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狼の子と猫の子のアルフライラ 第4夜:化け物退治
1
こうして、ギョクハンとファルザードはようやくワルダとヒザーナの間にある街シャジャラにたどりついたのであった。
「じゃーねー! また明日の朝迎えに来るからいい子にしてるんだよー!」
隊商宿の一角、旅人用の寝床がある部屋に二人を放り込み、ジーライルが手を振る。彼はシャジャラでも指折りの大きな商館の近くに定宿があって、そちらに泊まるらしい。ギョクハンはほっとした。今夜こそ静かに眠れる。
部屋はさほど広くなかったが、清潔だった。
寝台がふたつ左右の壁にくっつけるように置かれていて、寝台の上の布団はきれいだ。
大きくとられた窓には薄い更紗の窓掛けが掛けられており、その隙間から窓の様子が見える。幾何学模様の透かし彫りが見事で、差し入る月光の影が星形に見えた。
ギョクハンは、向かって左の寝台の上に身を投げた。ファルザードは、右の寝台の上に静かに腰掛けた。
ジーライルが戸を閉めた。
遠くからまだ宴会騒ぎをしている声が聞こえる。楽の音もにぎやかだ。だが、疲れ切っているギョクハンはこの騒音でも眠れる気がした。耳元でしゃべっているわけではない。
夕飯は隊商宿の中の食堂でたらふく食べた。公衆浴場で体も洗った。そこそこいい部屋のそれなりにいい布団で横になれた。
やっとひと息つけた。ワルダ城を出て初めてだ。
ただ、このままジーライルにほだされないようにしなければならない。シャジャラに、また、いい隊商宿に連れてきてくれたからといって、安直に心を許してはならないのだ。ギョクハンはまだジーライルが信用できなかった。
それでも、今はとにかく寝たい。
「ギョク」
ファルザードがささやくようにギョクハンの名を呼んだ。
首をひねり、顔だけをファルザードのほうへ向ける。
ファルザードは穏やかに微笑んでいた。
月光に照らされた頬は滑らかで、大きな瞳にも光が差し入って輝いている。髪をかけた耳まで形がいい。
こうしておとなしくしていれば天使のようなのに――とまで思ってから、ギョクハンは夕方のことを思い出した。
盗賊がファルザードを売ればいい値になると言っていた。
男の手がファルザードの胸を撫で、男の舌がファルザードの目元を舐めた。
「二百八十四金貨と八銀貨」
上半身を起こして「何の額だ?」と訊いた。
「路銀の今の残高。入浴代と夕飯のおかわり代を引いた額」
ほっとして布団に伏せた。
「お前、ザイナブ様がくださった金貨、ちゃんと管理してたのか」
「そりゃあねえ。それくらいしなかったら僕いよいよ存在意義がないので」
ファルザードが自分の腰に手をやった。見ると帯に小袋がくくりつけられていた。ずっと肌身離さず持っていたらしい。
「宿で寝る時くらいははずせよ。重いだろ」
ギョクハンがそう言うと、「うん」と言って紐をほどき始めた。そのうち、自分の枕元、枕と壁の間に置いた。
金勘定もギョクハンの苦手分野だ。長期間旅行するとなれば、うまく計算してやっていかなければならない。その計算を誰かが代行してくれるというのは、ありがたいことだった。
「お金のことはちゃんとしておきたいでしょ。これからも使ったつど残高の額を共有できるようにするから」
「そうだな。お前、そこはしっかりしてるんだな。助かる」
そこで、ファルザードが急に笑い始めた。
「……なんだよ」
「初めてギョクにふつーに褒められた」
嬉しいのだろうか。
枕を抱く腕に力を込める。
顔が綺麗だろうが、口が生意気だろうが、ファルザードはギョクハンより年下の少年なのだ。
「ごめんな」
「えっ?」
「盗賊なんかに、お前を引き取ってくれたら助かる、とか言って。俺、あの時、ちょっと冷たかったな」
ファルザードは「ううん」と言った。
「いい加減ギョクも疲れてるでしょ。ずっと戦いっぱなしでさ、普段言わないようなことでも言っちゃう気分だったんだよね。僕、武術が何にもできないから、そういう時にはぜんぜん役に立たないし。ていうか人質に取られたりして本当に足引っ張ってるし」
否定も肯定もしなかった。彼の言うとおりで、ギョクハンは本当に疲れ切っているが、だからといって頷いてしまったら、ファルザードを傷つけると思った。
「――それにさ。売って、いいんだよ」
彼は、静かに言った。
「もし、本当に、邪魔だったら。僕を売って、お金に換えなよ」
ギョクハンはふたたび跳ね起きた。
ファルザードは斜め下を見ていた。長い睫毛がその頬に影を落としていた。だが口元は穏やかに微笑んでいる。落ち着いて見えた。
「ザイナブ様はそのつもりで僕をギョクと一緒に出したのかもしれない。僕を守れとおっしゃったのは、僕に傷がついたら値が下がるからかもしれない」
そして呟く。
「僕はハサン様の資産だから――歩く百万金貨だから」
思わず怒鳴ってしまった。
「そんなこと言うな」
けれど、彼は黙らなかった。
「あのさ、もし、三百金貨使い切っちゃってお金がなくなったらだけど。僕が稼いでくるから」
真剣な目で言う。
「僕がからだを売ればひと晩で五百金貨くらいにはなるから。だから、お金の心配はしなくて大丈夫だよ」
立ち上がった。
ファルザードの胸倉をつかんだ。
「お前、俺がお前にそういうことさせると思ってんのかよ」
彼は困惑した表情で「思ってないよ」と答える。
「僕が自主的にやるんだから気にしなくていいよ」
「お前は嫌じゃないのか」
「慣れたよ」
肌は白く、髪は黒く、唇は紅い。
「僕はね、ギョク。ずっと、そうやって生きてきたよ」
華奢で柔らかい手が、ギョクハンの大きく硬い手をつかむ。
「なんなら。今、これから、してもいいよ。ギョクにご奉仕する。すっきりするかも――」
突き放した。
ファルザードの後頭部が壁に叩きつけられ、重い音を立てた。ファルザードが「いった」と顔をしかめた。
「気分悪い。寝る」
「ごめん。僕余計なこと言ったね。僕も寝るよ」
「俺はお前を売らないからな」
寝台に戻り、ファルザードのほうに背を向け、横たわる。
「お前はザイナブ様からお預かりしたんだ。ザイナブ様にお返しするまで、絶対、手放さないからな」
小さな「うん」という声が聞こえてきた。
「ありがとう。……おやすみ」
それきり、ファルザードは何も言わなかった。
ギョクハンはしばらくもんもんとあれこれ考えてしまったが、そのうち、いつの間にか深い眠りに落ちていた。柔らかい布団に沈んで、朝まで熟睡した。
2
翌日、ギョクハンとファルザードが食堂で朝食をとっていると、約束どおりジーライルが現れた。
彼はまず、二人を自分の縄張りだという商館に連れていった。
どうやら毛織物や絹布などの高級な布製品を扱う商人たちの商館らしい。中は人でごった返していたが、誰も彼もがジーライルの姿を見つけると声をかけてきた。ジーライルはここに知り合いがたくさんいる。絨毯商人であることは嘘ではなかったようだ。
商館で化け物騒動の情報を集めた。
どの商人もシャジャラの夜に現れる化け物のことを知っていた。
ただ、夜にしか現れない、物品を盗り女性をさらう、強力で凶悪で退治に乗り出した腕利きたちを鋭い爪で返り討ちにする、などなど、ジーライルがすでに説明した話以上の情報は出てこなかった。いわく、悪い精霊らしい。けれど、その姿を確かめた者はない。
「悪い精霊なら、聖典の章節を読んだり祈りの文句を唱えたりすれば消えるんじゃない?」
ファルザードがそう問いかけると、商館の職員たちが黙った。
「まあ、そうするはずだった人もいたんだけどね」
おそらく死んだのだろう。
「じゃ、効果がなかったってことだ」
全員が沈黙した。意図せずカリーム人たちの信仰が試されてしまったようだ。ギョクハンは空気を察して小声で「おい、それ以上言うな」と言った。ファルザードも「うん、やめとく」と頷いた。
「退治して帰ってきてくれたらシャジャラの商人たちが用意した賞金をあんたたちに払う。よろしく頼む」
館長が二人に頭を下げる。金銭は求めていないが、貰えるものはとりあえず貰っておいたほうがいい。ギョクハンは一応「いくら貰えるんですか」と訊ねた。
「前金で一万金貨、成功報酬として四万金貨、合計五万金貨だ」
「ごまんでぃなーる!? そんな数の硬貨持って歩けねぇよ!」
「シャジャラの銀行に預けておけ、いつでも引き出せるようにしておいてやるから」
とりあえず、ジーライルが提示した情報に嘘はなさそうだ。いくらジーライルの縄張りとはいえ、人の出入りの激しい商館にいる百人近い人々が全員口裏を合わせて二人をだまそうとしているというのは非現実的だ。
「二人とも、がんばってねっ!」
ジーライルが両手で、まずはギョクハンの手を、それからファルザードの手を握り締める。
「いや、二人とも、って。俺一人で行くけど。ファルは隊商宿に置いていく」
ファルザードも頷いた。
「僕、剣も弓もできないし。ギョクが帰ってくるのをおとなしく待ってようと思うけど」
ジーライルがすっとんきょうな声で「なぁーに言ってるのさ!」と言った。
「二人が協力しなきゃだめだよ!」
「だから――」
「ファルちゃんが精霊を呼び寄せてくれなきゃ、ギョクくんはどうやって精霊を探すんだい?」
ギョクハンもファルザードも、顔をしかめた。
「精霊は夜一人歩きをしている女性を狙って出るんだよ」
「つまり――」
「ファルちゃんほど可愛かったらおびき寄せられると思わない?」
ファルザードが自分の手に額を当てた。
「僕に女装して夜の街を一人歩きしろって言ってるの!?」
ぱちんと指を鳴らして「ご明察!」と言う。
「めちゃくちゃ危ない役じゃない!? そんなの五万金貨でやらされるのやだよ!」
「ギョクくんががんばればいい話だよ」
「ちょ、ええー!?」
ファルザードがギョクハンの顔を見る。その大きな瞳が助けを求めている。
ギョクハンは悩んだ。またファルザードが足を引っ張ったらどうしようと思ったのだ。いつもいつでも完璧に守り切れるわけでもない。正体不明の化け物の退治に行くのである。人間相手には負けない自信のあるギョクハンでも、人外の魔物相手にどこまでやれるかわからなかった。
しかし――
「女が一人で歩いてないと出てこないんだよな?」
「そうなんだよ」
「俺じゃだめだ。がたいがよすぎる。ファルに女装させて餌にしたほうが手っ取り早いな」
ファルザードが「ギョクまでそんなことを!」と言ったが、「お前顔は可愛いから大丈夫だろ」と突っぱねた。
「まあ、確かに僕は超絶可愛いけど、美少年である前に、十四歳のか弱い家内奴隷なんだよ」
「ご自慢の百万金貨の顔を役に立てろよ」
全力で「おぼえてろよ!」と叫ばれた。こっちの台詞である。
昼食をとる前に、三人は市場に出かけた。化け物退治に必要だと思われるものを集めるためだ。
費用は商館が負担してくれると言うので、せっかくだからとギョクハンはめいっぱい持てるだけの矢の材料や刀の手入れの油と布を買うことにした。化け物退治が終わったあとにも使える。
ファルザードはジーライルに連れられて女物の服を見ていた。
ジーライルはファルザードにあれやこれやと女性向け外套や頭布をあてがって楽しそうにしている。もはや当初の目的を忘れて着せ替え人形遊び状態である。ファルザード本人がおもしろくなさそうな顔をしているのは無視だ。
最後、ファルザードが「日用品の店に行きたい」と言い出した。ジーライルは気前よく承諾した。
「これが人生最後の買い物になるかもしれないし」
そう言ってファルザードの目を真ん丸にさせたあと、「冗談だよ可愛い可愛いファルちゃんの旅路を支援するためだよ」と笑った。
「何を買うんだ?」
ファルザードは、言葉では何も答えることなく黙って、何重にも巻かれた長い麻縄と、腰にくくりつけられる中では最大だと思われる小さな甕にいっぱいの油を買ってきた。
「いや、何が何でも生き残りたいので、僕もちょっと本気を出そうかと思って」
「何に使うんだよ」
「本当に精霊に会えたらわかるよ。絶対必要だったなって思うからね」
だいぶご機嫌斜めらしい、「見てろよ」と息巻いている。
「これで全部かな?」
「おう」
「はーい」
「じゃ、一回商館に戻ろうか。日が暮れるまでのんびりするといい。馬は僕が商館で預かるよ」
ジーライルは信用ならないが、商館なら他にも大勢人がいて誰かは見ていてくれるだろう。それに街中では騎馬の本領を発揮できない。街はどこもかしこも一本脇道に入ると細い小路で袋小路も多いのだ。ファルザードを囮にして歩くことを考えても、馬のひづめの音などが響くのはよろしくない。
「絶対盗んで転売しようとは考えるなよ」
ギョクハンはそう念押ししてからジーライルに馬たちを預けた。ジーライルは「まあ二頭とも賢いから何かあっても逃げそうな気がするけど」と答えた。確かに黒馬はギョクハンを恋しがって何らかの行動を取ってくれるだろう。ジーライルというより黒馬を信じる。
3
城壁の向こう側に赤い夕陽が落ちていく。黄昏時、悪い精霊たちが活発に行き来すると言われている時間帯だ。
女物の外套をまとい、頭布をつけたファルザードが、街を歩き始める。暗がりに入った時にわずかな光でも反射するよう、頭布は縁に銀の刺繍の入ったものをかぶっている。
ギョクハンは、極力ファルザードから離れないよう、ただし一緒に行動していると思われないよう五、六歩分は距離を置いたところで、彼の後ろを歩いていた。
人の往来の激しい道路を行く。だが、今朝ジーライルと三人で同じ道を歩いた時に比べると、混雑は緩和されている気がする。化け物騒動が起こって以来老若男女が警戒して夜の外出を減らしているらしい。特に一人歩きをしている女性が狙われるというのはすでに街じゅうに知れ渡っているらしく、女性の姿はほとんど見られなかった。目に留まるのはファルザードだけだと言ってもいい。
ファルザードは華奢で小柄なので、人波に埋もれてしまいそうだ。見失わないよう全力で気を配った。
それにしても、男には見えない。
精霊でなくても、世の中には人さらいなどごまんといるのだ。ファルザードを守るためには精霊以外にも気をつけなければならない。
ギョクハンも朱色の外套を羽織っていた。外套の下で密かに腰の刀の鞘を握り締めた。
夕陽が沈んでいく。東の空に月が昇る。蒼穹は橙から紅へ、そして紫へ少しずつ色を変えていく。
やがて空全体が黒い闇に染まると、空には星、地には松明の街灯が輝き始めた。
人の往来がどんどん減っていく。
ギョクハンはファルザードのあとをつけているのが見つからないよう建物の陰から陰へ移るようになっていた。なかなか骨が折れる。幼い頃は何もない草原で、成長してからも平地で傭役軍人の騎士として活動してきたギョクハンは、都市があまり得意ではない。
ファルザードは決して振り向かない。それが逆に頼もしかった。自分が果たすべき役割を心得ているのだ。その上で、ギョクハンは絶対についてきていると確信しているからこその足取りに違いない。そう思うと、ギョクハンは少しだけ嬉しかった。
ファルザードが通りの角をひとつ左に曲がった。
ギョクハンはもはや東西の感覚も失っていた。ファルザードに導かれているような気さえしてきた。自分は、彼をつけているのではなく、彼についていっている。
それにしても、彼はいつシャジャラの地理を把握したのだろう。彼もシャジャラに来たのは今回が初めてだと言っていたはずだ。まさか、昼間のあの買い物だけでおぼえた、ということはあるまい。
さらにもうひとつ、角を右に曲がった。
角から密かに顔を出してあたりを見た。
五差路になっていた。ファルザードは無人の五差路の真ん中で立ち止まっていた。
ギョクハンは胸を撫で下ろした。この状況でファルザードが勝手にどこかの通りに入っていったら見失ってしまうところだった。
細くて、折れ曲がっていて、どこがどこにつながっているかわからなくて、不安だ。
不意に何かの気配を感じた。五差路の、ギョクハンから見て左の方から、何かが動く音がする。
あたりはもう暗くなっていた。五差路を照らす街灯がひとつだけ輝いている。五差路のうち三本はその先の灯りが見えない。都市の密集した建築物の間では、月明かりも星明かりも、届かない。
言い知れぬ胸騒ぎを感じる。
ファルザードの頭布の縁取りだけが、銀に輝いている。
ファルザードは右に曲がった。ギョクハンも右に曲がろうとした。
ざわ、と、何かが動いた。
闇の中、闇に溶ける真っ黒な何かが、五差路の左から右へ動いている。
ギョクハンは思わず立ち止まってしまった。
見慣れないものに対する本能的な恐怖だ。
草原にも砂漠にもこういうものはいないのだ。
これが、悪い精霊か。
何かが、うごめいている。左から右へ、黒いかたまりが、移っていく。
かたまりは街灯を避けていた。悪い精霊は光が当たると消えてしまうのだろうか。その姿が見えない。ただ何となく、輪郭がある気がする。ギョクハンより大きい、縦長のかたまりだ。
手が震えた。
こんな化け物と戦わされるのか。
唾を飲み込んだ。音を立てぬよう静かに自分の腿をつねった。
戦わなければならない。五万金貨を、皇帝につながる人脈を、そして何よりファルザードを賭けてギョクハンは戦わなければならないのだ。
自分を奮い立たせた。一歩を踏み出した。
黒いかたまりは、いつの間にか消えていた。右の小路に吸い込まれていったのだろうか。
右の小路を覗き込んだ。だが、真っ暗で何も見えなかった。三階建ての土壁の集合住宅、その屋根の上から月明かりが差し入っているが、反対側の壁を照らすばかりで、地面に立つギョクハンの足元は見えない。
ファルザードはどこへ消えてしまったのだろう。もう悪い精霊にさらわれてしまったのだろうか。
五差路の真ん中に戻ろうかと思った。街灯になっている松明を持ってきて状況を確認したい。ここまで来たら精霊や他人に見つからないように振る舞うのは中止だ。まずはファルザードの安全を確保しなければならない。
ギョクハンが後ろへ振り向こうとした、その時だ。
すぐ左側で、壁に何か硬いものがぶつかる小さな音がした。
「ギョク!」
ファルザードの声が響いた。
「触らないで!」
声のするほう――正面を改めて見た。
次の瞬間だった。
壁が燃え上がった。
正確には、壁の下だ。
道路の上、壁沿いで何かが燃えている。
急な熱と光に驚き、ギョクハンは目を一度閉じた。
だが、炎はギョクハンを焼き尽くすほど強いものではなかった。それどころか、よく見たら足元を照らす程度の高さしかない。
それでもあたりは明るくなった。目の前の状況がはっきりと見えるようになった。
燃えているのは縄だった。右の壁沿いから、袋小路になっている奥につながり、奥にぶつかってからまたこちらへ向かって左の壁沿いに這っている。先ほど壁にぶつかったのは縄の先端にくくりつけられた石だった。
袋小路の行き止まりに、外套の下から小さな甕を取り出して左腕で抱えているファルザードの姿が見えた。ギョクハンは思わず「あっ」と声を上げてしまった。昼間買った縄と油だ。ファルザードは油につけた縄をわざと地面にたらして歩いていたのだ。
ファルザードの細工であたりが明るくなった。真っ暗な闇の中にひそむそれらの正体まで、浮かび上がった。
全身に、真っ黒な布をまとっている。頭にも黒い巻き布を巻き、顔も下半分を黒い布で覆っている。
人間だ。
ギョクハンよりも背の高い、体格のいい人間が六人、ファルザードとギョクハンの間に立っている。
「――こざかしいガキどもだ」
先頭にいた黒づくめの人間が、振り向き、ギョクハンの方を見た。そして、顔を覆っている布を外した。
白目と黒目のはっきりした大きな目、厚い唇、浅黒く滑らかな肌に刺青――イディグナ河の河口に住むという沼地の民の男性だ。
「見たな?」
ギョクハンは刀に手をかけた。
4
相手が人間なら恐れることはない。何度も戦ってきた。戦える。相手は人間だと思えばギョクハンは冷静に戦うことができる。
左の刀一振りだけを抜いた。この狭い路地で二振りを振るうのは無茶だと判断した。
先頭を歩いていた男が代表格なのだろうか、他の男たちを掻き分けるようにしてギョクハンの前に出た。
「トゥラン人だな。雇われの用心棒か? そんな若い身空で何が悲しくてこの狭苦しいシャジャラにいる?」
流暢なカリーム語だった。訛りもほとんど感じられない、カリーム半島のカリーム語である。話す低い声も落ち着いていて理知的だ。とてもシャジャラを震撼させている化け物の声とは思えない。
「故郷のトゥラン平原に帰りたいとは思わないのか? それともそのための路銀稼ぎを?」
「ご心配なく、俺はカリーム暮らしを気に入ってるんでな」
宣言するように力強く、言った。
「傭役軍人であることは俺にとって誇りだ」
男がまぶしそうに目を細めた。
「そうか。……うらやましい」
両手を広げて悲しく笑う。
「お前はいいご主人様に当たったんだな。残念ながら俺たちははずれだった。いや、俺たちは生まれながらにしてはずれだったと言わざるを得ない」
ジーライルの言葉を思い出した。
――綿畑の奴隷まで軍隊に駆り出されたとかでぜんぜん種蒔きどころじゃないんだ。
「ナハルの綿畑で働かされていたというのはあんたたちか」
「よく知ってるな。そのとおりだ」
ギョクハンはひるんだ。刀の柄を握り締めて黙ってしまった。
直接の知り合いに沼地の民がいないので、詳しいことは知らない。けれど、故郷から連れ出されて遠い土地で朝から晩まで働くことを強要されるという状況がどれほどの苦痛か、想像できなくはない。
ギョクハンは傭役軍人であることに納得して生きている。むしろ楽しんでいると言える。この身分になったことについて反発心が沸き起こったことはない。ハサンも先輩たちもギョクハンを大事にしてくれた。カリーム語を教わり、カリーム料理を食べ、カリーム人とともに暮らしてきた。
男は流暢なカリーム語を話している。カリームの地に連れてこられてから勉強したのだろうか。この段階に至るまで、どれだけの苦難の道のりがあっただろう。
ギョクハンも、故郷のトゥラン平原がまったく恋しくないわけではないのだ。
刀を下ろした。
「俺はあんたたちと戦いたくない。シャジャラを離れて遠くに行くと約束してくれ。自由の身になったんだ、もういいだろ」
「優しい子だな」
男が苦笑する。
「だが故郷に帰るための船はない」
「だから、奪うのか?」
「そうだ。カリーム人たちは俺たちから多くのものを奪った。俺たちもカリーム人たちから多くのものを奪ってやる。これで対等だろう?」
後ろから鋭い声がした。
「女の人たちはどうしたの」
ファルザードが男をにらみつけている。
「一人歩きの女性をさらったって聞いた。その女性たちはどうなったの」
男が肩をすくめた。
「俺たちの妻にした。男たちだけじゃ孤独だろう? それにカリーム人たちは多くの奴隷の女たちを好きにしてる、俺たちだって――」
「一線を越えたな!?」
ファルザードのその声は悲鳴にも似ている。
「どんな理由があったって、今のあんたらがやってるのは強盗で殺人で強姦なんだよ!」
ギョクハンははっとした。
「傷つけられたからって傷つけていいと思わないでよ!!」
改めて刀を握り締めた。
「投降しろ。あんたたちはちゃんと裁かれたほうがいい。自首すれば情状酌量を認めてもらえるかもしれない。でももしこれ以上やるなら俺が斬る」
男たちもまた、腰に下げていた剣を抜いた。動き出した。
ギョクハンは大きく踏み込んだ。
一人目の男と刃を合わせた。
重い。
振り払う。
すぐに第二撃に移る。
しかしそれもまた受け止められる。
強い。
一歩下がった。男がさらに一歩踏み込んできた。上から脳天を叩き割る勢いで剣を振り下ろす。ギョクハンは間一髪で避けた。
さらに一歩踏み込まれた。横から男の腕を斬りつけた。だが皮膚を切り裂いただけで致命的な傷にはならなかった。男が怒りで目を見開いただけだ。
「この小僧」
男が腕を伸ばしてきた。
同時に二人目の男も腕を伸ばしてきた。
片方の男がギョクハンの右腕を、もう片方の男がギョクハンの左腕をつかんだ。
力任せに振り払った。
そして一歩下がろうとした。
足に、ちり、と焼けるような熱を感じた。
下を見ると、縄がそこでまだ燃えていた。
へたをすれば火傷をする。
しかしその条件は彼らも一緒だ。
刀から片手から離して、男がふたたび伸ばしてきた腕をつかんだ。
思い切り引いた。
男が肩から地面に落ちた。
男の背中が縄の火に触れた。
肉の焼ける音に続いて悲鳴が上がった。
刀を突き立てた。
男の叫び声がやんだ。
まず一人目だ。
仲間がやられて動揺したらしかった。二人目の男が一瞬動きを止めた。
その隙を狙ってギョクハンは踏み込んだ。
男が剣を構え直そうとした。
その手首を切り裂いた。
今度こそ手首が飛んだ。
膝から崩れ落ちたところを、背中を蹴る形で突き飛ばした。男の顔面が火に突っ込まれた。
狭い路地に入ったことが幸いしたようだ。男たちは一人ずつしか出てくることができない。一斉に襲われるということはなかった。
三人目が向かってきた。
叫びながら突進してきたので、ギョクハンは足をそのままに反り返り、壁に背中をつけた。
三人目が前につんのめった。
その背中を切り裂く。
炎の上に液体が飛び散り、じゅ、という焼ける音がした。
「その娘を人質に取れ」
先ほど話していた代表格の男が、背後にいた四人目の男に声をかけた。男のたくましい腕がファルザードに伸びる。
「させるかッ!」
ギョクハンは自ら男たちのほうに踏み込んだ。
5
五人目の男が剣を抜いて向かってきた。
刃と刃がかち合う。
金属音が鳴り響く。
この男の力も重い。
だが、自分はもっと強い戦士とも戦ったことがあるはずだ。
負けない。
押し返した。
刃と刃が離れた。
すぐに体を引いた。
十分に間合いを取ってから斜めに振り下ろした。
男は飛びすさった。しかしそこにあるのは炎の縄だ。男の足の裏が焼けたらしい、彼は「あつっ」と叫んでギョクハンのほうへ飛び跳ねた。
その触れ合う直前、ギョクハンは男の胸に刀を突き刺した。
男の体を振り払う。投げ捨てる。地面に転がる。
先ほどファルザードに腕を伸ばしていた男が叫んだ。見ると、ファルザードが男の手に噛みついていた。
今だ。
とっさに腰の弓袋から弓を取った。
背中の矢筒から矢を取った。
つがえた。
放つ。
矢は空気を裂いてまっすぐ突き進み、ファルザードのすぐそばで悶えている男の背中に刺さった。
すぐさま第二射を放った。
ひゅ、という音を立てて、二本目の矢も男の背中にたどりついた。
男が崩れ落ちた。
最後の一人、代表格の男だけが残った。
ギョクハンは声を上げながら突進した。
「殺さないで!」
ファルザードが叫ぶ。それを聞いてギョクハンは立ち止まる。
「そいつまで殺したら女性たちの居場所がわからなくなる!」
「そうだったな!」
代表格の男は呆然と周囲を見回していた。仲間たちが倒れている。
「もうあんた一人だ。観念したらどうだ」
肩をすくめて、「強いな少年」と苦笑する。そして腰の剣を抜く。刃が炎の揺らめきを反射して輝いた。
殺さずに生け捕りにするのは、逆になかなか難しい。
それでもやるしかない。
ギョクハンは走って前に出た。男も踏み込んで前に出た。
あえて右側、男の左腕側を狙って進んだ。
刀から左手を離した。
左腕を男の首に引っ掛ける。
男が「ぐっ」とうめく。
肘の関節を、思い切り前に――男にとっては後ろに押す。男の首にギョクハンの腕がめり込む。
巨大な体躯が後ろに飛んだ。
ファルザードのすぐそば、後方の行き止まりの壁にぶつかった。
そして地面に倒れた。
ファルザードが男の右手を踏んだ。男の右手から剣が離れた。
ギョクハンは男の腹の上に馬乗りになった。勢いよく男の顔面を殴った。炎の中、小さな白いもの――歯が飛んだ。間を置かず二発目を叩き込んだ。すると男は脳震盪を起こしたのか目を回して動かなくなった。
「まだ縄あるか」
問い掛けると、ファルザードはすぐさま外套の下から縄を取り出した。
ギョクハンはまず男の体を蹴り上げてひっくり返してから、男の両手首を背中で縛り上げた。男は抵抗しなかった。意識がないようだ。しかし死んではいないようで、肩がわずかに上下している。
「――終わりだな」
男の肩に足をのせた状態で、ギョクハンはそう呟いた。ファルザードが「そうだね」と答えた。
「お前、商館に行って人を呼んでこい。俺はここでこいつを見張ってる」
「わかった」
頷いてすぐ、走り出そうとした。
三歩行ったところで、ファルザードは立ち止まり、振り向いた。
「ギョク」
「何だ」
「お疲れ様」
ギョクハンは苦虫を噛み潰したような顔で黙った。
本当に疲れてしまった。
――カリーム人たちは俺たちから多くのものを奪った。俺たちもカリーム人たちから多くのものを奪ってやる。これで対等だろう?
男のその言葉が頭の中をぐるぐると回った。
彼らはきっと南方から本人たちの意思に反して連れてこられたのだろう。もとをただせば被害者だった。彼らが性根から悪だったとは思えない。まず、彼らを虐待したカリーム人の主人がいたのだ。
対等とは、何だろう。
ギョクハンは何も奪われていないつもりだ。傭役軍人であることは、ギョクハンにとって、本当に、誇りだ。しかし傭役軍人も金で雇われた軍人で、主人が使い捨てしようと思えばできる存在だった。
ファルザードはどうだろう。ファルザードも酒汲みの奴隷だ。彼は何か奪われただろうか。そういえば彼がどこからどういう経緯でワルダにやって来たのか聞いていない。昨夜売春していたことをほのめかしていたが、具体的にどうやって暮らしてきたのだろうか。
自分はもっと世界を知らなければならない。
――傷つけられたからって傷つけていいと思わないでよ!
「……まあ、ファルの言うとおりなんだけどな」
自分は五人の逃亡奴隷を殺した。いつか何かの報いを受けるのだろうか。
この男は、商館に引き渡されたあと、シャジャラの行政府に送られるだろう。そして裁きを受けるだろう。カリーム人の法で断罪されるだろう。カリーム人から物を奪い、カリーム人の女性に乱暴をはたらいた罪だ。もしかしたら、死刑になるかもしれない。
どうするのが正解だったのだろうか。
ややして、商館の職員たちが三十名ほどという大勢でたくさんの松明を持ってやって来た。
彼らが到着するまでギョクハンの足元の代表者の男は気を失っていた。周囲に人が集まって完全に取り囲んだ段階で、ギョクハンが蹴り飛ばしてようやく目を開けたが、すでに逃げられる状況ではなかった。ましてや手首を縛り上げられている。
彼は抵抗しなかった。商館の職員たちに連れられて、どこかへ運ばれていった。
能天気な足取りでジーライルが近づいてくる。
「おめでとう、ありがとう、お疲れ様! すごいよギョクくん! 誰も仕留められなかった精霊を見事討ち取ったわけだ!」
ギョクハンはうつむいたまま「いや」と答えた。
「ファルがいたから――ファルがうまくやったから。俺は最後に戦っただけだ」
「なるほど、なるほど。ファルちゃんもいっぱい褒めてあげなきゃだねっ」
「ファルがいなかったら、俺、どうなってたか、わからないな」
「なぁーにまた弱気なことを! ファルちゃんがよくできることとギョクくんがよくできることは反比例するもんじゃないから安心しなさい!」
ジーライルに三度も肩を叩かれた。ギョクハンは何の反応も返せなかった。
翌日、シャジャラのカリーム人行政官たちは逃亡奴隷の隠れ家を突き止めた。行方不明だった八人の女性が保護されたという。
その話を、ギョクハンとファルザードは商館で報奨金の受け取りの手続きをしている間に聞いた。
「その女の人たち、これからどうなるのかな」
自分の荷物を抱き締めつつ、ファルザードが遠い目をして言った。ギョクハンも遠くを見てしまった。彼女たちももうこれまでどおりの生活に戻れないかもしれない。
「後味わるーい」
商館にいた商人たちが皆二人を褒めたたえたが、二人とも笑わなかった。
五万金貨が支払われた。
五万枚の硬貨はやはり気軽に持ち運べる量ではなかった。
ギョクハンとファルザードは、路銀の足しにするための二百金貨だけふところに納めて、残りは全部シャジャラの銀行に預けることにした。
受け取りを拒否してもよかったが、金はあって困るものではない。もしかしたらヒザーナまでの道のりで路銀が足りなくなるかもしれないし、いつか遠い未来何かの時にザイナブの役に立つかもしれない。おとなしく商館の薦めるシャジャラの銀行に託した。
「じゃ、ヒザーナに行こうか!」
ジーライルの笑顔ばかりが明るい。
ギョクハンとファルザードは、それでも素直に「はーい」と言ってジーライルの後ろを歩き出した。
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第1話:https://note.com/hizaki2820/n/n89f5265cb651
第2話:https://note.com/hizaki2820/n/na259090eced5
第3話:https://note.com/hizaki2820/n/n96ac939f9f93
第5話:https://note.com/hizaki2820/n/n104eb033687c
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第9話:https://note.com/hizaki2820/n/n3b8d92fa23e6
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