮廷の高官であるアブー・アリー氏と接触できるのかな」

 それから、「それにね」と呟く。

「あともう一個気になることが」
「何だよ」
「怒風組の団員たちは円城の中に現れた。でも円城には東西南北の四つの門からしか出入りできない、どの門も帝国軍の兵士が守ってて怪しい人間が通ることは許されない。じゃあ怒風組の連中ってどこをどうやって通って円城に入ってきたの?」
「あ」
「誰かが手引きしたの? 門番やお役人には知られずに……?」

 ギョクハンとファルザードはジーライル経由でアズィーズから貰った通行証を持っている。アズィーズが一言通行を許可すると書いただけのもので、アズィーズの正体の手がかりになることは何もない。だが、門番の兵士たちには絶大な効果があり、すぐに二人を通してくれた。その時はアズィーズも円城の中に屋敷があるのだろうということしか考えていなかった。

「怒風組は想像以上に中央政府に食い込んでいるのかもしれないな」

 自分の唇に、指先で押すように触れる。

「僕は逆に、自分たちがどんどん皇帝スルタンに近づいていっている気がするから、いいけど。なんかちょっと――」
「怖いな」

 ギョクハンが言うと、ファルザードが笑った。

「ギョクがそう言ってくれると、なんだかほっとするよ」

 ギョクハンは腰に双刀を携えた。

 本拠地を叩く以上手加減はいらない。今度は必ずしも生け捕りにする必要はない。加えて、万が一取り逃がした時、攻撃されるのは一緒にいるファルザードだ。ファルザードを守るためには一人残らず倒さなければならない。

 そうは思っているが、やはりあまり気乗りはしなかった。

 自分たちは何をさせられているのか。何のために何と戦うのか。そこにどんな意味があるのか。

 今までよく考えずに戦ってきたことを後悔した。戦う理由をハサンと先輩傭役軍人マムルークたちに託していた。考えることなくただ敵兵を倒すことに力を注いでいた。

 これからは、よく考えなければならない。

 ただ、今最優先にすべきはザイナブを救うこと、そのために皇帝スルタンと会うことだ。そしてその最短距離の道のりの上にいるのはアズィーズなのだ。

 正しいことをしていると、信じるしかない。

 足元がおぼつかない戦いの恐ろしさを知る。

 ギョクハンとファルザードは、円城から遠く離れたある街区ハッラ、郊外の閑静な住宅街にある屋敷を眺めていた。自分たちで探し出した怒風組の事務所だ。組長の邸宅でもあるという。

「自分はいい家に住んでるっていう、この、何とも言えない感じ」

 別の屋敷の陰に隠れつつ、ファルザードが呟く。
 彼の言うとおりだ。邸宅は立派な三階建てで、大きな風採塔バードギールが二本あり、壁の周りには堀というほどでもないが小さな人工の水路が流れていた。貧者には施すと言っているが、いくらかはふところに入れているようである。

「ここまで堂々としてると役所も軍隊も逆に手を出しにくそうだな……」
「少なくともひとにナメられることはなさそうだよね……」

 門の前には二人の若い任侠アイヤールが立っていて外をにらんでいる。一般人は近寄りがたいだろう。ギョクハンもこの屋敷の中には何人こういう人間がいるのかと思うとたじろいでしまう。自分一人なら何とかなると思うが、ファルザードはどうしたものか。

「とりあえず……、門番の二人を倒してくる。もしかしたらまだ何人か出てくるかもしれない、合図するまでお前はそこで待ってろ」

 ファルザードは素直に「はい」と言ってさらに奥へ引っ込んだ。

 陰から出る。刀の柄に手を掛ける。

 ギョクハンは覚悟した。

 一気に斬り伏せる

「おい、どうした。この家に何か用事か」

 片方が話しかけてきた。

 しばし悩んだ。

 言葉が通じる。
 話しかけてきた。
 話が通じるということかもしれない。

 刀の柄に手をかけたまま、ギョクハンは「ああ」と答えた。

「組長に用事がある」

 二人が顔を見合わせた。

「戦いたくない。話し合いで済むんなら俺はそうしたい」
「ずいぶん思い詰めてるみてぇだな」
「ひょっとして、あれか。お前がうちのことを嗅ぎ回ってるっていう二人連れのボウヤの片割れか」
「アブー・アリー邸では俺たちの兄弟分を捕まえたっていう――」

 ギョクハンたちの行動も知られているようだった。少し苦々しく思ったが、特別隠れていたわけでもないので仕方がない。それにも素直に「そうだ」と答えた。

「待ってろ。組長に話を通してやる。会ってくださるかどうかは知らんが、子供を殺すのは趣味じゃねぇからな」

 唇の端を持ち上げてにやりと笑う。

「俺たちは強い奴が好きだ。まだまだこれから育つ若人わこうどが、よ。ぜひとも仲間になってくれ」

 ギョクハンは何も答えなかった。

 片方が屋敷の中に引っ込んだ。
 さほど長くは待たされなかった。しばらくして数人の構成員がぞろぞろと出てきて、「入っていいぞ」と言ってきた。

「組長がお会いになるそうだ」

 うち一人に問われた。

「今日は相棒はどうした、一人か」

 ギョクハンは一瞬どうしようか悩んだ。

 後ろのほうへ目配せした。

 ファルザードはすぐ出てきた。小走りで寄ってきて、ギョクハンのすぐ隣に立った。澄ました顔をしている。

「なんだ、女の子だったのか。かわいこちゃん」
「なんかもう、それでいいです」
「ついて来い」

 二人はおとなしく従って曲がりくねった玄関の通路を抜け、噴水の湧き上がる中庭を通過した。

 一階の奥、広い応接間に通された。
 分厚い緞帳が垂れ込め、香が焚かれ、壁際には東洋趣味の螺鈿らでんの箪笥と青磁の壺が並べられている。それでいて戸の両脇には屈強な構成員の男が並んでいる。

 ギョクハンからすると異様な空気だった。圧倒されてしまう。
 一方ファルザードは平然としている。ハサンの部屋もこんな雰囲気だったのかもしれない。

 部屋の奥まったところに、金箔を貼った座椅子と黒漆を塗られた肘掛けが置かれていた。そして、その肘掛けにもたれるような恰好で組長が待っていた。

 ギョクハンは驚いた。

 組長はカリーム人ではなかった。

 首の後ろで一本の三つ編みにされた黒い直毛、毛皮の縁取りの帽子、ひげを剃っている剥き出しの顎――トゥラン人だ。
 年の頃は四十歳前後だろうか。体躯は若干の脂肪をまといつつもその下にはまだ鍛え上げられた筋肉が潜んでいるのがわかる。左目に眼帯をしている。眼帯の下から耳の方まで刃物の傷跡がある。どうやら左目は斬られて潰れたらしい。
 右手には硝子の酒杯を持っている。酒杯の中の紅い葡萄酒が揺れている。

「よく来たな」

 構成員が二人のために緞帳を掻き分け、高いところでまとめた。二人はくぐり抜けるようにして内側へ入っていった。

「俺はケレベクだ」

 名前の響きもトゥラン風だ。

「お前ら、名は」
「ギョクハン」
「ファルザードです」
「『空の王ギョクハン』に『光り輝く息子ファルザード』か。二人ともいい名だ。お前らの親御さんはお前らのことを愛してた」

 重低音がよく響く。

 アシュラフ語がわかるということは、かなりの教養があるということだ。カリーム語の発音も滑らかで違和感がない。当然トゥラン語もわかるだろう。少なくとも三言語を解する。何らかの官職についていてもおかしくない教養人だ。

 葡萄酒を一気に飲み干してから、螺鈿の卓の上に置いた。

「まあ、座れ」

 ギョクハンもファルザードも言われるがままその場に腰を下ろした。毛足の長いアシュラフ絨毯が心地よい。

「年はいくつだ」
「十五」
「十四です」
「よくやるガキだ。いや、その若さだからこそ怖いもの知らずなのか。いずれにせよ大物になるぞ。将来が楽しみだ」

 右目がこちらを見据えている。射抜かれた気持ちになる。

「何しに来た。誰かのおつかいか」

 言葉に詰まったギョクハンを押し退けるようにして、ファルザードが口を開いた。

「ある高貴なお方に頼まれてここまで来ました。そのお方が言うには、ヒザーナの治安が悪いのは怒風組の影響なのだそうです。僕にはあなたが考えなしで向こう見ずの犯罪者であるようには思えません。解散とまでは言いませんが、方向転換をしていただけないでしょうか」

 ケレベクが笑った。

「おおかたジーライルのつかいっ走りだろう」

 ギョクハンもファルザードも硬直した。

「根性の曲がったジョルファ人の若造だ。違うか」
「……えーっと……」
「可哀想にな。お前らは踊らされてる。あいつはアズィーズが自分の手を汚すのが好きじゃねぇから他人にこういうことをやらせるんだ。俺は何度も用事があるんならテメエの足で歩いてこいって言っているんだがな」

 ギョクハンは複雑な心境だった。これでアズィーズとジーライルが怒風組側の人間でないことははっきりしたが、余計に混乱する。

「あの。アズィーズ様とジーライルって、何者なんですか?」

 同じことを思っているらしい。ファルザードが単刀直入に訊いた。

「僕ら、何にも聞かされずに、皇帝スルタンに会わせてやるから怒風組をやっつけてこい、って言われてここまで来たんですけど」

 構成員の一人が進み出てきて、ケレベクの空になった酒杯に葡萄酒を注いだ。

「知らねぇのか。お前らどこから来た」
「ワルダです」
「ちぃっとばっかし遠いな。しかし奴らの影響力もそんなもんか」

 酒杯をふたたび手に取る。

「知らねぇんなら知らねぇまんま帰ったほうがいい。へたに中央の政治のごたごたに巻き込まれるとつらいぞ」
「いや、もうここまで来ちゃいましたし……」
「だがアズィーズを通せば皇帝スルタンに会えるのは本当だ。奴らは騙しているわけじゃあない。本当に俺の首を持って帰ったら口利きをしてくれるはずだ。その辺の約束は守るだろう、奴らは自分たちを正義の味方だと思っているからな」

 ケレベクに「お前らも飲むか」と問われた。二人とも慌てて首を横に振った。

「残念だがあいつらとは仲良くやれない。言うことを聞いてやることはできねぇ」
「それってどうしてですか」

 ファルザードが問いかける。

「あなたたちの正義とアズィーズ様の正義が相いれないからですか」

 ケレベクは声を上げて笑った。

「そんな哲学的な話じゃあない」
「では――」
「俺は俺が正義の味方だと思っちゃいない。むしろ悪だ。強いて言うなら悪を貫くことが俺の正義なんだ。わかるか」

 彼は「必要悪だ」と言う。

「世間様が混乱している。表社会はしたたかな連中で作られてるから事が起こってもみんなうまく生き残るんだろうが、草葉の陰で生きる有象無象はそうはいかない。俺たちはそういう連中の受け皿になっている」

 そして、「見ろ」と言って左手を掲げ、後ろのほうにいる構成員たちを指し示した。

「ここにいるのはみんな不幸な境遇でな。だいたいは逃亡奴隷で、もとの身分に戻ったら苦しい奴らばかりだ。だがそういう連中を虐げることで表社会はうまく回っている」

 右手で酒杯を口元に持ってくる。一口飲む。

「表社会の連中は全部悪い任侠アイヤールのせいだと言えば満足するんだ。自分たちが悪いなんてこれっぽっちも思っちゃいない。だが俺はそれでいいと思う。俺たちは法の外にある秩序だ、法の内側にいる連中とは別の世界で生きてる」

 ファルザードが言った。

「法の外に秩序なんておかしくないでしょうか。僕にとっては法こそ秩序だし、逆に言えば法さえ守れば人間は自由でいいと思っています。あなたたちも自分で自分を束縛しないで解放されたらいいんじゃないでしょうか」
「若いなボウズ」

 ケレベクの表情はなおも穏やかだ。眼光は鋭く威圧感はぬぐえないが、すぐに攻撃されるとも思わなかった。

「どこに行っても不文律からは逃れられない。血縁、地縁、主従関係、どこに行っても付きまとう。お前らもいつか気づくだろう、人間は人間をやっている限り何らかの掟に支配されるんだ」

 ファルザードは押し黙った。むしろ性奴隷として売り買いされた経験のあるファルザードこそその不文律の重圧を感じているのかもしれなかった。

「だったら、自分の好きな秩序を選べたらいい。表社会の束縛から逃れて裏社会の色に染まるんだ。それが人間に許された最後の自由だ」

 また、酒杯を置いた。

「帰りな――と言いたいところだが」

 そこで、問われた。

「帰る家はあるか? お前ら何教徒だ。お前らも奴隷なんじゃねぇのか」

 ギョクハンは唾を飲んだ。

「うちに来るか。俺が世話してやるぞ」

 ケレベクが手招く。その太い指は力強い。

「無理しておうちに帰る必要はない。ここにいてもいい」

 選択肢を突きつけられた。

「自由に選んでいい。つらいおうちに帰るか、楽しいうちの子になるか、だ」

 しばらくの間、場が沈黙に支配された。
 息を呑む。自分の鼓動を聞く。手汗をかく。
 ギョクハンは、ゆっくり、口を開いた。

「いや、何言ってんだ? 俺、家に帰るし」

 つい、言ってしまった。

「自由に選んでいいんならザイナブ様を選ぶに決まってんだろ。法を守って誰かに仕えたら不幸みたいな言い方するのやめてほしい。俺は俺を評価してくださるザイナブ様についていく。ザイナブ様を選んでいるのは俺自身だ」

 ケレベクが声を上げて笑った。

「『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』か。いいご主人様に当たったんだな。よっぽどのべっぴんさんなんだろう」
「まあ美人だけど、顔というか、心がとてもお美しい方なんだ」
「それでいい」

 そして、「それでいいんだ」と繰り返す。

「俺に押し付けられる自由を自由だと思わない自由もあるさ」

 ファルザードが、隣で大きく息を吐いた。

「いいか、小僧」

 ケレベクの右目が、ギョクハンを見つめている。

「一回そうと決めたんなら最後まで貫け。刀折れ矢尽きるその最後の瞬間まで『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』を守れ。お前が信じるんならその信念は正義だ。お前の正義を絶対に忘れるんじゃねぇぞ。基準がぶれた時人は死ぬ」

 ギョクハンは、頷いた。

「そして、俺も俺の悪の道を譲らねぇ。俺も俺の基準を守る」

 ファルザードが「えっ、待ってくださいよ」と声を上げた。

「それって結局僕らはここに来た意味がなくなるじゃないですか。アズィーズ様とジーライルにどう報告すればいいんですか」

 ケレベクはまた笑った。よく笑う男だ。

「賢い坊やだ」

 そこで唐突に問われた。

「なんで皇帝スルタンに会いたいんだ」

 ギョクハンとファルザードは顔を見合わせた。

「……説明してもいいんじゃないか?」
「そう……だね。ギョクがザイナブ様の名前出しちゃったし」
「すまん」
「ここまで来たら、もういいよ」

 ファルザードがケレベクのほうを向く。

「ワルダ城は今ナハルに包囲されています。それで、ザイナブ様の命令で、皇帝スルタンに援軍を出してもらうよう頼みに行く、ということになりました。皇子様と結婚することになってもいいから、って。ムハッラムに知られないよう、できる限り、内密に」
「なるほどな」

 ケレベクが座椅子の背もたれから上半身を起こした。まっすぐ二人に向き合った。

「今の皇帝スルタンなんかあてにするんじゃねぇ! あの男は何もできねぇクズだ。あの男がしっかりしてたら俺たちなんざ必要なかったんだ」

 ケレベクの大きな声を聞くと、自分たちが怒鳴られた気がしてきて肩が震えてしまう。

「ここまで来たご褒美に俺が今の宮廷で一番の実力者を紹介してやる。皇帝スルタンはやめとけ」

 ファルザードが食いつく。

「やっぱり誰か宮廷で発言力のある人とつながっているんですね」
「やっぱりとは何だ」
「教えてください。どなたですか」

 ケレベクが、ゆっくり、立ち上がる。

「教えてやる前に。ひとつ、試験だ」

 上着を脱ぐ。たくましく分厚い傷だらけの上半身が出てくる。

「俺の道義だ。あの方を紹介する前に、お前らがあの方にお会いするに足る人間か確認する」

 上着を放り投げた。構成員の一人がそれを拾い上げた。そして三歩下がった。

「裏社会では力が掟を作る。力を示せ。俺が唸るくらい強いと思えたら、案内してやる」

 その掟は、わかりやすい。
 ギョクハンは、その秩序の中でなら戦える、と思った。
 ザイナブを救うために力を振るう――軍人であるギョクハンにとってこれほどわかりやすく納得しやすい正義はない。

「わかった。俺が二人分やる。俺が勝てたらその宮廷で一番の実力者とやらを紹介してくれ」
「いいぞ、約束だ。お前が負けたら、援軍は諦めて二人でおうちに帰るんだぞ。自力で『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』を救え」
「ああ。約束だからな」

 ギョクハンも上着を脱いだ。それから腰の刀を二振りとも帯からはずした。「持ってろ」と言ってファルザードに渡す。ファルザードは受け取り、黙って三歩下がった。

「負けないでよ」
「任せとけ」

 ケレベクが緞帳を引きちぎった。そして床にぶちまけるように投げた。緞帳は絨毯の上にふわりと広がり、部屋の中に一辺がギョクハンの歩幅ふたつ分くらいずつの正方形の空間を作った。

「この中に立て」

 言われたとおり、緞帳の上に立った。舞台に上がった気分だ。

「この布の外に出たほうが負けだ」
「わかった。やってやる」

 構成員たちに「お前ら見てろ」と投げ掛ける。構成員たちが「はい、おかしら」と答える。

「勝負だ」

 ギョクハンとケレベクが、向かい合った。

 両足を肩幅より少し広いくらいに開く。膝を曲げ、低い姿勢を取る。

 ケレベクも同じだ。足を軽く開き、身をかがめた。

 深い息を吐く。
 その音を聞く。

 ケレベクはギョクハンよりひと回り背が高い。体重はひと回りどころか倍近く違うかもしれない。筋肉の鎧の上にうっすら脂肪の肉をまとっている。分厚い。鷹の足のように広げられた指も太くたくましく、あれでつかまれたら終わりだと思った。どこにも隙がない。

 だが、人間相手には負けない。

 ケレベクが突進してきた。その勢いはけして速くはないが重い。

 試しに受け止めてみることにした。
 ぶつかり合う。
 強い衝撃。
 ギョクハンはね飛ばされて上体をのけぞらせた。

 ケレベクが腕を伸ばす。
 ギョクハンの腰を抱えるように引き寄せる。
 膝の裏に足をまわされた。膝が曲がる。
 その場に背中から崩れ落ちる。床に背中を叩きつけた。

 すぐさまケレベクはのしかかってきた。ギョクハンの腹の上に馬乗りになった。

 右の拳が降ってくる。
 左の頬にめり込む。

 口の中に鉄の味が広がった。
 すぐ左の拳も降ってきた。
 右の頬にめり込む。

 ケレベクは笑っていた。

 勝負は四角い空間から出ることで決着をつけると言っていた。ギョクハンはまだ空間から出ていない。この状態では自分の意思でも出ることはできない。
 いたぶっている。

 ケレベクの右手が、ギョクハンの頭をつかんだ。顔面と顔面が近づく。

「俺のものになれ、ギョクハン」

 息と唾が顔にかかる。

「おうちに帰らなくていい。ここで愉快にやろう」

 ギョクハンは顔をしかめた。

「さっきと言ってることが違うぞ。負けたら俺たちは黙って家に帰るんじゃないのか」
「もったいない。お前ほど強い若者は長生きすべきだ。どうせワルダはもう長くはもたない。無駄死にするな。すべて命があっての物種だぞ」

 心外だった。
 腹から声を出した。

「テメエが無駄って決めるな!」

 右の拳を横から薙ぐように振った。ケレベクの潰れた左目を狙った。ケレベクはすぐに察して左腕を上げ、ギョクハンの右手首を受け止めた。

「そもそも俺は死なない! ザイナブ様と生きる!」
「それでいい」

 余裕ぶっているところに腹が立つ。

 身をよじったが重すぎてどうにもならない。

 左腕を伸ばした。

 体重で勝負したら負ける。

 だが、どんな巨体でも関節は関節だ。

 ケレベクの膝の裏に腕をめり込ませた。
 思い切り引き寄せた。

 ケレベクが手を離した。

 右腕をさらに振る。ケレベクの首の右側に拳を持ってくる。

 手首で首を打った。
 ケレベクの首は太くたくましくそれだけでは何の衝撃にもならかったようだが――

 首を右から押しながら、膝を前に引き寄せた。
 右から左へ崩れるように、体勢が乱れる。

 右側に体をよじった。

 脱出できた。

 ケレベクの背後にまわる。
 ケレベクは当然すぐに後ろを向いた。
 しかし振り向き方が、上半身からなのだ。下半身が一拍分遅れている。

 全身がこちらを向いた瞬間、腰にしがみついた。
 骨盤を押さえた。

 前に突き飛ばす。

 ケレベクの体が臍のあたりで折れる。

 巨体が床に倒れる。

 今度はギョクハンがケレベクの上に馬乗りになった。

 直後だ。

 ケレベクが手の平をまっすぐ突き出した。
 胸を掌底しょうていで突かれた。
 一瞬呼吸が止まった。心臓も止まったかと思った。

 弾き飛ばされそうになった。
 どうにか踏みとどまった。
 両足に力を込めて耐えた。そのまま後ろに倒れたら外に出てしまう。
 でも、呼吸ができない。

 ギョクハンはあえて膝を折った。前に倒れて、床に両手をついて息を吐いた。

「しぶといな」

 ケレベクが立った状態でギョクハンを見下ろす。

「そういうの俺は好きだ」
「ナメんな!」

 低い姿勢のまま膝のばねで突っ込んだ。ケレベクの膝を抱え込んだ。ケレベクが「おっ」と声を漏らした。

 全身全霊、すべての力を出し切る。
 今日はこのまま力を出し尽くして倒れてもいい。
 明日生きていれば構わない。
 明日ワルダに――ザイナブのもとに帰れるなら、何でもする。

 ケレベクの体を、肩にのせ、抱え上げた。
 腿を腕にのせることさえできれば、あとはケレベク自身の重さで地面に落ちる。

 重い音がした。ケレベクが頭から後ろの床に落ちた音だ。

 振り返った。

 ケレベクの頭がわずかに緞帳の外に出ていた。首を押さえながら、「やるな、小僧」と笑う。

「一本先取だ」
「……は?」
「二人分やるんだろう」

 ゆっくり、立ち上がる。

「もう一本だ」

 自分が言い出したことだ。ギョクハンは拳を握り締めて構えつつ、「ああ」と頷いた。

「もう一本。やってやる」

 ケレベクが咆哮を上げながら突進してきた。
 ギョクハンは右足を持ち上げた。
 ケレベクの顔面、左の頬を足の親指の付け根で蹴った。

 入った。

 ケレベクの体が一瞬硬直した。

 右の拳を振った。
 ケレベクの頬にめり込んだ。
 ケレベクがうめいた。

 すかさず左膝を曲げてケレベクの顎の下にめり込ませた。

 決まった。

 胸を両手の掌底で突いた。ケレベクにされたことのお返しだ。

 ケレベクが、あおむけに、後ろに倒れていった。
 ケレベクの頭が、緞帳の外についた。

 ギョクハンはまっすぐ立ち、ケレベクを、見下ろした。

「二本。取ったぞ」

 後頭部を打ったせいだろう、ケレベクの右目はしばらくおかしな動きをしていたが、一度まぶたを下ろし、しばらく待ってから開くと、ギョクハンをまっすぐ見た。

 ケレベクが大きな声で笑った。

「答えが出たな、小僧」

 ギョクハンは目を丸くした。

「一本軸の通った人間は――信じるものを信じられる人間は、強いだろう」

 ケレベクが、ゆっくり、上半身を起こす。

「速い。なかなかのもんだ。それでいてよく吸収する。若いってことだな」

 構成員たちが近寄ってきて、左右からケレベクの脇の下に腕を通し、抱えるように持ち上げて起こした。ケレベクが「よいしょ」と言いながら二本の足で立った。

「お頭」

 構成員の一人が短刀を抜く。

「始末しやしょうか」

 ケレベクはすぐに「やめとけ」と言った。

「言い出したのは俺だ。約束は守る。俺は威勢のいい若者が好きでな」

 彼は構成員が差し出した上着に袖を通した。

「戦えギョクハン。最後まで。抗え。信じるもののために」
「……はい」

 ギョクハンが答えると、ケレベクは「どれ」と呟いた。

「行くか。お前も服を着て支度しろ」
「どこへ?」
「宮廷で今一番の実力者。会いに行くんだろう」

 右目を細める。

「会わせてやる。大宰相ワズィールウスマーンだ」

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第1話:https://note.com/hizaki2820/n/n89f5265cb651
第2話:https://note.com/hizaki2820/n/na259090eced5
第3話:https://note.com/hizaki2820/n/n96ac939f9f93
第4話:https://note.com/hizaki2820/n/nbf0442a02e54
第5話:https://note.com/hizaki2820/n/n104eb033687c
第6話:https://note.com/hizaki2820/n/nae52720cea71
第8話:https://note.com/hizaki2820/n/ne2429db3aba3
第9話:https://note.com/hizaki2820/n/n3b8d92fa23e6

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