狼の子と猫の子のアルフライラ 第1夜:いってらっしゃい
あらすじ
ワルダは豊かな都市国家だったが、ライバル国ナハルに襲撃され、城を包囲されてしまう。城主ハサンは討ち死に。城主の娘のザイナブが城内にいる人々を鼓舞しているが、このままでは無謀な籠城戦に突入するのは明らかだった。そこで、ザイナブは帝都ヒザーナの皇帝に援軍を求める手紙を書き、ひとに届けさせることを決意する。使者として選ばれたのは二人の少年、ギョクハンとファルザード。ギョクハンは十五歳にして最強と呼ばれる軍人で、腕っぷしと弓の技量はピカ一だが、なんとなくぬけた性格。ファルザードはおしゃべりで小生意気な性格だが、とびきり賢い絶世の美少年だ。二人はザイナブへの忠誠心ゆえに砂漠を越えて旅をすることに。
1
その流れは、ギョクハンの目にはやけにゆっくりとして見えた。
槍の穂先がハサンの鎧の胸に突き刺さる。
突き抜ける。
背中から紅く濡れた穂先が生える。
槍の柄に体が沈んでいく。
二本目の槍が別の角度から伸びてきた。
このままではその二本目の槍もハサンの体を貫く――そうとわかっているのに、ギョクハンには止めることができなかった。
案の定、二本目も、今度はハサンの左の脇腹にめり込んだ。
間を置かず右の脇腹に突き出た。
その穂先も紅く濡れていた。
二本目の槍の勢いに押されたハサンの体は右に傾いた。
ハサンの口から液体がこぼれた。その液体の色は槍の穂先を濡らすものと同じ紅だった。
体重に引きずられるがまま、ハサンの体が地面へ落ちた。
槍から抜け、馬から転がり、大地へ倒れ伏した。
ハサンの体の周囲に砂ぼこりが舞った。
ハサンがやられた。誰よりも何よりも守らねばならない国主が刺された。
ギョクハンが功に逸ったせいで、だ。
先輩傭役軍人たちの言うことをちゃんと聞いていればよかった。先輩たちは、ギョクハンにくれぐれも前へ出るなと言い含めていたのだ。ハサンのそばに控えているようにと口を酸っぱくして言っていた。彼らの言ったとおりずっとハサンのそばにいればハサンを守れたかもしれなかった。
自分自身のための華々しい戦果より主君を守ることに力を注ぐべきだった。
馬の手綱を離した。弓を腰の弓袋に押し込んだ。
ギョクハンは腰に弓袋だけでなく刀も携えていた。鞘が革帯に固定されていて背中で交差している。
右手で左の鞘から一本、左手で右の鞘から一本、合計二本の湾刀を引き抜いた。
そして、それぞれ片手で構えた。
騎馬民族の戦士であるギョクハンは手綱を握る必要などない。内腿で馬を押さえたまま敵兵の中へ突っ込んだ。
ハサンを貫いた騎兵たちは馬からおりてきていた。きっとハサンの首を刈るためだ。剣を抜き、ハサンの体に手を掛けようとしていた。
そこにかなり離れたところにいたはずのギョクハンが反転して、猛烈な砂塵を巻き上げながら戻ってきた。
急なギョクハンの方向転換に驚いたようで、彼らはこちらを向いて一瞬動きを止めた。
その瞬間を、ギョクハンは見逃さなかった。
二人の間に跳び込んだ。
右手の湾刀で右にいた敵兵の首を、左手の湾刀で左にいた敵兵の首を刎ねた。
ふたつの首が勢いよく宙に飛び、二人の体が崩れ、倒れた。
噴水のように噴き上がる体液が乾いていた砂の大地を濡らした。
それまでギョクハンの相手をしていた敵兵たちが、ギョクハンの後を追っていた。
ギョクハンは右手で湾刀の柄を持ったまま手綱をつかみ、引き、右足のかかとで馬の腹を蹴った。黒い愛馬は賢くてギョクハンに忠実だ。自分がどうすればいいのか察して左を向いた。
駆け出す。
ふたたび手綱を離した。
まずは双刀を交差させて、その中心点で向かってきた剣を受け止めた。
右の刀で剣を弾き飛ばし、左の刀で敵兵の腹を刺し貫いた。
右の柄尻で胸を殴って、左の刀を引き抜く。
敵兵の体が後ろに傾き地へ落ちる。
次に向かってきた敵兵の左側に跳び込んだ。
右の刀の刃を首の付け根に食い込ませる。
同時に、左にいた敵兵の脇腹にも左の刀をめり込ませる。
二人とも手綱を握ったまま馬から転がり落ちた。
それから正面にいた敵兵に向かった。
ギョクハンの馬が少し頭を下げた。
鐙を踏む足に力を込めて、尻を浮き上がらせた。
右の刀を右上から左下へ、左の刀を左上から右下へ、勢いよく振り下ろした。
刀の交差地点に挟まれて敵兵の首が飛んだ。
ギョクハンの明るい朱の外套が重い紅に染まった。
敵兵たちはギョクハンの猛攻にひるんだようだった。彼らはまだハサンとギョクハンを丸く円を描くように囲んでいたが、誰も突進してこようとはしなかった。まさかひげも生えぬ若造のギョクハンがここまでの猛者だとは思っていなかったのだろう。少年傭役軍人と中年国主の組み合わせだ。首を獲るのは楽勝だと踏んでいたに違いなかった。
だからこそ、ギョクハンは悔しかった。
敵兵たちは自分を侮っていた。
今は自分を見ておびえている。
最初から自分が全力でハサンを守っていればこんなことにはならなかったかもしれないのだ。
ギョクハンの背後から矢が飛んできた。その矢は目にも留まらぬ速さでとある敵兵の胸に突き刺さった。
それを皮切りに、大量の矢が敵兵の上に降り注いだ。
敵兵が次々と落馬し事切れていった。
振り向くと、そこに味方の傭役軍人たちが並んでいた。彼らの強弓が敵兵たちを薙ぎ倒したのだ。
ギョクハンは奥歯を噛み締めた。
ここに彼らがいるということは、彼らは撤退してきた、ということだ。自分たちの君主がやられたことに気づいて、前線から戻ってきてギョクハンの助太刀をしたのだ。
一人が馬からおり、ハサンを抱き起こした。
「ハサン様! ハサン様、おわかりですか」
返事がない。蒼白い顔をして力なく腕を垂らしている。
その胸に開いた穴からはなおも血が流れ出ている。
一人がハサンの背後に回り、両脇に腕を回して抱え込んだ。また別の一人がハサンの足をつかんだ。二人がかりで抱えて、灌木の茂みに隠れてから、ハサンをゆっくり優しく地面におろした。
ギョクハンは刀を納めた。
今にも泣き出しそうなのをこらえて、ハサンたちのすぐそばに馬で駆け寄り、馬からおりた。
ハサンの胸はまだ上下していた。荒く一定しないが、一応息をしている。
しかしそう長くはもたないだろう。
ハサンの背の下は真っ赤に濡れ、ハサンを抱えている先輩傭役軍人たちの鎖帷子の上の外套も重い紅に色を変えていた。
「ハサン様」
ハサンのすぐそばにひざまずいた。毛皮の帽子を取って握り締めながらハサンに顔を見せた。
「ギョクハン……」
苦しそうだ。今にも息が止まってしまいそうだ。
「ギョクハンは無事か」
「はい、俺は――」
情けなかった。
大恩ある主君のハサンが重傷を負ったというのに一介の傭役軍人である自分が無傷、というのは、とてもではないが口に出せるものではなかった。
しかし、ハサンは目を細めて「そうか、元気か」と呟いた。
ハサンの血に濡れた手が伸びる。ギョクハンの、トゥラン人特有の細かく編み込んだ髪を、震える手で優しく撫でる。
「すまんなあ、お前の初陣を台無しにしてしまって……。お前にふさわしい活躍をさせてやりたかった……わしのお守りではなく……一番槍をさせてやりたかった……」
ハサンの上半身を抱えている先輩傭役軍人が「何をおっしゃいますか」と言った。
「ギョクハンほど強かったらハサン様を完璧にお守りできると思っての配置でしたのに」
ギョクハンは打ちのめされた。そういう先輩たちの配慮を無視して前に出ようとした自分の愚かさが胸に突き刺さった。
みんなギョクハンを信頼してくれてのことだったのだ。ギョクハンが十五の若輩だから控えていろと言ったわけではなかった。
みんなの期待を裏切ってしまった。
ハサンが力なく笑った。
「もうよい」
まぶたが、ゆっくり、おりていく。
「ギョクハン」
震える声で「はい」と答えた。
「わしのことはもうよい。ザイナブだけは」
その名を口にした瞬間だけ、ハサンの声に力がこもった。
「ザイナブだけは、そなたが全力で守るのだぞ。ザイナブだけは――」
そして、まぶたは、閉ざされた。
「ザイナブ……」
ハサンの手が、地に落ちた。
ギョクハンは絶叫した。
そんなギョクハンに声をかける者はなかった。
2
ハサンの亡骸を連れ帰ってきたトゥラン人傭役軍人たちを、カリーム人書記たちは罵倒した。
「何が草原の狼の末裔だ、ハサン様をこのような目に遭わせておきながらのこのこと帰ってきおって! 犬でも命を投げ出して主人を守ろうというものを、貴様らといったら――」
声は徐々に小さくなっていった。黒々としたひげを涙が濡らす。
「ハサン様がどれだけ貴様らに目をかけていたことか……! 何万金貨も出して、貴様らにカリーム語とカリーム文化のしきたりを教えてやって、食事をとらせて寝床を与えて、大事に大事にしてやったのに、それを仇で返されるとは――」
傭役軍人たちは何も言わなかった。普段だったら誇り高い彼らはこのような罵詈雑言など耐えられなかっただろう。けれど今は書記たちの言うとおりだと思っていた。
自分たちは大恩ある国主を死なせた。
その上特にこれといった目立つ首級を挙げることなく城に帰ってきた。
国主ハサンの愛した薔薇園のワルダ城は、隣国ナハルの国主ムハッラムの率いる敵軍に包囲されている。
この状況を自分たちの不甲斐なさが招いたものだと認めていた。
書記たちの男泣きが、広間を満たす。
「おやめなさい」
女の落ち着いた声が響く。
「いくら嘆いたところでお父様はもうよみがえらないのですから」
広間の中央、急ごしらえの寝台の上に寝かされた父ハサンに死に化粧を施しつつ、女――ザイナブが言う。
顔の下半分を面紗で覆っているので表情はわかりにくいが、目元はいつもと変わらぬ涼しい様子で、涙の痕は見えなかった。
「今後のことを考えましょう。この状況をどうやって打開するか、冷静に話し合うのです」
ギョクハンは気を引き締めた。実の父を失ったザイナブが気丈に振る舞っているというのに、鍛えられた戦士である自分たちが泣き喚いてはいけないと思った。
「ザイナブ様――我らが『勇敢なる月』よ」
書記の長が歩み出て、ザイナブのすぐそばに額《ぬか》ずく。
「どうぞ我らをお導きくださいませ。貴女様だけが頼りなのです」
ザイナブはその二つ名にたがわぬ勇ましい姿をしていた。鎖帷子をまとい、腰には短剣をさげた上で、頭に頭布を巻いている。はっきりとした眉に大きな目の縁を強調する化粧を施しているところは妙齢の女性のものだが、その存在感の大きさは父ハサンをもしのいだ。
「弱気なことを言うのではありません。まずはあなたたちがしっかりなさい。大人の男たちがそのような様子では皆が不安がるでしょう」
あたりの男たちを見回しながら立ち上がる。
「案ずることはありません。城には一年こもれるだけの蓄えがあります。今すぐどうこうということはありませんよ」
「籠城戦でござるか」
今度は傭役軍人の長が口を開いた。
「計算上は一年こもれるといえども市街には数万の民が残されており申す。庇護を求め城に殺到し城門では圧死する者も出るありさま、そう長くはもつまい」
ザイナブが応じる。
「冬になれば川の流れが変わります。彼らも撤兵するに違いありません」
傭役軍人の長が一歩分詰め寄る。
「今は春にござれば」
「まずはあなたたちが気を引き締めていまだ我々が屈していないことを示しなさい。最初の仕事は落ち着いて食糧を分け合うことです」
ギョクハンもまた一歩前に出た。
「打って出たいです」
ザイナブがギョクハンのほうを振り向く。
「俺がハサン様の仇を取ります!」
「ギョク」
「俺たち狼の末裔が全力を出せばどうということもありません! ナハルの連中を喰らい尽くしてムハッラムの奴に目に物を見せてやります、俺も今度こそ一番槍の役目を果たしてハサン様にムハッラムの首を供えたいです」
何人かの傭役軍人たちは「そうだそうだ」「ギョクの言うとおりだ」と賛同してくれたが、ザイナブは頷かなかった。
「絶対になりません。ナハル軍は総勢三千騎と言われています。対する我らワルダ軍は一千五百です」
ギョクハンは押し黙った。
「あなたたちは父が買った大事な命です、みすみす捨てる真似をするのはおやめなさい。城を守るのです。冬まで持ちこたえるのですよ」
しかし本当に半年以上も耐えられるのだろうか。ハサンという将を失って士気が下がっている。一応緘口令を敷いてハサンの死を隠してはいるが、知れ渡るのは時間の問題だろう。
もし城が落ちたら自分たちはどうなるのだろう。
ムハッラムはハサンに忠誠を誓った自分たちを殺すかもしれない。
あの男は残忍な人間だ。過去に別の城を落とした時には、城壁に串刺しにした兵士たちの遺骸を並べた、と聞く。
あるいは生かして転売したり自分の駒にしようとしたりするかもしれない。
いずれにせよ嫌だ。
もし、城が落ちたら――ザイナブがムハッラムのもとにくだることになったら、どうなるのだろう。
あの男のたくさんいる妻の一人に落とされるのだろうか。
下卑た笑みを浮かべてザイナブを辱めるムハッラムの姿を想像した。
絶対に、嫌だ。
ザイナブは男たちの熱気に押されなかった。なおも毅然とした態度で「許しません」と言い続けた。
「援軍のあてがないわけではありません」
男たちがどよめく。
「ならばすぐにでも――」
「ただし」
ザイナブの声は凛としていて美しい。
「今からナハル軍の包囲を突破して派兵を要請する必要があります」
嘆息が広がった。
傭役軍人の長がさらに一歩前へ出る。
「某が参る。必ずや援軍を引き連れてお戻りし申す」
ザイナブは首を横に振った。
「いいえ、あなたには任せられません。あなたには城を守る者たちを指揮する務めがあります。明日からあなたたちを城壁に配備します、各人のちほど伝達する配置につきなさい」
「では誰が?」
「人選は私が行います。皆心静かに待ちなさい」
そして、目を細めた。
微笑んだのだ。
その笑みが男たちをすっかり黙らせた。
「今日の戦闘で皆疲れたことでしょう。今夜はゆっくり休みなさい。皆の奮戦で向こうにも多少の損害が出ましたので、夜襲を仕掛けてはこないはずです。明日からの防戦に備えて、今は、ゆっくり休むのです」
傭役軍人たちは床に手をつく礼をした。ギョクハンも先輩たちに倣って頭を下げた。
ザイナブの優しい声、優しい笑み、優しい心遣いが身に染みる。
そして思うのだ。
この美しい月をナハル軍に渡してはいけない。ムハッラムなどに彼女を明け渡したくない。
夜が明けたら、ギョクハンも城を守るために城壁へ赴くだろう。そこから連中に向かって矢を放つなり大石を投げるなりするのだ。
長い戦いになりそうだが、ザイナブがいる限りがんばれそうな気がした。
3
その夜、ギョクハンは城の家畜部屋に呼ばれた。城の一階北側にある、ハサンとザイナブの馬を飼育している部屋だ。
ザイナブから言伝を預かってきた女官の言いつけどおり、ギョクハンは傭役軍人部隊の厩舎から一番大事にしている馬を連れてきた。
ギョクハンがこの世でザイナブの次に美しいと思っている大事な恋人――のつもりで世話をしている、真っ黒な毛並みの牝馬だ。
名をカラという。トゥラン語で黒い色を意味する単語だ。
背が高く四肢が長いカリーム馬と呼ばれる品種の馬だが、ギョクハンが傭役軍人としてハサンに買われた時にハサンがギョクハンのために買ってくれた馬で、なんとなく故郷の草原から一緒に買い取られたように思ったのである。
なぜ呼ばれたのだろう。
それも自分だけだ。
しかも馬を連れて、とは、いったい何をさせられるのだろう。
ギョクハンの胸は期待で躍った。
ひょっとして、自分はこれから援軍を求めに行く大役を負うのではないか。
ワルダ城を、ひいてはザイナブを救う重要な役目だ。その大事な任務を自分に授けられる、と思うと嬉しかった。先輩たちとともに戦えなくなるのは惜しいが、ザイナブのために別の戦いに赴くのだと思えば名誉なことだ。ハサンにも顔向けできる。
しかしそれならどうして家畜部屋なのだろうか。
城の裏手から家畜部屋に入った。
時刻は夜、すでに月が傾く頃だ。しかも家畜部屋には動物がいるので夜はおおっぴらに灯りをつけないのが原則である。ほんのわずか地下にめり込む出入り口は真っ暗で、ギョクハンは月光を頼りにおりていくしかなかった。
家畜部屋に入ると、奥のほうにぼんやりとした光がある。誰かが油灯に火をつけているらしい。きっとザイナブだろう。ギョクハンはその光を目指して歩いた。
「ギョク」
ギョクハンを呼ぶ優しい声は、やはりザイナブのものだった。
足元に油灯を置いた状態で、ザイナブがたたずんでいる。
丈の長い真っ黒な服を着ているが、飾り気のないところが逆に彼女のすらりとした体躯を強調しているようだ。面紗をつけておらず、花のかんばせがあらわになっている。形のよい鼻、穏やかに微笑む唇――その様子だけ見ているととても昼間の鎖帷子を着た女傑と同一人物とは思えない。優美で優雅な二十三歳の姫君だ。
「よく来てくれました。やはりカラが一緒なのですね」
ギョクハンは、久しぶりに見るザイナブの美しい顔にどきまぎして、思わずカラに身を寄せた。カラは鼻面でギョクハンを押し戻した。
「カラがギョクのそばについていてくれるのならば安心です」
そう言いつつ、ザイナブはかがんで足元の油灯に手を伸ばした。
「まず、ギョクに紹介しなければならない者があります」
油灯をかざす。
ザイナブの一歩後ろ左側、馬たちが並んでいる中に、人間の姿があった。
ギョクハンは一瞬目を奪われた。
夜の闇を溶かしたかのような黒髪は、長く伸ばされて一本に束ねられており、その毛先は緩やかな弧を描いている。幅の狭い鼻は高い。少し厚めの唇は肉感的でほのかな官能を思わせた。肌は滑らかで傷もあばたもない。華奢な手足は細く長く糸杉のようにしなやかだ。何より、大きなあんず形の目、二重まぶたの中に納まる黒真珠のような瞳は、炎の光を吸い込んで輝いている。
美しい。まるで猫のようだ。
アシュラフ地方が原産だという毛の長い猫を連想した。高貴な身分の人間にしか飼えない猫だ。
最初は少女だと思った。
だが、膝丈で前釦式の服を着ており、その服の下に穿いている筒袴の裾は長靴にしまわれている。
つまり、男の恰好をしている。
男装の麗人だろうか。
倒錯的で目眩がする。
「ファルザードです」
聞き慣れぬ甘美な響きの名は、おそらく、アシュラフ語だ。
「父の酒汲み奴隷をしていた者の中で一番の美人、聡明で機転の利くアシュラフ人です。年はお前のひとつ下、十四歳です」
麗人――ファルザードが、にこりと微笑んだ。その笑みの妖艶なことは邪悪ですらあり、美男美女の名産地として知られるアシュラフ地方の何たるかをギョクハンの心に刻み込んだ。まるで悪い精霊だ。
「酒汲み奴隷……」
聖典で酌婦がみだらだといわれているので、代わりに少年を置くのだ。主人に酒を注ぎ、食事の世話をし、雑務をこなす。選ばれた美しい少年にしか務まらない仕事である。
つまり、男の子なのである。
ギョクハンはがっかりした。絶世の美少女だと思ったが、正しくは、絶世の美少年だ。
細められた目がアシュラフ猫を思わせる。
「初めまして。ファルザードです」
まだ声変わりを済ませていない少年の声は甘くまろやかだ。
「で、ザイナブ様?」
ファルザードが可愛らしく小首を傾げる。
「何ですか、この、小汚いトゥラン人。百万金貨の超高級奴隷の僕は野蛮な傭役軍人のお相手なんかしませんよ」
前言撤回だ。可愛くも何ともない。生意気なクソガキだ。
「口が悪いですよ、ファル。百万金貨の超高級奴隷である自覚があるのならばもっとお上品にお澄まししていなさい」
ファルザードがつんと上を向く。
「嫌だなあ、僕、武力に物を言わせるような人と一緒にいるのは。ザイナブ様の身の回りのお世話をしてご奉仕したいです」
「ギョクは真面目ないい子ですよ。きっと仲良くなれます」
ギョクハンを指先で示して「紹介しますね」と言う。
「こちらはギョクハン。我が家の傭役軍人の若手で一番の期待の星、とても勇敢な十五歳のトゥラン人です」
ギョクハンはぶっきらぼうに「どーも」と言った。ファルザードは返事をしなかった。
次の時ザイナブが想定外のことを言った。
「お友達になりましょう」
彼女は楽しそうに微笑んでいる。
「二人、仲良くね」
「げえっ」
ファルザードが柳眉を寄せた。
合図したわけでもないのに、ギョクハンも、だった。
二人の潰れたような声が重なった。
「ちょっと、ザイナブ様、何をおっしゃいますか! 俺だってこんな奴と一緒にいるのは嫌ですよ、俺は軟弱な奴が反吐が出るほど嫌いなんです、女みたいな顔をしやがって、へらへらなよなよして! だいたいアシュラフ人とかいう連中は自分たちが優秀な民族だと思い込んでいて他の民族に対して偉ぶるって相場で決まってるんですよ、そんなののお守りなんて無理です、むり!」
「僕も硬派を気取っている奴なんか嫌いです! トゥラン人というのはね、男同士でつるんで群れて悪ぶってそんな自分たちを強くてかっこいいと思ってるんですよ! それからなんていったって頭の中身まで筋肉なんです! きっと乱暴なことをしますよ! 無理です! むりむり!」
「あら、なんだかもう仲良しみたいですね。気が合うようです。見事に正反対のことを言って、まるで二人とも同じことを言っているかのようですね」
ザイナブは機嫌がよさそうだ。最近戦争が続いて緊迫していたところなので、ザイナブが緊張せず穏やかに笑っていられるのはいいことだ、とは思う。だが、だしにされているようでおもしろくない。
「仲良くしてちょうだいね」
嫌な予感がした。
「これから二人で協力して帝都ヒザーナまで行くのですから」
4
ギョクハンは絶句した。
ファルザードも驚いているようだった。ただでさえ大きな瞳を真ん丸にして、唖然とした顔でザイナブを見ている。
ザイナブが、左手に油灯を持ったまま、右手で服の裾を膝の裏に入れるようにたたんで、その場にしゃがみ込んだ。
油灯の炎に、一本の柱が照らし出された。柱の根元に荷物が置かれている。分厚い布を巻いたものが二巻き、革袋の水筒が二個、おそらく硬貨が入っているのであろう重そうな布袋がひとつ、そして、象嵌細工の施された薄く平らな文箱がひとつだ。
ザイナブは、床に油灯を置くと、文箱を手に取った。ザイナブの両手に納まる程度の大きさである。
軽く開けて二人に見せる。暗いのでわかりにくいが、書状が入っている。
「援軍を求める請願書です」
ザイナブが、笑みを消し、真剣な表情を作った。
「お前たちはこれを持って帝都ヒザーナに行きなさい。そして皇帝サラーフ陛下にお会いしなさい」
「皇帝……!」
ギョクハンは思わず声を漏らしてしまった。
ワルダは帝国領の一部だ。ハサンは皇帝からワルダの地を与えられて統治していた。つまり皇帝はハサンの主君に当たる。
主君の主君にまみえる。
気の遠くなる話だ。一介の傭役軍人に許されることではない。まして皇帝は百万と言われる民の庇護者で数億金貨を動かす力をもつという。
ザイナブはなおも冷静な顔をしている。
「このたびの戦は皇帝の監督不届きが招いたことです」
言われてからはっとした。
ナハルも、帝国領の一部だ。ムハッラムも、皇帝からナハルの地を与えられ、皇帝の名のもとに領地経営を行っているはずなのだ。
それが勝手に周辺の領邦に攻め込んでいる。無断で領土を拡大しようとしているのである。
本来なら皇帝への謀反だ。
皇帝はムハッラムを抑えることができていない。皇帝の力が弱まっている。
「ですが、今ならばまだ間に合います。ワルダがナハル軍を引きつけている間に、皇帝の直属軍を動かすのです。ワルダと皇帝で挟み撃ちにすれば、あるいはムハッラムを討ち取ることができるかもしれません」
力強い声で断言する。
「私たちワルダの傭役軍人は、最強なのですから」
彼女の期待に応えなければと思う。
自分たちは本来そうできるだけの力を持っているはずだ。
ムハッラムが無計画に領土を拡大して獲得した烏合の衆と、ハサンが心血を注いで育て上げた精鋭部隊は、違う。
「皇帝は自らの威光をふたたび知らしめるためにもワルダを助けなければならないでしょう。皇帝がワルダを見捨てるのならば、ワルダもまたナハル同様に皇帝から離脱することを宣言します」
ファルザードが、先ほどの生意気な口とは打って変わって、震える声で言った。
「皇帝を恫喝するのですか」
ザイナブがふと笑った。その笑みは二人を安心させようとしているかのようだった。
「そんなに恐ろしいことではありません。皇帝サラーフ陛下は父と帝都の学院の同窓だったのです。私も幼い頃はずいぶんと可愛がっていただきました。陛下には私の多少のわがままを聞いていただけます。きっと父の仇も取ってくださいます」
長い睫毛を伏せる。
「そして、ムハッラムも。三人は同年代で、昔はとても親しかったのです。あなたたちが生まれる前の話ですが、ね」
ギョクハンは「なぜ」と問うた。
「それなら、どうして、ムハッラムは、ハサン様のワルダを攻めたり、皇帝のご威光を脅かしたりするんですか。ご友人だったのでは……?」
初めて、ザイナブの表情が曇った。
「私のせいなのです」
「ザイナブ様の?」
「サラーフ陛下は、陛下のご子息と私を結婚させたいのです。しかしムハッラムはてっきり私がムハッラムのもとに嫁ぐものだと思い込んでいたのですよ。ムハッラムは一方的に婚約を破棄されたものと思って、またサラーフ陛下に恥をかかされたと思って、憤っているのです」
ファルザードが「そんなの」と怒りをにじませた声を出す。
「ハサン様のせいではありませんか……! ハサン様がもっと早く皇帝とムハッラムと話をつけてザイナブ様の行き先を決めていたらこんなことにはならなかったんでしょう!?」
ザイナブがうつむく。
「私が、ワルダ城を離れたくなかったのです。私が私を女国主と呼んで慕ってくれる皆から離れたくなかったのですよ。父はそれを汲んで私を独身のまま自分のもとに留め置こうとしていました。私の咎です」
ファルザードもうつむいて沈黙した。
「私にとっては、父ハサンは、とても優しい親であり、偉大な庇護者だったのです」
それはギョクハンにとっても同じだ。ギョクハンにとってハサンは第二の父であり尊敬できる主君だった。
また、ザイナブも、ギョクハンにとっては、何にも替えがたい女主人であり、姉であり母であり、あこがれの存在でもある。
ザイナブが嫌だと言ったら嫌なのだ。
皇帝の息子――というとつまり皇子――だかムハッラムだかどちらでもいいが、ザイナブがワルダにいたいと言うのなら、ギョクハンは二人を押し退けてワルダで彼女を守る。
「承知しました」
ギョクハンは、頷いた。
「それを持って、皇帝に謁見します。ザイナブ様が皇帝からの援軍を求めていると皇帝に奏上します」
ファルザードが「でも」と呟くように言う。
「皇帝に救われるということは……、ザイナブ様は、皇子と結婚しなければならなくなるのでは……」
ファルザードに言われてから気がついた。ギョクハンは文箱に伸ばしかけた手を止めた。
「お前は本当に賢い子ですね」
ザイナブが悲しい笑みを見せる。
「でも、こうなった以上は仕方がありません。ナハル軍にワルダ城を渡すわけにはいかないのです。ムハッラムはあなたたちを捕らえて串刺しにして並べるに違いないのですから」
「ご自分を犠牲にされるのですか」
ギョクハンが問うと、ザイナブは首を横に振った。
「もしかしたら皇帝は父ハサンの後継者として私をこの城に残してくださるかもしれません。その一縷の望みに賭けましょう。今は私をちらつかせて皇帝直属軍を引き出すのが先です」
そして、彼女は「それにね」と笑った。
「私の婚約者の皇子様とやらは爽やかな美男なのだそうですよ。父と同世代のムハッラムよりは百万倍マシですね」
ファルザードもちょっとだけ笑った。
「納得してくれますか。承知してくれますか」
ギョクハンは改めて頷いた。
文箱へふたたび手を伸ばした。
ところがザイナブは文箱をファルザードに手渡した。
「……なんでですか」
「お前は少しがさつなところがありますからね。確実に物を届けたい時はこの子のほうがいいかと思って」
ギョクハンは衝撃を受けた。こんなことなら普段から宿舎の自分の部屋の寝台周りをきれいにしておくべきだった。ギョクハンは片づけというものが大の苦手で、掃除も洗濯も他人任せだったのだ。部屋の同僚たち、先輩傭役軍人たちも似たり寄ったりで、それが悪いことだとは思っていなかった。
ファルザードは酒汲み奴隷だ。ハサンの身の回りの細やかな世話もこなしていたのだろう。行動が繊細で気が利くに違いない。
ファルザードの華奢な白い手が文箱を受け取った。
次に、ザイナブは足元から小袋を取った。袋の中で硬貨がこすれ合うじゃらじゃらという金属音が鳴った。
「三百金貨あります。路銀にしなさい」
それも、ザイナブは、ファルザードに手渡した。ファルザードが妙に明るい声で「はーい」と素直な返事をした。
「え……あの……俺は……?」
「お前はファルの護衛ですよ。弓と刀があれば十分でしょう」
ギョクハンはあまりのことに沈黙した。ファルザードが鼻で笑った。
「そして、ファルには、この子も」
ザイナブが再度油灯を手に取り、高く掲げて光をかざす。
ファルザードのすぐ背後に白馬がいた。カラ同様背が高く四肢の長いカリーム馬だが、真っ白な美しい毛並みをしている。
「この子をファルに与えます」
ファルザードの手が馬の頬を撫でた。
「綺麗な馬……」
「賢い子ですよ、お前によく似ています」
ザイナブが「少し気位が高いところも」と言って笑う。
「名前はセフィード。アシュラフ語で、白い色、という意味です」
ファルザードは頷いた。
「よろしくね、セフィード」
白馬が鼻を鳴らす。
「頼みましたよ、二人とも」
ザイナブの細い右手が、まず、ギョクハンの細かく編み込まれた長い三つ編みを撫でた。それから、ファルザードの柔らかくふわふわとした髪を撫でた。
「いいですか、くれぐれも、無茶はしないように。ワルダ城は一年はもちますからね。急がなくていいので、慌てず、怪我をせず、それから仲良く。帝都へ行くのですよ」
「……はーい」
5
ワルダ城の裏口、東の門に通じる扉の周辺は、松明がこうこうと焚かれていて明るかった。ここからは曲がりくねった通路を行って城の裏門を出る。すると母なる大河イディグナのほとりに出る。イディグナ河はワルダ城の東側を守ってくれる天然の要害だ。その河を南下していくと帝都ヒザーナに着く。
「がんばれよ」
「負けるな」
先輩傭役軍人たちに次々と肩を叩かれた。ギョクハンは「はい」と威勢よく答えた。
「お前たちが帰ってくるまでワルダは俺たちが守る。信じろ。俺たちもお前たちを信じる」
「はい、全力を尽くします」
「間違えるなよ」
先輩のうちの一人が、右手を掲げるように差し出す。
「俺たちは草原の狼。砂漠のど真ん中で干からびて死ぬ筋合いはない。魂を捧げるべきは城でなく人だ。つまりザイナブ様だ。万が一のことがあった時には、俺たちはザイナブ様をお連れして逃げる。お前は、生きて、生きて、生き延びて、合流すること、あるいは――復讐することを考えろ」
ギョクハンも右手を掲げてその先輩の手を握り締めた。
「俺は、どこまでも、皆さんを捜して、走り続けます。ワルダ城はイディグナ河のほとりじゃない、ザイナブ様だ」
「よし」
先輩は左手でギョクハンの肩を叩いたあと手を離した。
白馬に乗ったファルザードが近づいてくる。傭役軍人たちが道を開け、白馬とファルザードを通路のほうへ通す。
松明の炎に照らされるファルザードの頬は滑らかで綺麗だ。黒真珠の瞳はまっすぐで、先ほどは軽口を叩いていたが彼なりに真剣であることを思わせられる。黙って澄ましているところを見るとやはり美しい。細密画のようだ。ずっとこうしていればいいのにと思う。
ファルザードが前に出ると、その後ろから、書記たちに囲まれ、彼らに松明を持たせているザイナブが、姿を現した。禁欲的に頭布を巻き面紗をつけているので表情はわからないが、その目は戦場にいるかのように鋭い。
「必ずや目的を果たしなさい。あなたたちの行いは、この国だけではありません、帝国の、ひいては大陸の平和にもつながるということを心得なさい」
ギョクハンもファルザードも、「はい」と答えた。
「先ほど私を連れて逃げるなどという発言が聞かれましたが、私一人の話ではないのです。百万の民にかかわることです。百万の民を救うものと思って、行くのです」
「はい!」
「けれども。まずは、生きて」
懇願するかのようだった。
「私の希望であり続けてください」
「……はい!」
ザイナブが「行きなさい」と告げた。
同時に、裏門が開く低い音が響いた。
「行ってきます!」
ギョクハンも黒馬にまたがった。ひらりと飛び乗り、手綱を引いた。
裏門に向かって駆け出す。
もう振り返らない――つもりだった。
「ちょっと、セフィード、言うことを聞いて」
情けない声が聞こえてきたので、ギョクハンは振り返った。
白馬がそっぽを向いて立ち止まっていた。
ギョクハンが怒鳴った。
「走れセフィード!」
ギョクハンの命令を聞いて白馬が急に走り出した。ファルザードが「ぐえっ」と潰れた声を出した。手綱を握っていなかったら後ろに落ちるところだった。本当に大丈夫なのだろうか。
ギョクハンはファルザードの後ろを走ることにした。二人きりだが、殿だ。強き者の務めなので仕方がない。
「……行ってきます」
少し遠くなったザイナブが念押しした。
「本当に、ファルをよろしくお願いしますよ」
ギョクハンは溜息をつきながら前に向き直った。
門を駆け抜ける。
門の外にナハル兵がいた。河と城壁の間の狭い河辺では隊列を組めなかったのだろう。馬に乗った兵士が一人ずつこちらに近づいてきている。おそらく松明がこうこうと燃えているのに気がついて寄ってきたに違いない。
ギョクハンの背後から矢の雨が降り注いだ。先輩たちが援護してくれているのだ。
ナハル兵が倒れる。
だが、ナハル兵は次から次へと湧いてくる。
「ファル、伏せろ!」
ファルザードが白馬の背に胸をつけたところで、ギョクハンは腰の弓袋から弓を取った。
すぐさま背に負っている矢筒から矢を抜いた。
構える。
つがえる。
放つ。
その一連の動作に迷いやためらいはない。父祖伝来の草原の弓術だ。獲物を確実に仕留める。
ナハル兵の喉元に矢が生える。喉を押さえながら倒れていく。
それでもまだいる。
ギョクハンはファルザードの前に出た。
弓を弓袋にしまった。
そして手綱を離した。
背中の刀の鞘に手を伸ばした。
右手で左の鞘から、左手で右の鞘から刀を抜いた。
まずは一人目、刀を平行に揃えて斜めに上から下へ斬る。胸から血を垂らして落馬する。
次に二人目、やはり刀を揃えたまま斜めに下から上へ斬る。今度は顎をすっ飛ばしてから落馬した。
それから三人目と四人目、刀を左右に構えたまま突っ込んで両側にいる敵兵の首元に刃をめり込ませた。二人分の首が宙に飛んだ。
ギョクハンがそうして切り開いた道を白馬が駆けてくる。振り向かなかったが、ひづめの音でわかる。賢い馬だ。
刀を握ったまま手綱をつかんで引いた。
「ついてこい!」
夜の闇を溶かし込んだ黒馬の後ろを、月の光を溶かし込んだ白馬がついてくる。二頭の馬が夜の河辺を駆けてゆく。
敵兵たちはそれ以上追撃してこなかった。もともと少数だった上に、城壁からは容赦なく矢の雨が降り注いでくるのだ。まして城から離れれば離れるほど暗くなる。ギョクハンとしてはまだやってもよかったが、ファルザードを守ることに専念しなければならなかった。
ハサンを守れなかった。
ファルザードは守らなければならない。
今度こそ、間違えない。
「朝まで駆けるぞ!」
ファルザードは返事らしい返事をせず、「うう」と苦しそうなうめき声を上げた。
ひょっとしてギョクハンの知らないうちに敵兵からの攻撃を受けて怪我をしたのだろうかと心配になって振り向いた。
だが、どうもそういう様子ではない。
ファルザードも振り向き、後ろを見ている。後ろを――敵兵たちの屍を、だ。
「びびってるのかよ」
ギョクハンが言うと、ファルザードは「しょうがないじゃないか」と答えた。
「もしかしたら僕らも死体になるかもしれないんだ」
そんなわけがなかろう、と思ったが、ギョクハンは言わなかった。ファルザードの甘ちょろい姿勢に同調してやる筋合いはない。
ファルザードはあくまでザイナブに預けられた存在だ。荷物と一緒だ。無事に帝都へ運べればいい。
そこから先、砂漠を行く二人と二頭を見つめるものは月と星だけだった。
続きへのリンク
第2話:https://note.com/hizaki2820/n/na259090eced5
第3話:https://note.com/hizaki2820/n/n96ac939f9f93
第4話:https://note.com/hizaki2820/n/nbf0442a02e54
第5話:https://note.com/hizaki2820/n/n104eb033687c
第6話:https://note.com/hizaki2820/n/nae52720cea71
第7話:https://note.com/hizaki2820/n/nbdef5e931cf1
第8話:https://note.com/hizaki2820/n/ne2429db3aba3
第9話:https://note.com/hizaki2820/n/n3b8d92fa23e6
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