狼の子と猫の子のアルフライラ 第2夜:ザイナブ様の大事なお手紙
1
朝が来てしばらく経ってから、ようやく小さな緑地を見つけることができた。
ギョクハンは休憩することにした。馬に水を飲ませつつ、自分も寝ようと思った。
この先は、次の街まで、日光を遮るものは何もない砂漠が続いている。名前がつくほど大きな緑地はない。見つけたところでこまめに休んでいくしかない。
まして今はファルザードというお荷物を抱えている。
井戸のそばに辿り着くと、白馬はファルザードを振り落とした。ファルザードが地面に落ちて「ぐえっ」と無様な声を上げた。ギョクハンは気にせず井戸から水を汲み上げた。
黒馬がギョクハンの手元の桶に顔を入れて水を飲み始める。白馬は黒馬に口づけをするかのような近さで桶へ同じように顔を突っ込んだ。
馬たちが水を飲み始めたのを見てから、ギョクハンは、井戸の周りに密集している椰子の木のうちの一本を選んで、根元に腰を下ろした。
ファルザードがよつんばいで近づいてきて、ギョクハンのすぐそばに突っ伏す。
「何なのその体力……化け物……?」
「お前とは鍛え方が違うからな」
水筒から水を飲む。あとで馬たちが満足したら自分も井戸から水を汲み上げて補充することにする。
「僕もう無理……内腿が痛い……」
「馬に乗ったことがないのか?」
「あるけど……、一応ひととおりの乗馬は教わったけど、こんな長時間乗り続けるなんて日常生活の中でなくない?」
「俺はもともと北方の草原で羊や馬を育てている部族の出だ。草原では日常生活でも移動は全部馬なんだ」
「騎馬民族の自分を基準にして行動しないでよ」
「だから今ここで休んでやってるんだろうが」
ファルザードはそっぽを向いて横向きに寝転がった。顔は見えないがぐったりとしているように見える。とんだお荷物だ。
ギョクハンが全力で馬を飛ばせば、ワルダからヒザーナまでは一週間もあれば行けるだろう。緑地を見つけるたびまめに休憩したり、ヒザーナとワルダの間にある街で宿泊したりなどしても、きっと十日ほどで十分だ。らくだとは違うので馬の水分補給は心配だが、ギョクハンの愛馬は我慢強い。
ファルザードを連れてこのままのんびり行くとすると、いったいどれくらいの日数がかかるのだろう。一ヵ月くらいだろうか。その間にワルダ城が落ちてしまわないか不安だ。
ずっとイディグナ河沿いを下っていっても、やがてヒザーナにたどりつく。
しかしイディグナ河は途中で湾曲するので、ギョクハンは砂漠を突っ切る直線距離を選んだ。
見渡す限り広大な砂の海になってしまうが、途中に大きな街がある。そこで食糧の補給もできるはずだ。それに、万が一戦闘になった場合、ギョクハンは砂地のほうがよかった。河のほとりは沼地になっていて馬が足を取られやすいのだ。
だが、ファルザードを見ていると、河沿いにちんたらと進んで常に木陰で休めるほうがよかった気もしてくる。
ここに置いていきたい気分だ。
けれど、他の誰でもなくザイナブが、ファルザードを連れて行け、と言った。ザイナブに背くわけにはいかない。
それに、ここに置いていったら、死ぬ気がする。さすがに自分が置き去りにしたせいで死なれると後味が悪い。
立ち上がり、白馬の背に積んでいる荷物の中から、分厚い布の巻き物と水筒を手に取った。巻き物を広げ、ファルザードに掛けてやった上で、ファルザードの顔のすぐそばに水筒を置いた。
「なんだ、優しいところもあるんだね」
「ザイナブ様が護衛をしろなんておっしゃらなかったら放置してる」
「ザイナブ様には忠実なんだ。狼っていうか、犬っぽい」
「馬鹿にしてるのか」
「どうしてそう卑屈なことを言うの? 僕はそれが悪いだなんて一言も言ってないよ」
「お前は猫っぽいな」
「こういう時に言われると悪口っぽいね」
「日陰でごろごろしてる」
「悪口じゃないか」
ファルザードが上半身を起こす。布を自分の体の下に敷く。
彼が水筒のふたを取る。薄紅色の唇が水筒の口に吸いつく。立ち襟の服の下、喉の中に水が流れていくのが見えそうな気がした。
「これから正午だ。真っ昼間に動くとこの季節でも死にかねない。日が落ちるまで昼寝するぞ」
素直な声で「やったー」と言う。よほど疲れていると見える。姫君でも連れている気分で動いたほうがよさそうだ。本物の姫君でもザイナブなら耐えられると思うが、と思うと悲しいが仕方ない。
馬たちは満足したらしい。適当にそのへんの草をむしって食べ始めた。
椰子の木の下が涼しい。乾燥した大地は日光を遮ると途端に過ごしやすくなる。ギョクハンも眠くなってきた。
「――王の中の王、カリーム諸王国のすべてを統べる者」
不意にファルザードが呪文のようなものを唱え始めた。
「アシュラフ帝国の正統な後継者にしてミスライムとトゥランとユーナーンとサカリヤの庇護者、二つの河を有し肥沃な土地を守る豊かなる者、神に選ばれ天下を治める者、正しく裁く者にして寛容なる者、栄誉と博愛の主、正しい導き手、神の恩寵を一身に受ける――」
見ると、ファルザードは文箱を開けて中の手紙を広げていた。
「ムブディの子のハミードの子のザーヒルの子、アブー・アズィーズ、皇帝サラーフ陛下。……ここまで全部皇帝のことらしいよ」
「なっが!」
しかしそうと手紙に書いてあるのだ。ザイナブはこれをすべておぼえているのだろうか。
「かの邪知暴虐のムハッラムが侵攻せしめるは我が父ハサンの統治したる薔薇の都ワルダ、慈悲深く叡智あるサラーフ陛下におかれては哀れなる小娘をお見捨てにならぬとのこと我確信せり。刮目されよ、ワルダ城の行く末、その先に見ゆる帝国の末路を。ワルダ城まさに落ちんとす」
そこまで読むと、ファルザードは手紙をたたんで文箱に戻した。
「すっごーい。手紙の半分以上皇帝の美称」
「それってひょっとしてヒザーナでは礼拝のたびに呼んでたりするのか?」
「ありえる。こっわーい」
「ワルダでよかった。ただでさえ礼拝の説教って長いのに――」
「あ、そんなこと言っちゃうんだ。ハサン様に買われてから改宗したんじゃなかったの? 不信心だね」
ギョクハンは押し黙った。
ファルザードが「冗談だよ」と言う。
「僕もおぼえる気ないから。……おぼえちゃったけど」
そこまで言うと、彼は「おやすみ」と言って黙った。
ギョクハンも自分の布を広げた。布の上に寝転がる。
椰子の葉が殺人的な太陽の光から自分たちを覆い隠してくれる。
ファルザードの肩が規則的に上下し始めた。眠ったらしい。
ギョクハンも目を閉じた。それまで自覚していなかったが、自分もそこそこ疲れていたらしい。昼間ナハル軍と戦って夜中はひと晩じゅう駆けた疲労が噴出した。あっと言う間に眠りに落ちてしまった。
2
頬に濡れた感触を感じて、ギョクハンはゆっくりまぶたを持ち上げた。
あたりはすっかり暗くなっていた。
慌てて跳ね起きた。
熟睡してしまったらしい。
頭上はすでに満天の空だ。天文に疎いギョクハンには今どれくらいの時刻なのかわからないが、半日近く眠ってしまったようだ。
ギョクハンを起こしたのは、彼の愛する黒馬だった。彼女は眠る主人の頬に鼻面を押し付けていた。ギョクハンが上半身を起こすと、今度はギョクハンの頬に頬を寄せた。
「ありがとな、カラ。お前は本当にいい子だ」
黒馬は何も言わない。ただ黙ってギョクハンに寄り添うだけだ。
一方白馬は相変わらず草を食んでいる。能天気なものである。
能天気といえば、こいつもだ。
自分の左側を見下ろす。ファルザードがまだ寝ている。ギョクハンは溜息をついた。
「おい、起きろ、ファル」
肩をつかんで揺する。ファルザードが秀麗な顔をしかめて「ううん……」と唸る。
「寒い……」
「当たり前だろ、もう夜だぞ」
春の砂漠の夜は冷え込む。日によっては暖房が必要になるほどだ。こんなところで火も焚かずに寝ていれば風邪をひくかもしれない。一刻も早く帝都に行きたい身としては、風邪などひいて弱っている場合ではない。
「夜のうちに移動する。急いで支度しろ」
そこまで言うと、ファルザードがようやく体を起こした。左の手の甲で眠い目をこする。
「そうだ、行かなきゃ」
一応自分が置かれている状況はわかっているらしい。ギョクハンは安心して立ち上がり、体の下に布団として敷いていた布を巻き始めた。
巻き終えた、その時だ。
何か、気配を感じる。刺すような、鋭い気配だ。
誰かが強い意識をもってどこかから自分たちを見ている。
殺気だ。
「――早く支度しろ」
そう言いつつ、ギョクハンは白馬の手綱を引いてこちらに寄せた。白馬は鼻を鳴らしながらゆっくり近づいてきた。緊張感のない馬だ。
黒馬はギョクハンの次の指示を待っておとなしく控えていた。ギョクハンは右手に白馬の手綱を持ったまま左手で彼女の頭を撫でた。
黒馬の背に荷物を積み、腰に弓袋と二振りの刀を携えてから、気配のするほう――星の具合から言って西のほう、井戸がある方角を見た。
「誰だ?」
問うてから気づいた。
一人ではない。複数だ。複数の人間がこちらを見ている。
左手を右の鞘の柄に、右手を左の鞘の柄にかけた。
「ギョク?」
ファルザードが呟くように問いかける。
「誰かいるの?」
次の時だ。
井戸の向こう側に、火が燈った。誰かが松明に火をつけた。真っ暗な闇の中に、数人の兵士の姿が浮かび上がった。
揃いの濃緑の外套をまとっている。
ナハル兵だ。
ナハル兵が、井戸をまわって、こちらに近づいてくる。
「朱の外套に双刀のトゥラン人――」
ゆらりと火が揺れる。
「お前、ワルダ城を抜け出した小僧だな?」
じりじりと、にらみ合う。
「何のためだ? まさかとは思うが、女国主から何らかの密命を受けているわけではあるまいな? 言え。ここで口を割ったら命だけは助け――」
途中でギョクハンは大きく一歩を踏み込んだ。刀を揃えて右斜め上に大きく振りかぶった。
井戸の手前にいたナハル兵が急いで剣を構えようとしたが遅い。
胸を切り裂いた。あたりに紅い花が散った。
「殺せ!」
後ろにいたナハル兵の一人が怒鳴った。
「外に放すな!」
ナハル兵が全員一斉に剣を抜いた。
一人が振り下ろした剣をギョクハンは右の刀で受けた。
同時に左の刀を振るう。
別の兵士の胸に突き刺す。
力任せに薙ぐ。
肉を断つ感触、それから骨を砕く感触を味わう。刀が兵士の胸から脇へ抜ける。
右の刀で受け止めていた剣を振り払った。
直後、手首を返して向かってきていた兵士の手首を切り落とした。紅い噴水が勢いよく噴き出してギョクハンの頬を濡らした。
刀を揃えて後ろにいた兵士の顔面を斬った。頬骨が砕け、目玉がはみ出し、口が裂けた。
「何だこのガキ……!?」
ナハル兵たちがたじろぐ。
「化け物か……!?」
一番後ろにいた兵士が「ひるむな!」と怒鳴った。
ギョクハンはさらに踏み込んだ。
刀を交差させて一人の兵士の首を刎ね飛ばした。
これで五人だ。
まだいる。全部で十人ほどいたようだ。
ここで最後まで斬ったほうが早いか――ナハル兵たちが全員地に足をつけているなら、馬に乗って逃げたほうが早いか。
考えている時に後ろから声が聞こえてきた。
「うわっ」
振り向くと、いつの間にか背後にまわっていたらしいナハル兵二人が、ファルザードを挟むように立っていた。
うち一人がファルザードの胸倉をつかんでいる。
まずい。
すぐ駆け寄ってきたナハル兵に振り向きざまに刀を突きたてた。
だがギョクハンがそうこうしているうちにファルザードが揺すぶられている。
「手紙か? 出せ」
ファルザードは文箱を抱き締めたままいつになく力強い声で答えた。
「嫌だ!」
ナハル兵が右手でファルザードの胸倉をつかんだまま左手を腰の短剣に伸ばした。
ギョクハンは走った。
ファルザードの背後にいる兵士の脇腹を蹴った。刀を振るったらファルザードまで一緒に斬ってしまうと思ったのだ。
手に刀を握ったまま、ファルザードを後ろから抱き締める。星明かりで輝くギョクハンの刃にファルザードが硬直する。少々危ない目に遭わせてしまったが、動かないでいてくれるのは好都合だ。
そのまま後ろに引っ張った。
ギョクハンの刀がファルザードの胸倉をつかんでいた兵士の手に触れた。
手が離れた。
即座にファルザードを後ろに引きずった。
すぐそこで白馬が待っていた。
「乗れ!」
ファルザードを白馬の背に押し上げた。ファルザードががくがくと頷きながら白馬にまたがった。
「カラ!」
呼ぶと黒馬が駆け寄ってきた。ギョクハンもまた黒馬に飛び乗り、またがった。
「走るぞ!」
言うや否やギョクハンは東のほうへ向かって駆け出した。
ひづめの音が聞こえる。白馬はちゃんと走っているらしい。ザイナブの馬だから、それなりにわかっているものと見える。
ちらりと振り向いた。
ファルザードは歯を食いしばって白馬にしがみついていた。
「振り落とされるなよ」
そう言いながらギョクハンは黒馬の腹を蹴った。駆ける速度を上げる。
なんとか逃げ切る。
そう、ギョクハンは思っているのだが――
「待って!」
ファルザードの声が遠くから聞こえた。
ファルザードが追いつかない。姿勢が悪い。
白馬はまだ余裕のありそうな顔をしているが、おそらく、自分が全力疾走をしたらファルザードを振り落としてしまうことを理解しているからこそ、のんびりしているのだ。馬は悪くない。
ギョクハンは舌打ちをした。
これではファルザードを置いていってしまう。ギョクハンも全力で走れない。
さらに後方から複数のひづめの音が聞こえてきた。それから松明の炎も見えた。濃緑の外套は夜の闇に溶けて黒い色に見えた。ナハル兵が馬に乗って追いかけてきている。
「くそっ」
ギョクハンは腰の弓袋から弓を引き抜いた。
3
手綱から手を離した。
馬を走らせたまま後ろを見た。
弓を構えた。
矢をつがえる。
弦を引く。
ギョクハンが後ろに放った矢は、ファルザードの頭上を飛び越え、追ってきていたナハル兵のうちの一人の胸に刺さった。
胸に矢の生えた兵士が落馬する。砂ぼこりが舞う。体の落ちる音だけが聞こえる。砂漠の夜は静かだ。
黒馬は止まらない。揺れる馬上から弓を射るのはトゥラン人のお家芸だ。ましてナハル兵たちは一人ずつそれぞれ松明を片手にしている。あれでは的にしてくれと言っているようなものだ。
ギョクハンは後ろを向いたままもう一度弓を引き絞った。
放つ。
ナハル兵のまた別の一人を射落とす。
そこで一度手を止めた。
ナハル兵の数を数えた。馬で追ってくる人間は残り三人だ。
ファルザードは後を追いかけてきているがその速度は遅い。ナハル兵たちに追いつかれてしまいそうだ。
やるしかない。
手綱をつかんで引いた。黒馬が一瞬立ち止まり、すぐさま反転した。
「ファル、お前は走れ」
ナハル兵たちと向かい合いつつ、ファルザードに言う。
「このまま、まっすぐ東に走れ。イディグナ河に突き当たる、そこで待ってろ」
「ギョクはどうするの」
「残り三人を仕留める」
「危ないよ」
「俺を誰だと思ってるんだ」
「知らないよ!」
「バカ、行けよ!」
敵兵のひづめの音がすぐ傍まで迫っている。
「走れセフィード!」
白馬が駆け出した。東と言ったのにやや南のほうへ逸れていった気がするが、あれこれ声をかけてはいられない。あとで砂地に残る足跡を追いかけるしかない。
「カラ、行くぞ」
手綱を引いた。黒馬が一瞬二本足で立ち上がった。すぐに四肢でしっかりと大地を踏み締める。
月明かりに砂塵が舞う。
空気が冴え渡っている。頬を裂くように流れてゆく風が心地よい。
戦える。
まずは背筋を伸ばして再度弓を引いた。今度は真正面からだ。絶対に外さない。月光に輝く敵兵の眼球を射抜いた。
残り二人との距離が縮まる。
二人が何かを話している。
そのうち片方が反転した。馬の鼻を西のほうへ向けた。ギョクハンに背を向けて走り去ろうとしている。
逃げられる。
ナハルに情報を持って帰られたら厄介なことになる。
弓を腰の弓袋にしまった。そして双刀を抜いた。刃は先ほど屠《ほふ》った敵兵の血で濡れていた。月明かりに、星明かりに、松明の火に、紅い刃が照らし出された。
向かってくる一人が剣を抜いた。
敵兵の剣とギョクハンの右手の刀がぶつかった。
ギョクハンが左手の刀を振り上げると、敵兵はあえてギョクハンの右側に跳び込むことで回避した。
間合いを詰められた。
とっさに右の手の中で柄を回して刀を逆手に持ち替えた。
今まさに背後へまわろうとしている敵兵の背中に突き立てようとした。
敵兵が振り向く。ギョクハンの刃を受ける。
なかなかの手練れだ。
真正面から相対する。
血を振り切って刀を左右に構える。相手も剣をまっすぐ構える。
二人とも咆哮した。
突撃だ。
決着は刹那のことだった。
敵兵の剣がギョクハンの右肩をかすめた。
ギョクハンはあえて斬らせてやってふところに跳び込んだ。
刀を揃えて突き立てた。敵兵の胸から背中へ二本の刀が生え揃った。
腕を振って勢いよく振り払った。砂煙を立てて敵兵の体が地に落ちた。
敵兵の馬が立ち止まる。動かなくなった主人に鼻面を寄せる。
「お前はナハルに帰れ」
馬には極力優しい声をかけた。馬はわかっているのかいないのか、一度ギョクハンの顔を見た。その場で立ち尽くす。哀れだが、構っている場合ではない。
松明の火が動いている。先ほど西へ走っていった最後の一人だ。ギョクハンは刀を鞘に納めるや否やその火を目指して駆け出した。
距離を詰める。
両手を離す。黒馬は走り続けている。
弓をつかむ。
矢筒から矢を引き抜く。
構える。
射る。
背に刺さった。
間を置かず二本目を射る。同じところに突き刺さる。
そして念のためにと三本目を射る。やはり今までのすぐ上に当たった。
兵士が砂に落ちた。砂煙が起こって一瞬だけその体が見えなくなったが、追いついて見てみると動かなくなっていた。目を見開き、血を吐いて沈黙している。同じくして地面に転がった松明の火が消え、顔が見えなくなる。
ギョクハンは一度大きく息を吸って吐いた。
ファルザードに追いつかなければならない。
嫌な予感がする。
自分は本当に全員倒せたのだろうか。最初に井戸の周りにいたのは何人だったのだろうか。
急がなければならない。
ファルザードが走っていったほうへ向かって駆けた。
夜の闇の中松明もない上風にさらわれて砂が動いていたので、足跡はわからなかった。失敗だ。次からはファルザードと別れないようにしようと思った。次などないほうがいいが、何事も用心するに越したことはない。
月がだいぶ傾いた。
いったいどこまで行ったのか、不安になってきた頃だ。
遠くに明かりが見えてきた。
松明の炎だ。
ギョクハンは舌打ちした。
ナハル兵だ。ナハル兵が一人いる。やはりあれが全員ではなかったのだ。
ギョクハンが近づいていることに気づいたらしく、ナハル兵が振り返った。
また弓を構えた。
ナハル兵は斜めに走った。想定外の角度だった。矢がはずれてしまった。
ナハル兵が大きく迂回して東のほうへ走る。
その先に白馬の尻が見えた。
ファルザードだ。
「待て! このガキ!」
ナハル兵が怒鳴る。
ファルザードが逃げる。
「ファル!」
名を呼ぶとファルザードが振り向こうとした。ギョクハンは慌てて「バカ、振り向くな!」と怒鳴るはめになった。
「そのまま走れ!」
言いながら二射目を構えた。
今度はナハル兵が振り向いた。
目を大きく見開いた。
その眉間を射抜いた。
ナハル兵はしばらくそのままの姿勢で硬直していたが、やがて倒れた。
ギョクハンはようやくひと息ついた。
しかし、そこで、だった。
急にファルザードと白馬の姿が消えた。
直後、ファルザードの絶叫が響いた。
大きな水音がした。
「なん――えっ?」
馬の速度を落として、ギョクハンはゆっくり歩み寄った。
血の気が引いた。
砂の丘の向こう側が崖のように切り立っていた。かなりの高さがある。
遠く下のほうに月光を弾いて輝く水があった。
川だ。
どうやら水が砂をえぐった結果できた崖だったらしい。
河に落ちたのか。
「……嘘だろ……」
つい、呆然としてしまった。
4
砂の丘を大きく迂回して川を目指した。このあたりの川がどれくらいの深さなのかわからないが、遠い北の山の雪解け水で増水していて流れが速いのは確かだ。急がなければならない。
脈が早まる。胸の鼓動がうるさい。心臓が耳元に来たかのようだ。
ファルザードに万が一のことがあったらどうしよう。こんなことになるなら走れなどと言わなければよかった。
砂煙を巻き上げながら走った。
ほどなくして川辺にたどりついた。あたりには大小さまざまな岩が転がっていた。こんなところに頭を打ちつけていたらと思うとぞっとした。
「ファル……」
川の流れとは違う水音が聞こえてきた。音の方に顔を向けると、月光の中、白馬の姿を見つけた。器用に河の中を泳いでいる。水に濡れた白い毛並みが月光を弾いて輝いていた。
「セフィード!」
そう呼ぶと、白馬がギョクハンのほうを向いた。水を蹴り、岩を蹴り、川辺に近づいてきた。
白馬が大荷物を運んでいる。ファルザードだ。口でファルザードの服の背中をつかんで引きずってきている。
ギョクハンは黒馬からおりて水の中へ入っていった。水は身を切るように冷たかった。長時間浸かっていたら凍えてしまうだろう。
ファルザードは反応しない。
胸の奥まで冷える。
やがて手が届いた。
白馬からファルザードを受け取った。
濡れた黒髪が白い頬に張りついている。長い睫毛は閉ざされていてその瞳を見せない。
背後から両脇に腕を通し、抱え上げた。
冷たい。
なんとか川から引きずり出す。川辺の砂利の上にその身を横たわらせる。
「ファル、ファル!」
頬を叩いた。けれど目を開けない。
体が冷たい。
ギョクハンは息を止めた。
間に合わなかったのか。
「ファル……っ」
上半身を抱え起こした。
その時だ。
体が折れ曲がったのに反応してか、ファルザードが突然咳き込み始めた。
大量の水を吐き出した。
華奢な手がギョクハンの服の脇腹をつかんだ。
ギョクハンは大きく息を吐いた。
「ギョク」
荒い息の間から声が聞こえてきた。
ファルザードの冷え切った体を抱き締めた。
ファルザードもギョクハンに両手でしがみついた。
しばらく二人とも沈黙していた。川の水が流れる音だけが響いていた。
それにしても、ファルザードの体が冷たい。
「火、焚くか」
離れて、立ち上がった。ファルザードがこくりと小さく頷いたのが見えた。
「服、脱いで乾かしたほうがいいぞ。そのままだと冷える。風邪をひく」
「え、ギョクの目の前で脱ぐの?」
ギョクハンは眉間にしわを寄せた。呆れた。ここまで心配してあれこれ気を揉んでやったのがすべて馬鹿らしくなってしまった。
「お前、この期に及んでそういうこと言うか? 置いてくぞ」
ファルザードが頬を引きつらせて「そんな怒らないでよ」と言う。
「めちゃくちゃ怖いんですけど」
「いいから黙ってとっとと脱げよ」
背を向け、黒馬の背に積んでいた荷物の中から火打石を取る。川辺に生えている灌木の下を探る。乾燥した砂地に生える草は葉に多くの水分を含んでいて、そのままでは火がつかない。なんとか地面に落ちている枯葉を掻き集めた。
火打石を打ち鳴らした時だ。
ふと、脳裏をおかしな空想が駆け抜けていった。
脱ぎたくないのか。
ファルザードの美しい面が頭の中に浮かぶ。
最初、女の子かと思った。
女の子なのではないだろうか。
また心臓が破裂しそうになったが、先ほどの緊張とはまるで違う緊張だ。
もし女の子だったらどうしよう。
それでも気持ちを抑えきれなくて、おそるおそる、振り向いた。
自分の体から濡れた服を引き剥がしているファルザードを見た。
胸は薄く平らだ。華奢な腰に丸みはない。
男の子だ。
がっかりした。
「……なに?」
「いや、何でもない」
溜息をつきながら木切れに火をつけた。最初のうちは小さな火だったが、乾燥した木切れを重ね合わせていくと徐々に燃え広がった。ギョクハンが一生懸命掻き集めた木片を糧に少しずつ成長していく。
相手が男だと思うと、必死に掻き集めて火を用意してやったのも、労力がもったいなかった気がしてくる。
やがて立派な焚き火になった。
ギョクハンは焚き火のすぐそばに腰を下ろした。
ファルザードも下穿き一枚の姿で濡れた服を搾ると、ギョクハンのそばに座った。
炎にファルザードの姿が照らし出される。
その体は細く、少しでも強く力を込めたら折れてしまいそうだった。少年の肩はどことなく骨張っているが華奢だ。筋肉が足りない。
ひとつにくくられた黒髪の下のうなじが白い。あまり長時間眺めていると毒になる気がする。
目を逸らしたその時、ファルザードが口を開いた。
「あのさ、ギョク。ちょっと言いにくいんだけどさ」
か細い、小さな声で言う。
「怒らないで、聞いてくれる?」
「とりあえず言えよ。怒るかどうかは聞いてから判断する」
「あの……えっと……」
ファルザードが、おずおずと、象嵌細工の薄い箱を差し出した。ザイナブの手紙を入れている文箱だ。
嫌な予感がした。
震える手で、文箱を受け取った。濡れている。
ゆっくり、ふたを開けた。中身も、濡れている。
紙を手に取り、こわごわ開いた。そして火にかざした。
危うく火の中に落としてしまうところだった。
水に濡れて、墨の文字がにじみ、読めなくなっている。
「……おい……」
「ご……ごめん」
「いや……、待て、待てよ、大丈夫だろ、ひょっとしたらこの箱が高価なものでワルダの紋章みたいなものとか――」
「ううん、去年僕がハサン様のおつかいでワルダ城の城下町の市場で適当に買ったやつ」
目眩がした。
「その手紙以外に、僕らがザイナブ様の遣いで援軍を求めに来たことを証明するものって、何か、あったかな」
目の前が真っ暗になった。
「ごめんって……」
もはや怒る気力もなかった。ただただ息を吐き、濡れた紙を濡れた箱にそのまま戻すことしかできなかった。
「お前……、何しに来たんだ?」
ファルザードが縮こまる。
「本当に、足手まといなんだが。俺一人だったら、川にも落ちないだろうし、走って逃げきれただろうし、もう次の街についてたかもしれない。お前がいると、本当に、邪魔」
返事はなかった。膝を抱えて沈黙していた。
「とりあえず俺はヒザーナには行く。けどお前のことはもう知らない。次は助けないからな」
立ち上がり、黒馬の背から荷物を取ろうとした。布を敷いて布団にして、横になろうと思ったのだ。
とにかく疲れた。とてつもなく疲れた。休みたい。
「ギョク……、あの――」
か細い声が聞こえる。
「なんだよ」
「ちょっと、寒い」
「お前も布団巻けば?」
「……あの……、ないの」
振り向いた。
白馬の背に積んでいたはずの荷物がなくなっていた。川に落ちた時に振り落としてしまったのだろう。
ギョクハンは布の巻き物をファルザードに向かって投げつけた。そして自分は砂利の上に直接横たわった。
「最悪」
それきり、二人は夜が明けるまで口を利かなかった。
続きへのリンク
第1話:https://note.com/hizaki2820/n/n89f5265cb651
第3話:https://note.com/hizaki2820/n/n96ac939f9f93
第4話:https://note.com/hizaki2820/n/nbf0442a02e54
第5話:https://note.com/hizaki2820/n/n104eb033687c
第6話:https://note.com/hizaki2820/n/nae52720cea71
第7話:https://note.com/hizaki2820/n/nbdef5e931cf1
第8話:https://note.com/hizaki2820/n/ne2429db3aba3
第9話:https://note.com/hizaki2820/n/n3b8d92fa23e6
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