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狼の子と猫の子のアルフライラ 第8夜:僕たちの価値

 ファルザードの予想どおりだった。
 怒風組の背後には、宮廷で絶大な権力を握っている人間がいた。

 大宰相ワズィールウスマーン――この国で皇帝スルタンに次ぐ政治的権力を持った男だ。
 政治に疎いギョクハンでも知っている大物だ。
 検地をし、台帳を作り、徴税する。諸外国の王や諸侯と渡り合い、外交手腕で帝国を守る。軍事的な活動をしているという話は聞いたことがないが、ある意味では最強だ。

 しかし、ケレベクに連れられて円城の中に向かい、実際にウスマーンの邸宅で本人と会ってみると、そんなに恐ろしい男だとは思えなかった。真っ白な髪と同じく白く長いひげ、やせ細った体躯、細められた目は、穏やかな好々爺こうこうやといった印象だ。

「なんと、ワルダから来たのかね。遠路はるばるヒザーナへようこそ」

 ウスマーンが言う。それからひよこ豆の焼き菓子を差し出して「食べなさい」と促す。ギョクハンは手を伸ばしかけたが、その手の甲をファルザードに叩かれて我に返った。相手はまだ信用できる人間かわからない。知らない人に出された食べ物をほいほい口にしたらいけないのだ。

「どうしたのかね、少年」

 ひげの下で、唇の端を持ち上げる。

「遠慮なく食べなさい。食べ盛りだろう」

 ギョクハンもファルザードも、唾を飲み込んだ。緊張する。相手は、帝国の最高権力者なのだ。

「あなたは何をしたいんですか」

 ファルザードが問う。

「あなたにはできないことはないでしょう。今の皇帝スルタンに直接政治を取り仕切る気がないんだったら、実質あなたが皇帝スルタンみたいなものではありませんか。それなのに、わざわざ、任侠アイヤールを使って。遠回りだと思います」
「それがそういうわけにもいかない」

 ウスマーンが答える。

皇帝スルタンの決裁が必要なのだ。私はあくまで宰相ワズィール。私がすることに応と言っていただかなければ何もできない」

 自らのあごひげを撫でながら言う。

「まあ、たいていのことには決裁をいただけるけれども」
「何か、決裁をいただけなかったことがあるのですか」
「鋭いね」

 ウスマーンが自ら焼き菓子を食べた。それを見て、ギョクハンは安心して焼き菓子に手を伸ばした。何か毒物が入っているということはないだろう。今度こそファルザードは止めなかった。

「正確には、私の意見が取り入れられなかった」
「何がですか」
「皇位継承についてだ」

 茶の注がれた茶碗に手を伸ばす。

「サラーフ陛下は近々ご退位あそばれるご予定だ。そしてご自分の指名したご子息、つまり皇太子殿下を皇帝スルタンになさるおつもりだ。しかし私はこの皇太子殿下があまり好きではない。彼に皇帝スルタンになられたら困る」

 茶をすする。

「皇太子殿下に実権を握られたら――」
「大宰相ワズィールの権限が縮小される、とか?」

 ウスマーンは茶を飲むばかりで明確に回答しなかった。

「皇太子様を引きずり下ろして、どうするんですか。他に推薦したい皇子がいるんですか?」
「いや」

 心臓がきゅっと握り締められた気分になる。

「今の皇家には滅んでもらわなければならない。今の無能な皇帝スルタンと向こう見ずで言うことを聞かない皇太子では私が作り上げた帝国が滅びかねないのだ」
「それで? あなたが皇帝スルタンになるんですか」

 ウスマーンが答えないので、ファルザードがさらに詰め寄った。

「皇太子様や皇帝スルタンに納得がいかないから、怒風組を使って世直しを?」

 今度こそ、ウスマーンは答えた。

「そうだとも」

 後ろを見やって「なあケレベク」と言う。ギョクハンとファルザードの後ろに立っていたケレベクが首を垂れる。

「ケレベクはもとは私の傭役軍人マムルークだったのだ。しかし片目が潰れてしまって任を解くしかなかった。だが有能な部下を失うのが惜しかった。新しい地位を保障してやりたかった」

 ファルザードが鋭く切り込む。

「本当に大事なら片目が潰れようが両目が潰れようがお手元で世話するべきだったのでは? どうしてわざわざおたずね者にしたんですか。ケレベクさんはもう表社会で官職を得ることはできませんよ。大宰相ワズィール傭役軍人マムルークだったら宮廷に上がって武官になれたのに」

 ウスマーンが初めて眉を動かす。

「もっと大事な仕事ではないか。裏社会を取り仕切ることができる。これも一人の王だ」
「嘘ばっかり。表社会を取り仕切るよその国の王たちは誰も承認しませんよ。取り引きできるのはよその国の任侠アイヤールだ」
「承認させる」

 その声は力強い。

「私が皇帝スルタンになれば、できないことはない」

 唾を、飲んだ。

「やっぱり、国家に対する一撃クーデターであることを認めるんですね……!」

 ファルザードが問う。

「そんなことしたってついてくる人はいるんですか」
「いる」

 ウスマーンは即答した。

皇帝スルタンに不満をもっている層、怒風組を支持する層、そして――ナハルだ」

 その言葉を聞いた途端、手が痺れるような衝撃を受けた。

「ナハルは傘下でも最大の兵力を持つ国だ。ナハルが周辺諸国を制圧した上で私のもとにくだれば巨大な勢力になる」
「おい、待てよ」

 ついギョクハンまで声を荒げてしまった。

「あんた、ナハルがワルダに攻め込んだことも知ってるのか」
「もちろんだとも」

 ウスマーンは冷静な顔だ。

「ナハルが皇帝スルタンに次ぐ第二位の軍事力だとすれば、ワルダは第三位の軍事力をもつ国だ。併合すれば帝国の外の国をも威圧できるほどの大きな力になる」
「何言ってんだよ。なんであんたが皇帝スルタンになるのにワルダが犠牲にならなきゃならないんだよ」

 ファルザードも大きな声で言った。

「つまり。あなたを通しても、ワルダに援軍を送ってくれることはないんですね」

 ウスマーンが、笑った。

「そのとおりだ」

 そこで「おい」と言ったのはケレベクだ。

「話が違うぞ。あんた、こいつらを連れてきたら助けてやるって言ったじゃねぇか」
「お前はまっすぐすぎるのだ」
「あんた――」
「何が仁義だ、何が正義だ、何が忠義だ。国を取り仕切るのは理屈をねじ伏せる圧倒的な力だ」

 茶碗を置く。

「私の治世を掻き乱すガキはいらん。二人とも殺せ」

 周囲に控えていたウスマーンの私兵たちが、槍の穂先を、ギョクハンとファルザードに向けた。

「ムハッラムには何が何でもワルダ城を落としてもらわねばならん。ハサンの娘だか息子だか知らないが何でもムハッラムにくれてやる。むしろワルダの私に反抗する一族が滅ぶのならば万々歳だ」
「……くそっ」

 ギョクハンもファルザードも、立ち上がった。

 ここまで来たのが無駄だった。

 ギョクハンは怒りで震える手をもって刀の柄をつかんだ。

 ザイナブのためだけを思ってここまでやってきたのに、裏切られた。

 ウスマーンの私兵たちが一歩踏み出す。

 刀を、引き抜いた。

 それでも最後まで戦う。

 ウスマーンを放置していたらワルダは滅びる。

 戦うのだ。信じたもののために。

 構えた。

 その時だった。

 扉が勢いよく開けられた。

「そこまでだ、ウスマーン」

 いくつもの足音、それから鎧のこすれ合う金属音を聞いた。

 振り向いた。

 小さな金属板を無数に取り付けた鎧の男たちが、部屋の中に入ってきていた。
 男たちの背には旗が翻っていた。
 黒一色の旗に金糸で聖典の文句の刺繍が入っている。
 皇帝スルタン直属軍の証の旗だ。

 中央に立っていた青年が一歩前に出た。

「とうとう尻尾を出したな」

 背の高い美丈夫だった。はっきりとした二重まぶたに高い鼻筋、鼻の下は剃って顎ひげは短く整えている、清潔感のある男性だ。年の頃は二十代半ばほどだろうか。顔立ちは端整で甘いが、たくましい肩や骨張った手は彼が鍛えていることを示していた。

「今度こそ現場を押さえたぞ。貴様が非合法組織怒風組と結託していること、皇帝スルタンの許しなしに他国を侵略しているナハルを支援していること、それから皇帝スルタンへの反逆を企てていること。ここにいる全員が聞いた」

 低い声は通りがよく、部屋の中に響いた。聞きおぼえがある。どこかで聞いたことのある声だ。どこでだろう。

皇帝スルタンサラーフの御名のもと貴様を捕らえる」

 右手を挙げ、「かかれ!」と号令した。
 兵士たちが駆け出した。

 ウスマーンが立ち上がり、動揺した声を上げた。

「皇太子殿下……!」

 ギョクハンとファルザードは、その場で腰を下ろして、顔をしかめた。

 聞いたことのある声だ。

 蜜色に近い金髪、同じく蜜色のひげ、そして何より碧色の瞳――

「待たせたね、ギョクハン、ファルザード。ありがとう、とても助かったよ」

 駆け寄ってきてにこりと微笑むさまはいかにも好青年だが――

「えーっと……」

 周囲の乱闘騒ぎもものとせず、青年が二人のそばにしゃがみ込む。

 青年の後ろからまた別の青年が顔を出した。「いえーい」と言って両手を振るジョルファ人の男は見慣れたジーライルだ。

「あの。まさかとは思いますけど」
「何だい」
「ひょっとして、アズィーズ様ですか」

 ジーライル同様、金髪の青年――皇太子アズィーズが、「いえーい」と手を振った。
 青天の霹靂とはこういうことを言うのだ。
 絶句し、唖然としているギョクハンとファルザードを、アズィーズがまとめて抱き締める。

「危険なことをさせて本当にすまなかったね。だが私も公的権力側の人間である以上堂々と大宰相ワズィールを攻撃することはできなかった。私まで非合法なことをしては今まで積み上げたものを失いかねない。それだけは避けなければならなかったんだ」

 左手でギョクハンの、右手でファルザードの頭を撫でながら、「君たちが無事でよかった」と言う。ジーライルが「本当に、本当に」と笑いながら泣いているふりをして服の袖で目元を拭った。

「皇子様だったとか……」
「嘘でしょ……」
「いやあ、それが、嘘でなく本当で。事実君たちは私の名前を出せば円城の中にも自由に出入りできたし、どこに行っても手厚くもてなされただろう?」
「うへぇ……」
「確かに……」
「信じてくれるかい?」
「まあ……、皇帝スルタン直属軍を動かせる人って言ったら、皇帝スルタンの親族だよな……」
「ひええ……冗談きついでしょ……」

 ジーライルが「満足かーい?」と問いかけてくる。彼は皇太子の密偵だったのだ。

「絨毯商人とかよく言うよ!」
「いや宮殿の絨毯を買い揃える仕事もしてるよ、ほんとほんと」

 アズィーズが呵々かかと笑う

「ジーライルはもとは宮殿にいた奴隷なんだ。私が自由民にして好きな活動をするように言ったんだよ、代わりに私が困った時には手を貸すようにという約束でね。私が堂々と動けない時はジーライルにあれこれ頼んでいる。でもまあ、普段はジョルファ人の仲間とつるんで商売をしているらしい」

 四人がしゃべっているうちに兵士たちはウスマーンの私兵を片づけたようだ。縛り上げられたウスマーンが「小癪こしゃくな」と叫んだ。

「私なしにまともな政治ができると思っているのかこの青二才が! 今まで私がどれだけ帝国に貢献してきたか知らずにこんな真似、恩知らずめ!」

 その叫び声は追い詰められた老人の声だった。
 アズィーズが冷静な声で答える。

「そうだな、貴様が父を補佐してくれたおかげで助かった。私はじっくり自分の支度に時間を費やすことができたよ」
「だったらなぜこのような仕打ちを!?」
「法を破った人間を見過ごしては皇帝スルタンの威信を傷つけるからね。皇帝スルタン自らが率先して法を破ることを推奨していると思われたら、従う人間はどんどん減って、また貴様らのような反逆者を生み出すだろう。周辺諸国にも安全な国だとは思ってもらえないに違いない」

 彼は断言した。

「法とは守るためにあるからね。法を守った人間こそ守られなければならない。法とは最大多数を保護するためにある。そしてこぼれ出た人々を救うために日々更新されていくべきだ。貴様はそれをおこたり、殺人、恐喝、強盗で解決してきた。貴様には法を更新する地位と立場があるのに、しなかった。なぜか? せっかく築き上げた地位を広く一般に意見を募集することで批判を浴びたくなかったからだ。貴様は、怒風組の貴様にとって都合のいいことしか言わない連中と馴れ合うことで、自分の器の大きさを過信して権力に酔っていたわけだ」

 ウスマーンが唸った。

「貴族だろうが貧民だろうが等しく守られる国。それが私の国だ」

 アズィーズの言葉に迷いはない。

「そして私には貴様や父上と違って法が更新されるまでこぼれ出た人々を拾い上げ続ける覚悟がある」

 その碧眼はまっすぐだ。

「どれだけ過去の実績があろうとも、一度悪の道に染まった人間は裁かなければならない」

 やっと、信頼に足る人間に出会えた気がした。

「悪の道、か」

 ケレベクが笑う。

「貴様がいくら正義を気取ろうとも、第二第三の俺が出てきて悪は栄えるぞ」
「私は私を正義だとは思っていないよ」

 アズィーズはなおも堂々としている。

「ただ、十代の少年二人を囲んでなぶり殺そうとする大宰相ワズィールよりはいいやつだと思っている」

 ケレベクはまた、今度は高らかに声を上げて笑った。

 兵士たちが、ウスマーンとケレベク、それからウスマーンの私兵たちを引きずるようにして連れて出ていった。ようやく、場が静かになった。

「――さて」

 アズィーズが、息を吐く。

「行こうか」

 ファルザードがか細い声で「どこへ?」と問いかけた。アズィーズは微笑んだ。

「決まっているじゃないか。父に――皇帝スルタンに会いに行くんだろう? ワルダを救うために」

 ギョクハンとファルザードの顔に笑みが広がった。

「その前にちょっと腹ごしらえかな。ジーライル、近くの食堂を手配しなさい。四人前で」
「はいはーい! と言いたいところですけど、その子たち平気で一人につき二人前くらい食べますよ」
「では十人前ぐらい頼んでおいてくれ。残したら私が食べるよ」

 円城の中心、皇帝スルタンの住まう宮殿は、果てなく続く列柱、高い曲面架構ヴォールトの天井にある小さなくぼみの連なりでできた鍾乳石飾りムカルナス、そして透かし彫りの窓から差し入る幾何学模様の月明かりで構成されていた。雄大で、壮大で、ギョクハンの語彙では言い表せない世界が広がっていた。

 大小さまざまな九つの噴水が並ぶ中庭を通り、その奥にある、中庭側の壁がない部屋、前面開放広間イーワーンに通された。敷かれた絨毯には植物のつるの紋様が編み込まれている。正面には聖典の文句が縫い取られた大きな壁飾りの布が掛けられている。その手前、玉座は四本の柱に支えられる天蓋付きで、肘掛けに紅玉ルビーが埋め込まれていた。

 ギョクハンは、玉座の前で、ファルザードと並んでひざまずいていた。ギョクハンの斜め後ろにはアズィーズが、同じくファルザードの斜め後ろにはジーライルが控えて、同じようにひざまずいている。

皇帝スルタンのおなり!」

 近衛兵たちがひとりの男を囲んで隣室から出てきた。

 ギョクハンは、その男を見て、不思議な感傷に包まれていくのを感じた。

 ハサンと同じくらいの年の男性で、巻き布ターバンを巻いた頭の栗色の髪には白髪が交じっている。伸ばした背もそれなりに高そうである。しわの刻まれた目元は穏やかで、優しそうな男だった。
 だが、ウスマーン邸に入ってきた時のアズィーズに感じたような力強さ、頼もしさはない。
 もっと言うなら、覇気がない。

 目が合いそうになった。慌てて頭を下げ、目線を斜め下に移した。

 玉座にあぐらをかく、その膝だけが見える。

「顔を上げよ」

 低く落ち着いた声だった。しかし攻撃的ではない。

 ギョクハンは顔を上げて皇帝スルタンの顔を見た。

 皇帝スルタンサラーフだ。

 やっと会えた。自分たちは、ようやく、ここまで来ることができたのだ。

「話はすべて息子から聞いた」

 サラーフが言う。

「ワルダからの長旅、ご苦労であった。ここに至るまでの道中での数々の活躍も、アズィーズやジーライル、ほか各地の代官から情報が寄せられている。さぞや大変であっただろう」

 ねぎらわれて、胸の奥が温まる。
 同時に、ギョクハンは悲しくなった。
 サラーフが悪だとは思われなかった。
 むしろ優しく穏やかで、地方の城主であれば領民たちに仰がれて静かな人生を送るだろうと思えた。
 ただ、この男がウスマーンやアズィーズのような気の強い連中に囲まれると意見できないのも、なんとなく、伝わってきてしまった。
 皇帝スルタンとは、優しいだけではやっていけないものなのだ。

「特に大宰相ワズィールウスマーンの件は大儀であった。あとで褒美を取らせようと思う」

 ファルザードが言った。

「そのお言葉をお待ちしておりました」

 ギョクハンはついファルザードのほうを見てしまった。
 彼はまっすぐサラーフを見つめていた。

「たいへん不躾ではございますが。さっそくですが、褒美として頂戴いたしたいものがございます」
「なんと。そなた、なかなかの豪胆であるな」
「申し訳ございません。たいへん急いでおりますので」

 そんなファルザードを叱る者はなかった。ギョクハンは少し焦ったが、ジーライルは澄ました顔をしているし、アズィーズなどは声を漏らして笑っている。

 ファルザードは、揺らがなかった。

「援軍を」

 その言葉は明瞭で、高い天井に反響するかのようだった。

「ワルダ城をお救いください。城主ハサン様の姫君であるザイナブ様が、陛下のお力を必要としております。今もお待ちしていることと思います」

 首を垂れ、「どうか」と懇願する。

「一刻も早く……! 今すぐにでも! ナハルを倒し、ワルダ城を解放してください。僕が――僕たちが望んでいるのは、それだけです」

 サラーフは、しばらくの間沈黙していた。嫌な沈黙だった。ギョクハンの緊張はさらに高まった。

 やがて、溜息をついた。

「ムハッラムか」

 ぽつりと呟く声は物悲しく――

「お前たちにとっては可哀想だが、それは、気が進まぬな」

 静かで、弱々しくて――

「ナハルが離反したら、帝国は揺らいでしまうのだ……。ナハルを敵に回したくない」

 ギョクハンも、大きく息を吐いた。

「ハサンはやはり、死んだのか」

 ファルザードが、「はい」と頷いた。

「そうか……残念だ」

 指輪をつけた両手で、自らの顔を覆う。

「ハサンが、どうしても、と申すならば。余ではなく、ハサンの意思であると言えるのならば。少し考えたのだがな」

 ギョクハンの心が波立った。

「万が一のことがあった時、余の責任にされたくない」

 こいつは皇帝スルタンの器ではない。
 この弱い男に振り回されて帝国は揺らいでいるのだ。

 それに、自分たちの失敗もあった。
 ザイナブの手紙があれば――ザイナブが皇帝スルタンの力を求めているという証拠があれば、もう少し揺さぶれたかもしれない。ザイナブの名の下に戦うという大義名分ができれば、この男は動いたかもしれないのだ。ザイナブはきっとそこまで見越して手紙を書いたのだろう。
 だがその手紙はもうない。

 何を言えばこの男を鼓舞できるのだろう。
 思いつかない。

 ギョクハンがうつむいた、その時だ。

「――王の中の王、カリーム諸王国のすべてを統べる者」

 ファルザードが、呪文を唱え始めた。

「アシュラフ帝国の正統な後継者にしてミスライムとトゥランとユーナーンとサカリヤの庇護者、二つの河を有し肥沃な土地を守る豊かなる者、神に選ばれ天下を治める者、正しく裁く者にして寛容なる者、栄誉と博愛の主、正しい導き手、神の恩寵を一身に受ける、ムブディの子のハミードの子のザーヒルの子、アブー・アズィーズ、皇帝スルタンサラーフ陛下」

 そのままの姿勢で、目を、丸くした。

 あの、長い美称だ。

「かの邪知暴虐のムハッラムが侵攻せしめるは我が父ハサンの統治したる薔薇の都ワルダ、慈悲深く叡智あるサラーフ陛下におかれては哀れなる小娘をお見捨てにならぬとのこと我確信せり。刮目されよ、ワルダ城の行く末、その先に見ゆる帝国の末路を。ワルダ城まさに落ちんとす」

 ギョクハンは鳥肌が立つのを感じた。
 ファルザードはあの手紙を暗記したのだ。ワルダ城を出た翌日の昼、緑地オアシスで寝転がっていたあの一瞬で、すべて記憶したのだ。
 いまさら、ファルザードが実はとてつもなく賢いのではないか、というのに思い至った。考えの足りないギョクハンのために、ザイナブは頭脳を授けたのではないか。

「ザイナブ様からの伝言です」

 サラーフも驚いたようだった。上半身を起こし、目を大きく見開いてファルザードを見ていた。

「ザイナブ……!」

 自分の口を手で覆い、「あの小さかった娘が」と呟いた。

「確かにザイナブだ。その美称は、ハサンが考えたもので、ハサンとその子供しか知らぬのだ」

 立ち上がり、二人のほうへ歩み寄る。

「おお、可哀想なザイナブ! すぐに余がザイナブを助けに――」

 途中で「いや、ならぬ」と言って立ち止まる。

「ここで情に流されては……、焦って行動しては……また……」

 ファルザードが怒鳴った。

「では! 何をしたら動いてくださるんですか!」

 サラーフが気圧けおされた様子で、おびえた目でファルザードを見た。

「ワルダを救って、ナハルを攻めて、帝国はいかなる得をするのであろうか」

 ファルザードは即答した。

「帝国は知りませんが陛下に利益はあります」
「何か」
「僕が陛下のものになります。お好きなようにお使いください。僕は百万金貨ディナールですので」

 声は力強く、いつかの夜に聞いた弱さやためらいは一切感じられない。

「いえ、一千万金貨ディナール、一億金貨ディナールの価値のある人間ですので。もし望まれるのでしたら、陛下のために、帝国を大きくしてご覧に入れましょう。僕は可愛いだけではありません。僕の――僕たちの力には、陛下が賭けるだけの価値があります」

 ついでとばかりに「ギョクもつけますので」と言われた。ギョクハンは反射で「いや俺おまけかよ」と言ってしまった。

 サラーフが笑った。
 彼は、玉座に戻って、座った。そして、こぼれ落ちる涙を自らぬぐった。

「そなたたちがかように戦っておるというのに、余が何もせぬのでは、ハサンにも他の民にも申し訳が立たぬな」

 すぐさま「アズィーズ」と息子の名を呼んだ。アズィーズが前に歩み出てから膝をつき、「はっ」と返事をしながら改めてひざまずいた。

「一週間以内に直属軍および皇帝スルタンに従う国々の全兵力を集めてワルダ城に向かえ」
「御意」

 アズィーズが深く礼をする。そして、立ち上がる。

「ファルザード」

 不意にアズィーズがファルザードの名を呼んだ。ファルザードが「はい」と返事して振り向いた。

 アズィーズの手が、ファルザードの小さな頭を撫でた。

「君は物ではないから、賭け事に使うのはやめなさい。一千万金貨ディナールを出せば君を十人買えるというわけではないんだよ。君はこの世でたった一人しか存在しない、かけがえのない人間なのだから」

 彼の穏やかな言葉に、ファルザードは口を尖らせた。だが彼のそれは納得していないがゆえのものではない。照れだ。

「ギョク、君もだ。ハサンが君に払った金額がすなわち君の価値というわけではない。それを、忘れないように」

 ギョクハンも同じように口を尖らせた。

 アズィーズが手を離し、家臣たちに向かって号令する。

「戦支度をせよ!」

 家臣たちが散っていく。

 サラーフが、満足そうに微笑んで、言った。

「そなたたちにはそなたたちに見合うだけの――いや、違うな。このたびの活躍についての報奨金として、百万金貨ディナールを授けよう。だから、アズィーズとともにワルダ城へ帰れ。そして百万金貨ディナールとそなたたち自身をワルダ城の再建のために使うのだ」

 ギョクハンもファルザードも、すぐに「はい!」と返事をした。

 その夜、空に大きな満月が輝いた。その光輝の美しさはまるで少年たちの活躍を祝し前途の多幸を祈念するかのようだ。

 アズィーズは露台バルコニーで一人、夜風に吹かれていた。

 露台バルコニーの下には、宮殿を囲む塀と塀に設置された松明の火が見える。
 その向こう側、円城の中の高級住宅街に燈る暮らしの火が見える。
 さらにその先、城壁の向こう側、市井の民が宿した市場の火が見える。

 ヒザーナの夜は一見明るく豊かだが、その足元には虐げられた人々の暗澹たる生がある。彼らを虐げているのは悪逆の君主ではなく社会全体の空気だ。

「しかし、社会全体の空気を変えられない君主は悪逆とみなしてもいいだろう」

 一人呟く。そして遠く街の火を眺める。

「アズィーズ様」

 アズィーズが振り向くと、部屋の中の暗い影から立ちのぼるようにジーライルが姿を現した。

「二人はおとなしく寝たかい?」
「ええ。二人とも安心したのかすぐ眠りに落ちたようです。今は熟睡していますよ。このまま朝まで穏やかに眠り続けてくれるといいのですが」

 ジーライルがアズィーズの隣に立つ。そして露台バルコニーの手すりに肘をのせる。

「やっと、ここまで来ましたね」

 その声には万感の思いが込められている。

「すまなかった。待たせているね」
「待ちましたよ。ええ待ちました。僕はアズィーズ様がウスマーンを倒して皇帝スルタンになる日を待ちわびていたんです」
「もう少し待ってくれ、ワルダ城のお姫様を救い出さなければならない。皇帝スルタンになるのは用事を済ませた上でヒザーナのこの宮殿に戻ってからだ」
「はいはい、もう少しですね。ここまで来たら最後まで待ちます、だーいじょうぶ、だーいじょうぶですよ」
「最後じゃない。最初だ」

 アズィーズは、断言した。

「私の時代は、私が皇帝スルタンの座についてから始まる。今までのことはすべて布石に過ぎない」

 ジーライルは、頷いた。
 アズィーズが、前を向く。

「あの子たちには可哀想なことをした。あやうく私の時代の犠牲にするところだった。私はもう苦しむ者をなくしたいと思っていたのにな。間一髪のところで助けられたが、あの二人のがんばりがなかったら今頃何がどうなっていたかわからない」
「そうですね。ウスマーンは面倒臭い敵でした」
「ウスマーンの件だけではない、ワルダ城の件も、だ。あの二人は一時《いちどき》に私がどうにもできなかったことを何もかも解決してくれた。何をしたら報いることができるのかずっと考えている」
「問題ないですよ、結果的に二人とも生きて元気で食べて寝てるんですから」

 苦笑して続ける。

「それに。あの子たちは、ワルダを助けてくれれば、満足なんです」
「そうかな」
「ずっと。最初に砂漠で出会った時から。あの二人は、ずっと、そればかりで。一切ぶれていませんよ」

 アズィーズは「強いな」と呟いた。

「その義は何物にも代えがたい。『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』にとっては何よりもの宝だ。『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』は幸せ者だな」

 ジーライルが黙ると、アズィーズは「おおっと!」と言いながら手を伸ばし、ジーライルの後頭部を撫でた。

「私も幸せ者だよ! 私にはお前がいるじゃないか、ジーライル!」
「なんだ、お忘れかと思いましたよ」
「お前のことを思いながら言ったに決まっているだろう。私にとってのお前が『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』にとってのギョクハンでありファルザードなんだ。世の中というのはうまくできている」
「僕は、あなた様にとって、何よりもの宝ですか」
「当たり前だ」

 アズィーズが断言すると、ジーライルは安心したのか、肩から力を抜いた。

「結局のところ、正直者が生き残るし、そうでない社会は是正されるべきなんだ」
「おっしゃるとおりで」
「そして是正する務めを神より授けられしはこの私アズィーズときた。いいね、最高の気分だ」
「はいはい、それもおっしゃるとおりですよ」

 二人とも、どちらからというのでもなく、露台バルコニーの手すりから上半身を起こす。

「百万金貨ディナールどころじゃ買えないさ。ギョクハンも、ファルザードも。お前もね」

 ジーライルが「本当にね」と相槌を打つ。

「ちなみに僕、いくらだったんです?」
「聞いて驚け、三百金貨ディナールだ」
「やっす! 僕めちゃくちゃ安いですね!? ジョルファ人だからですか? それとも僕自身が人気なさすぎて?」
「まあ、過去の話だ。今なら三百万金貨ディナールでも出すべきだと思うよ。金貨ディナールという単位でお前の価値をはかれるとも思わないが、たとえ話としてね」
「せめて三百金貨ディナール分は働かないといけませんね」
「三百金貨ディナール分とは言わず、一生そばにいてほしい」

 顔を見合わせる。

「それ、『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』にも言うんですか?」
「これから口説く予定の女性とはそもそも金の話をしない」
「賢明ですね! さすがアズィーズ様!」

 二人とも声を上げて笑った。

 月はまるく輝いている。空が明るい。足元もよく見える。

「さて、我々も寝ようか。明日からは砂漠を行軍だぞ」
「えっ、待ってくださいよ。それ僕も行くんですか?」
「もちろん」
「ワルダまで?」
「もちろん」
「三千のナハル兵が囲んでいるところですよね?」
「もちろん!」
「……本気で支度します」
「よろしく頼む!」

 二人連れ立って部屋の中へ入っていく。

「案ずることはない。帰った時の祝賀会で何を食べたいかだけ考えていなさい。私に任せておけば全部丸く収まる!」
「とかなんとか言っちゃって、またどこかに潜入しろとか言うんでしょー! 僕はもう騙されないんですからねー!」
「頼りにしているよ!」
「もう、しょうがないですね。――すべて、おおせのままに」

続きへのリンク

第1話:https://note.com/hizaki2820/n/n89f5265cb651
第2話:https://note.com/hizaki2820/n/na259090eced5
第3話:https://note.com/hizaki2820/n/n96ac939f9f93
第4話:https://note.com/hizaki2820/n/nbf0442a02e54
第5話:https://note.com/hizaki2820/n/n104eb033687c
第6話:https://note.com/hizaki2820/n/nae52720cea71
第7話:https://note.com/hizaki2820/n/nbdef5e931cf1
第9話:https://note.com/hizaki2820/n/n3b8d92fa23e6

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