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狼の子と猫の子のアルフライラ 第3夜:100万ディナールの超高級奴隷
1
夜明けとともに出発した。涼しい朝のうちに移動して次の緑地に向かうつもりだった。
行けども行けども砂の海が続くばかりだ。
そのうち自分たちがどこにいるかもわからなくなってきた。
ワルダを出てからは太陽を目当てに南下していればよかったが、途中わけのわからないところで東に行ってしまった分、距離感を失ったのだ。
まして目の前に広がるのは果てなき砂漠である。ギョクハンはだんだん自分が本当に無事次の街へ向かえているのか不安になってきた。
食料も底が見えてきた。
ファルザードが川で自分の分を落としたので、ギョクハンの分を分けなければならなくなったからだ。あと二日はもつはずだったのに、今日で終わりそうだった。
いっそファルザードをここに置き去りにできたら、という思いが何度も何度も湧き上がった。本気で見捨ててしまえれば楽になれる気がした。
だが、ファルザードを見失うたびに、ザイナブの顔がちらつく。
ギョクハンはファルザードが遅れるたびに何度も立ち止まった。
ファルザードはあれ以来ギョクハンに話しかけてこない。おとなしく黙々とギョクハンの後ろをついてきている。少しうつむき、時々白馬に声をかける。さすがにこたえたらしい。その様子を見ていると罪悪感が頭をもたげてくる。
ここで放置して飢えと渇きに苛まれたら可哀想だ。いっそ首を掻き切ってやればいいのではないか――慌てて首を横に振ってそんな考えを振り払った。
自分も疲れているのかもしれない。こんな砂漠の真ん中で食料もなくどこにいてどこに向かっているのかもわからないのでは不安なのかもしれない。強い男であらねば、と気を引き締めた。
顔を上げた、その時だった。
前方遠くに白い点が動いているのが見えた。それも複数だ。
何かが列をなして砂漠を歩いている。
ギョクハンは黒馬に少し速足をさせて白い点に近づいた。
「人だ」
らくだに乗った人間が数名、隊列を組んで歩いている。
「ファル!」
後ろを振り向いてファルザードの名前を呼んだ。ファルザードが顔を上げた。
「人がいる! 食べ物を分けてもらえるかもしれない!」
そう言い終わるや否やのところで、ギョクハンは駆け出した。ファルザードが「待って!」と言ったが聞かない。
「すみませーん!」
白い点に見えた人々は、砂漠のカリーム系遊牧民の衣装である白くて丈の長い服を着た男たちであった。頭にも白い布をかぶった上で黒い輪をのせている。砂漠のカリーム人特有の頭巾である。
人間は全部で十一名、らくだは全部で十九頭だ。
彼らはすぐに立ち止まって振り向いてくれた。
「隊商ですか」
「そうだよ。これから西の街シャジャラに行くんだ」
シャジャラはギョクハンの目的地でもあった。
「君たちは? 馬で旅行かい?」
「そうです、シャジャラを経由してヒザーナに行こうと思ってて」
男たちが顔を見合わせた。
「君たち二人だけで?」
「はい」
「それは、大変だ」
そして、微笑んだ。
「よかったら一緒に行かないか? 若者二人だけでは不安だろう」
「俺たちはもう何年もシャジャラとイディグナ河沿いの港町を行き来していて、このへんに慣れている。案内してあげるよ」
急に目の前が明るくなった気がした。
「いいんですか!?」
「ああ。砂漠では助け合わないとね」
先頭にいた男がこちらを向いて近づいてきた。顔の下半分をひげで覆ったその男は、体格がよく、表情も笑顔で、ギョクハンの目には頼もしく映った。
「君、名前は?」
「ギョクハンです」
「僕はファルザード」
「どこから来たんだい?」
「ワルダです」
「へえ、ワルダか」
ファルザードがギョクハンに「ちょっと」と声をかける。ギョクハンは首だけを回してファルザードのほうを向いた。
「何だ?」
ファルザードは険しい表情をしていた。何か気に入らないことがあるらしい。だが何も言わない。言いにくいことだろうか。
ギョクハンは無視することにした。ファルザードのわがままは聞き飽きた。だいたい彼のせいでこんなに苦労をしているのだ、ギョクハンがしようとしていることに口を挟まないでもらいたかった。
「ワルダは今ナハルと揉めていて大変だろう。よく出てこられたね」
「はい、なかなか、いろいろありましたけど。ご主人様にヒザーナへ行って状況を連絡するようにと言われまして」
「えらいな。それもたった二人でか。よくやるなあ」
男はらくだの向きをもといたほうへ戻してから、「ついでおいで」と言ってくれた。
「うちは一人や二人増えたところで特にこれといったことはないから安心しなさい。水も食べ物もある。シャジャラもあと一日二日でつくところだ。大丈夫だよ」
ギョクハンは素直に「はい」と答えた。
らくだたちがギョクハンとファルザードの周りを取り囲む。そしてゆっくり歩き出す。
「やあ、少年たち」
斜め後ろから声をかけられた。
振り向くと、そこに一人だけ遊牧民の白い衣装ではない青年がいた。
白い立て襟の襯衣、派手な濃緋色の刺繍の入った胴着を着た上で、臙脂色を基調としたやはり派手な帯を巻いている。下は青と黄の縦縞の筒袴だ。頭には、都市のカリーム人の巻布とも砂漠のカリーム人の頭巾とも違う臙脂色で幅広の帯状の布を巻いていて、癖の強い黒髪が見えていた。
ギョクハンにとっては馴染みのない恰好だが、おそらく、北方の山岳民族の衣装だ。
年の頃は二十歳すぎくらいだろうか。人懐こい笑顔を浮かべている。ひげを生やしていないので涼しそうにも見えるが、見慣れない恰好のせいかギョクハンはどことなく怪しげだと感じてしまった。
「おつかいえらいね! 君たちはよくがんばっているよ! あのワルダから脱出してきてここまで二人だけでなんて、よく来たねっ、よくがんばっているねっ!」
「はあ、どうも」
「えーっと、ギョクハンくんとファルザードちゃんだったかなっ?」
ファルザードがおもしろくなさそうな顔で「ファルザードくんです」と言った。どうやらこれでも男としての自覚のようなものはあるらしい。青年が明るく笑って「おっと、ごめんごめーん!」と言う。
「僕はジーライル。よろしくねぇ!」
「ジーライル……」
何語だろう。聞き慣れない響きだ。やはり北方の山岳民族に違いない。
青年――ジーライルは一人で話し続けている。
「いやあ、僕はナハルから来たんだけどさ、ナハルは今ひどいんだよ! 兵隊さんのせいで物価が上がっちゃって何にも買えない! もともとはナハル近郊の遊牧民から羊毛を仕入れてアシュラフ高原方面に売ってアシュラフ絨毯になったものをまたカリーム砂漠方面に売る仕事をしていたんだけどさ、綿畑の奴隷まで軍隊に駆り出されたとかでぜんぜん種蒔きどころじゃないんだ。治安がヤバすぎ! こりゃあ商売あがったりだね! まあナハルを離れてやり取りすればいいんだけどさ! 僕ほど器用な人間ならその程度の転職大したことじゃないんだけど何となく顧客に悪いじゃないか! ワルダも荒れてるんじゃイディグナ河流域はもうだめかもね! 南方の海の真珠を仕入れるか東方の山の宝石を仕入れるか……、いやー、いずれにしてもちょっと貯金しなきゃだねー、そう思うとめんどくさいねー!」
とんでもなくよくしゃべる男だ。
ギョクハンは無視することに決めた。
ファルザードは「はあ、そう、はあ……」と適当に相槌を打っているが、彼もたぶんジーライルを面倒臭く思っている。
ジーライルは嫌がられていることに気づいていないのか、気づいていても気にしないのか、一人でどんどんしゃべり続けている。ほとんど彼がどこでどんな商売をしてきたかの話だ。
「とにかくナハルはもうだめ! 撤退!」
どうでもよかった。
2
隊商の人々が用意してくれた小さな天幕の中で、ファルザードとジーライルがしゃべり続けている。
最初は面倒臭そうな顔をしていたファルザードだったが、話を聞いているうちにだんだんほだされてきたらしい。ギョクハンは今でもジーライルが鬱陶しくてまったく相手にしていないが、ファルザードはジーライルにあれこれと質問を始めた。
「ジーライルはどこの出身なの」
「僕はジョルファ人だよぉ。でもいろいろあって故郷を出てもう何年も経つ。今の拠点はヒザーナだからどこに帰るのかと聞かれたらヒザーナと答えるけど」
「ジョルファ人かあ、なるほどねー! ジョルファ商人なんだね」
「そういうことさ。まあ任せておくれよ、僕はジョルファ語カリーム語アシュラフ語ユーナーン語ができる、これだけできれば世界のどこに行っても商売ができるよね」
トゥラン語ができないのでは、と思ったが何も言わなかった。ギョクハンの故郷の草原は見渡す限り何にもない辺境だ。ジーライルの言うとおり、この大陸で商売をするならカリーム語とアシュラフ語ができれば十分だった。
ジョルファ人とは、予想どおり、北方の山岳部に住む異教の民族のことだ。しかしギョクハンの知り合いには一人もいないので、民族名と大雑把な本拠地以外のことは知らない。ファルザードは何かに納得したようだったが、ギョクハンは何もぴんと来なかった。
ギョクハンは会話にまったく参加していない。同じ天幕の中にはいるものの、床代わりに敷いている安物の絨毯の上に寝転がった状態で二人には背中を向けていた。昼食をとってからずっとこんな姿勢でうたた寝を繰り返している。
外は快晴の午後だ。殺人的な日光が砂を焼いている。隊商の人々は日が暮れてから再出発すると言っていた。それまで少しでも体を休ませておきたい。なのに、ファルザードとジーライルがあまりにもうるさくて熟睡できない。よくも中身のない話題でしゃべり続けられるものである。何度か文句をつけたがジーライルに「嫌なら出ていってくれてもいいんだよーん」と言われてギョクハンは諦めた。
「ファルちゃんはアシュラフ系かな?」
「そう、北アシュラフの湖のほうの出だよ。って言っても、もうワルダに連れてこられて三年になるんだけどね」
「やっぱりアシュラフ系は美人が多いよねぇ、ファルちゃんもこりゃまた絶世の美少年で」
「どうもー! そう、僕本当に可愛いからぁ。もっと言って!」
今朝はおとなしかったファルザードがもとに戻ってしまった。これを連れて歩くのだと思うと憂鬱だ。
「僕は両親ともアシュラフ人だよ。お父さんが礼炎教の神官だったんだ」
「ってことは本物の純血種なんだねぇ。血統書付きのアシュラフ猫、お高かったんでしょー」
「そりゃあもう。僕は百万金貨の超高級奴隷なんだよ」
「どれだけ稼げば買えるんだろ? まあ僕は旅が多いし一人旅が好きだから奴隷は一生買わないと思うけど」
「ジーライルは? ジーライルはやっぱりジョルファ正教?」
「ご明察!」
「このご時世でジョルファ正教は苦労するなあ」
「へっへっへーん! まあ僕は超有能な商人だから人頭税もちょちょいと払っちゃうよね!」
「異教徒ってだけで税金増えるのほんとしんどいよねー。僕は奴隷だから払ってないけどさ」
「真面目な話、ジョルファ正教も一神教で聖典の民だからそれほどヤバい感じじゃないよ。税金払えば文句はないみたいだ、棄教しろって言われたことはないね」
「ふうん……」
そこでギョクハンは体を起こした。
「ギョク?」
天幕の出入り口に手をかける。
「どこ行くの?」
「ションベン」
ファルザードも立ち上がり、「僕も行く」と言った。ジーライルが「行ってらっしゃい」と手を振る。
天幕の外に出ると、遠く西の地平線に日が落ちようとしていた。そろそろ出発の時間だ。
天幕から少し離れ、砂が丘状に盛り上がっているところを一度のぼりおりしてから、帯に手をかけた。
「ね、ギョク」
ファルザードは用を足す気配がない。斜め後ろからギョクハンを眺めている。
「なんだよ。お前はジーライルとおしゃべりしてろよ」
「ううん、もう二人で出ない?」
「二人で?」
水気を切りながら振り向いた。ファルザードは真剣な目でギョクハンを見つめていた。
「隊商のみんなは?」
「あの人たち、僕、あんまり信用できない」
ギョクハンは顔をしかめた。
「らくだに積んでいる荷物が少ない。港で買い付けをした帰りにしてはちょっと身軽すぎる」
「港で売ってからシャジャラに帰るところなのかもしれないだろ」
「見ず知らずの人間に水と食料を譲るなんてさ」
「ひとの善意を踏みにじること言うな」
「短剣の他に長剣を差してる」
「隊商が何のために集団になると思ってるんだ、協力し合って盗賊とかから身を守るためだろ。そんな常識も知らないのかよ」
袴を直し、帯を締める。しゃがみ込み、砂で手を洗う。
「お前みたいな足手まといと二人きりは俺だってしんどい、ジーライルがお前の相手をしてくれるんなら万々歳だ」
「そんな言い方――」
言いかけてから、ファルザードはうつむいた。
「そうかもね。本当に盗賊に襲われた時戦うのは結局ギョクなんだし、ギョクが楽なほうでいいよ……」
話しているうちに声が小さくなっていく。そんな姿を見ていると少し心が痛む。いじめている気分になってしまうのだ。
だが、ギョクハンも自分自身の身の安全、ひいてはザイナブの身の安全がかかっている。ここでファルザードに負けるわけにはいかない。
「ジーライルこそ怪しいだろ、あんなべらべらしゃべってて胡散臭いこと無限大。ついでにジョルファ人って何なんだ? ワルダ城にはいなかったよな」
「うーん、僕もジーライルのこと全面的に信用してるわけじゃないけど。ジョルファ人っていうのはね――」
言葉が切れた。
ファルザードの目がギョクハンから離れて少し遠くを見やった。
「……ギョク」
「何だ?」
「あれ、何してるんだろ」
ファルザードの視線の先をたどった。
ギョクハンは目を丸くした。
砂丘の向こうで、隊商の白い服を着た男たちがそれぞれ二人ずつ四人で、黒馬と白馬を引きずって西のほうへ行こうとしていた。
馬たちは抵抗しているが、細かな砂の上では踏ん張りがきかないのか、ずるずると引きずられて少しずつ動いている。
男のうちの一人が何かを振り上げた。
鞭だ。
鞭で黒馬を叩いた。
黒馬が甲高くいなないた。
「カラ!!」
「待ってよ!」
ギョクハンは駆け出した。ファルザードもついてきた。
「何しやがる!」
ギョクハンが近づいてきたことに気づいたらしく、男たちが振り向く。
「バレたか」
男たちが一斉に長剣を抜く。
「お宝を持って歩いてる君が悪いんだよ。君にはもったいない」
馬たちが暴れ出す。男たちが鞭で馬たちを叩く。黒馬の尻に血がにじんだ。
「上等なカリーム馬だ。黙って譲ってくれたら命まではとらない」
「お前ら、まさか、盗賊団か。隊商じゃなかったのか」
男たちは笑った。
「俺たちは昔から商品をこうして調達してきたんだ。俺たちはそういう隊商なのさ」
ギョクハンは腰の刀に手を掛けた。
「カラに手を出すな。殺す」
「やれるもんならやってみな」
刀を抜いた。
3
ギョクハンが二振りの刀を抜いたのを見て、周囲の男たちは少し驚いたようだ。
ある男の剣の切っ先が揺らいだ。
その隙を突いた。
狙ってその男の間合いに踏み込んだ。
右の刀で左手首を、左の刀で右手首を斬り、跳ね飛ばした。
男の絶叫が夕暮れの砂漠に響いた。
「何だこのガキ!?」
右の刀を横に薙ぐ。両手首を失った男の首を刎ねる。男の胴体と頭が別々に砂の上へ転がった。
男たちがひるんだ。
さらに一歩踏み込んだ。右側にいた男の背中を右の刀で斬りつけた。男の悲鳴が上がる。
馬たちもギョクハンに呼応した。
まず動き出したのは白馬のほうだった。白馬は突如いなないて後ろ脚二本で立ち上がった。手綱を引いていた男が驚いて手を離した。それとほぼ同時に体の向きを変え、後ろ脚でその男を蹴り飛ばした。ギョクハンはその蹴り飛ばされて砂の上に転がった男の胸元に刀を突き刺した。
黒馬が駆け寄ってきた。ギョクハンは身を翻して黒馬に飛び乗った。
走る。
逃げようとする男の背中を前脚で踏みつける。
地面に倒れたところを再度踏んだ。
男は潰れた声を上げ、一度手足をびくつかせてから沈黙した。
四人とも仕留めた。
そう思ったのだが――
「動くな!」
振り向くと、隊商の隊長だと名乗った男が、ファルザードを後ろから抱え込んで、その細い首に長剣の切っ先を向けていた。
ギョクハンは舌打ちをした。
ファルザードが人質に取られた。
またファルザードに足を引っ張られる。
このまま見捨ててしまってもいい気もしたが、せっかくナハル兵から守ってここまで連れてきたファルザードを盗賊だか何だかの得体の知れない集団にやられるのは少し悔しい。
隊長とにらみ合う。
「貴様ら盗賊だったのか」
隊長改め盗賊団の頭領は笑った。
「一応言い訳をしておこう。俺たちは商売も真面目にやってる。隊商《キャラバン》なのはまるっきり嘘ってわけじゃない」
「盗品を売る商売だもんな」
思わず唸ってしまった。ファルザードが正しかったのだ。水と食料を与えられて素直に信頼を寄せてしまった自分が情けない。餌を与えて獲物をおびき寄せるのなどよくある狩りの手法だ。
「俺はどうしたらいい?」
あえて訊ねた。ファルザードを人質に取られている以上へたに動いてはいけないと思ったのだ。
「何をしたら貴様らは満足する? 馬か」
「馬も、荷物も全部置いていってもらう」
そして、ファルザードの豊かな黒髪に頬を寄せる。
「この子もだ」
予想外のことに、ギョクハンはつい目を丸くしてしまった。
「え、ファルを引き取ってくれるのか?」
「いらないのかな?」
「馬はやれないけどファルはやってもいいな」
ファルザードの表情が泣きそうにゆがんだ。さすがに胸が痛んだので慌てて「冗談だ」と言った。
頭領が、ファルザードの髪に頬擦りしながら、剣を持っていないほうの手でファルザードの顎をつかんだ。ファルザードに顔を持ち上げさせた。
「アシュラフ産の美少年だ。そっちが好きな人間に高値で売れるぞ」
ぞわりと鳥肌が立った。
男の舌が、ファルザードの目元をなぞる。
「その前に、ちょっと味見しちゃおうかな……」
顎をつかんでいた手が、ファルザードの薄い胸を撫でる。その手の動きには汚らしい欲望の存在を感じる。
ギョクハンは今の今まで考えていなかった。ファルザードは少し小ぎれいなだけの自分とさほど変わらない少年だと思っていた。
なぜ気づかなかったのだろう。
美しい少年は性の対象になる。
気持ちが悪い。
ファルザードが硬直している。目を丸く見開き、自分の顔にかかる男の吐息を嫌悪して唇を引き結んでいる。
ギョクハンは刀をしまった。
その行動を、諦めだと取ったのだろうか。頭領の周りにいた男たちが、静かに歩み寄ってきた。
弓袋から弓を引き抜いた。
男たちが固まった。
矢をつがえた。
頭領に向かって放った。
頭領の左の眼球を射抜いた。
絶叫が響いた。
手が離れた。ファルザードが解放された。
「逃げろファル! 天幕のほうに行け!」
ここに頭領とその配下の者五人、死体が四つ、合計十人いる。これで全員のはずだ。天幕《テント》の群れに盗賊が潜んでいる可能性はない。
ふたたび矢を放った。頭領の近くにいた男の胸に突き刺さった。男が倒れた。
「セフィード!」
何もせずに突っ立っていた白馬の名を呼ぶ。
「お前ファルのほうに行け!」
白馬も賢い。ファルザードのほうへ向かって駆け出した。そのうちファルザードと並んで、彼のために立ち止まった。ファルザードがよじ登るようにして馬の背にまたがる。
白馬が走り出すと、徒歩の盗賊たちはついていけなくなった。彼らはまだファルザードを捕らえようとしていたようだったが、ギョクハンがさらに矢を放ったのでその場で絶命して転がった。
二人がなりふり構わずギョクハンに向かってきた。ギョクハンは左手に弓を持ったまま右手で一振りだけ刀を抜いた。
まずは一人目と剣を合わせ、弾き飛ばす。
返す手で首を切り裂く。
たじろいだ二人目は、脳天に刀の柄の尻、頭金を叩きつけた。
頭蓋骨の砕ける音がした。
ファルザードが天幕にたどりついた。
ギョクハンははっとした。
天幕の群れの中にジーライルが立っていた。
彼は腕組みをしてこちらを眺めていた。
ジーライルも盗賊団の一人なのだろうか。
彼は丸腰だ。しかもファルザードは馬に乗っている。すぐにどうこうなるとは思わなかったが、念のためギョクハンは急いで黒馬に乗ってファルザードの後を追った。
ファルザードとギョクハンの間に、盗賊団の最後の一人がいた。彼は自分の両足で走っていた。ファルザードを捕まえようとしたのか、天幕に戻ってから逃げようとしたのか、定かではない。
「ジーライル!」
男が叫んだ。
ジーライルは涼しい顔をしていた。
「お前、何を見てるんだ! 協力しろよ!」
男がジーライルに駆け寄る。
ギョクハンは目を丸くした。
ジーライルが男に腕を伸ばした。
男の腕をつかんで引き寄せ、自分の肩の上に持ち上げた。
ジーライルの肩の上で、男の腕が本来ありえない方向に曲がった。
男の叫び声が上がった。その場に崩れ落ちた。
ジーライルはやめなかった。
男の首に後ろから腕を回した。
力を込めた。
男の首が、音を立てて、折れた。
男が泡を吹き、力なく舌を出した状態で、沈黙した。
ファルザードが、立ち止まった。ギョクハンも、立ち止まった。
ジーライルは、微笑んだ。
「お見事! ギョクくん、君、強いね! 僕何にもすることなかったよ! いやぁ、助かるなぁ!」
その声は明るく陽気で能天気だった。
4
ギョクハンはジーライルをにらんだ。ジーライルは手を振った。
「嫌だなぁ、そんな怖い顔しないでおくれよ」
笑顔のままだった。
「お前、何者だ?」
ジーライルが肩をすくめる。
「ただの絨毯商人さっ!」
「嘘つくな」
腰の弓に手を伸ばした。
「あー待って! 待って待ってそれだけは待って!」
ジーライルが大きな声を出す。
「僕の来歴はさんざんしゃべったじゃないか!」
今度はファルザードが「そう言うけどさ」と顔をしかめる。
「僕、ずっと、気になってたんだよね。ジーライル、いろいろ教えてくれるけど、全部この一、二年の話だな、って。ジーライルの身元に関すること、僕が訊いてからでしょう? ジョルファ人で、ジョルファ正教徒――そのほかには何にもわからない」
あれだけしゃべっていたファルザードがそう言うのなら、なおのこと怪しい。
とはいえ、ジーライルは丸腰だ。素手でも大の男を殺せる力と技術を持っていることがわかったので油断はできないが、馬上にいる自分たちを簡単にどうこうできるとは思わない。
「話をしよう。僕の話を聞いておくれ」
ギョクハンは「聞いてやろうじゃねーか」と答えた。
「お前、盗賊団の一味じゃないんだな」
ジーライルが頷く。
「僕はある方に頼まれて盗賊団の動きを探っていたんだ。今回の盗賊団がどうこうという話じゃない、盗賊というもの一般の取り締まり、治安維持とでも言ったらいいかな? そのある方というのが帝国の立場のあるお方でね、帝国全体の治安がものすごく悪化していることを懸念なさっている」
「やっぱりただの商人じゃないんじゃないか」
「あー商人なのは本当。本当だよ。副業として密偵のようなことをしている。普段は本当に絨毯商人だ。信じておくれよ」
哀れっぽく言う声はやはり胡散臭い。どこまで本当かわからない。
「ただの絨毯商人がそんなに強いのか……?」
それについてはファルザードが答えた。
「だって、ジョルファ商人だもん。武術で盗賊くらい殺すよ。独力で商品を守るために戦闘能力を磨く武装商人の民だよ」
その説明を受けてジーライルが「そういうワケ」と微笑む。
「北方の高山地帯で心肺を鍛えて、山の街道沿いに現れる敵を格闘術で殺す――それがジョルファ人なんだよ」
ギョクハンは納得して頷いた。戦士であり兵士であるギョクハンは経済に疎いので知らなかったが、その筋ではきっと有名なのだ。
「ある方、というのは?」
「それは、今は言えない」
そしていたずらそうに笑って「あとで教えてあげてもいい」と続ける。
「帝国の、立場のあるお方だ。帝都にとても大きなお屋敷を持っていて、皇帝に口利きもできる。君たちが何のためにヒザーナを目指しているのかは知らないけど、仲良くしておいて損はないんじゃない?」
思わず唸ってしまった。ザイナブの手紙が読めなくなってしまったことを思い出したのだ。ザイナブの使者であることを証明できない今の状態では皇帝に近づける自信がない。
「ほらほら、僕と仲良くしたくなーる」
ファルザードがこちらを見た。
「ジーライルの言うとおり、皇帝に近い立場の人と知り合えるのなら、多少の危険は取るべき――かな」
「そんなぁ! 僕は優しくて誠実なお兄さんだよ!」
ギョクハンは、仕方なく、頷いた。
「で。仲良くって、具体的に何をすればいい?」
ジーライルがギョクハンに歩み寄ってきて「やったー」と言う。そして、黒馬に手を伸ばし、勝手に馬の首を撫でる。ギョクハンは黙ってそれを受け入れた。
「まずは一緒にシャジャラに行こう。シャジャラには僕が案内する」
「まずは、って?」
「シャジャラを経由してヒザーナに行くんだ。連れていってあげるねっ! ただ、ヒザーナに行く前にシャジャラでしたいことがあるんだよね」
そして人差し指を立てる。
「ギョクくん、君の腕をかって頼みたいことがある。ぜひとも助けてくれないかい? 君の力が必要なんだ」
「具体的に、何だ?」
「化け物退治さ」
ファルザードが「化け物?」とまたたいた。
「妖怪とも悪い精霊とも言われている」
ジーライルが明るい声で答える。
「シャジャラにね、夜、出るんだ。夜な夜な街に出没しては物を盗ったり女性を拉致したりする。奪われたものは、けして帰ってこない」
ギョクハンは顔をしかめた。
「それこそ、帝国軍とか、帝国の警吏の仕事なんじゃないのか?」
「化け物だからね。正体がわからないことには動けないんだよ」
手綱を離し、馬上で腕組みをした。
後押しするようにジーライルが「報酬は払う」と言う。
「今まで他にも何人かの腕利きに頼んできたんだけど誰も解決できない。それどころか、腕利きが死体で発見されたりなんかもしている。どうやら相手は鋭い爪を持っているようでね、胸を切り裂かれた状態で見つかるんだ。そういう人たちに払う予定だった報奨金をまるまるギョクくんに渡すよ」
「そんな危ないもの俺に押しつけようとしてるのかよ」
「ギョクくんほど強かったら何とかなるんじゃなーい?」
ファルザードのほうを見た。すぐに目が合った。
「ギョクならなんとかなるんじゃない? 強いし」
「お前までそんなこと言うのか?」
ジーライルが「ほらほら」と煽る。
「シャジャラの化け物騒動を解決してくれたら、帝国のえっらーい人を紹介してあげるよー?」
そう言われて、ギョクハンは、屈した。なにせ、自分たちの力で皇帝に近づかなければならなくなってしまったのだ。
「わかった。お前とシャジャラに行く」
ジーライルが両手を挙げて「やったー」と叫ぶ。
「そうとわかったら支度をしよう!」
きびすを返し、天幕のほうへ向かった。
「支度? 何をするんだ?」
「決まってるじゃないか」
振り向き、親指と人差し指で輪を作った。
「隊商の荷物をまるまるいただくのさ。金、水、食料、そして、なんとなんと! 彼らが今まで強盗で手に入れてきた財宝も手に入っちゃう!」
盗賊団よりよほど厄介な人間に捕まった気がしなくもない。
だが、ギョクハンの第一目的は、皇帝に会ってザイナブの状況を説明することだ。ジーライルが帝国の中央部に人脈があるというのなら、ザイナブのためにジーライルに従わなければならないのだ。
「……しょうがないよ」
ファルザードが溜息をついた。
「信じるしかないよ。どのみち僕らにはどうしようもないじゃない?」
ギョクハンは頷いた。
日が完全に沈み切る前に、ジーライルはらくだの背に荷物を全部のせた。そして、すべてのらくだを一本の縄につなぎ、器用にも一列にして歩かせ始めた。本当に隊商の財産を全部いただくつもりらしい。
こんなにしたたかな人間と知り合うのは初めてだ。
先が思いやられる。
続きへのリンク
第1話:https://note.com/hizaki2820/n/n89f5265cb651
第2話:https://note.com/hizaki2820/n/na259090eced5
第4話:https://note.com/hizaki2820/n/nbf0442a02e54
第5話:https://note.com/hizaki2820/n/n104eb033687c
第6話:https://note.com/hizaki2820/n/nae52720cea71
第7話:https://note.com/hizaki2820/n/nbdef5e931cf1
第8話:https://note.com/hizaki2820/n/ne2429db3aba3
第9話:https://note.com/hizaki2820/n/n3b8d92fa23e6
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