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営業・制作・人事…1社で3職種経験した学び。

先日、生まれてから大学卒業までのことをまとめてみました。

2014年に大学を卒業し、エン・ジャパンに入社。営業→制作ディレクター→人事と多くの職種を経験しました。その中でどんな体験をしてどんな考えを持つようになっていったか、改めてまとめてみます!

求人広告の営業からキャリアスタート

配属先は複数の候補がありました。内定者時代の私の希望は、キャリアパートナーという求職者の転職を支援する職種。カウンセラーを志していたこともあり、対面で1人の求職者と向き合いたいと考えていたからです。

実際の配属は求人広告(エン転職)を扱う部署の法人営業。最初は少しがっかりはしましたが、そこの配属が大半と聞いていたので、さほど意外ではありませんでした。なんとなくそこに行く気はしていたので。

配属されたのは、その中でもメーカー・商社業界の支援が中心のグループ。先輩と1年目の比率は1:1で、ほかのグループと比べると先輩が少なめ。先輩がすぐ近くにいないことも多かったため、同期同士で助け合う必要がありました。

同期はもちろん、最初の上司には恵まれていたと思います。詰めるというよりは、楽しんでやっていこうという感じ。理不尽に怒られた記憶はありません。おかげでしんどいながらも楽しく働けました。

1年目は新規開拓がメイン。とにかく新規架電の量をこなしていました。アポの合間の飛び込みも。当時は「en社会人の就職情報」というサイト名で今ほどの地名度もなく、電話をすると「何それ?」と言われ話を聞いてもらえないことも多かったです。

それでも基本行動として架電数と訪問数の日目をこなす日々。

まったく売れなかった営業1年目

恥ずかしい話、1年目の1月まで目標を達成したことがありませんでした。初めて1人で受注できたのは10月。

同じグループの同期はどんどん1人で受注できるようになっているし目標も当たり前に達成できている中、めちゃくちゃ焦りました。

そんな当時、私は上司や先輩にはハムスター(滑車を回している様子が似ていたらしい)と呼ばれて組織ではペット扱い(悪口とかではなく)。かわいがってもらい居場所があったのはありがたかったのですが、給料分の働きができていない自分が本当に不甲斐なくてしかたなかったです。ただの愛玩小動物ではなく、猟犬くらいには昇格したくて頑張りました。

日々のやるべきことはちゃんとこなせていたはず。同期の誰より顧客接点をとっていたと思います。ただ、なかなか売れない。営業は向いていないのではないかと悩んだり、本当は求職者支援がしたいのにと気持ちの矛先がどんどんブレていきました。(今思えば、クロージングの弱さと提案先の目利きが問題だったと思いますが)

当時の上司に「今日いいことあった?」と聞かれただけで号泣するくらいには凹んでました。そのままビルの1階にあるエクセルシオールに連れていってくれて、ココアを飲みながら励ましてくれたので何とか持ち直しましたが、だいぶ困らせたと思います。

花開いたのが1月。これまで訪問していた企業から続々と採用ニーズが上がり、お客さんの方から私宛に問い合わせをくれるように。その頃には自分から電話営業をしなくても、提案機会がたくさんある状態になっていました。

思い返せば、接点をとっていた企業は採用ニーズ発生の頻度が少ない企業。商談中にすぐ契約につながる可能性の方が低いので、商談時には必ず以下を徹底していました。

・自己開示をする
・担当者のことをよく知る
・企業の状況を理解し、課題を把握する
・その課題を解決しうる提案を先んじてしておく(ニーズ発生時に備えて)
・会サービスの紹介&顧客へのメリット提示
・ニーズ発生時に私orエン転職に声をかけてくれるか同意をとる

地道に上記のように自分自身やサービスの「価値づけ」を徹底していたことが成果に繋がりました。

2月に初めてhigh達成を果たし、グループ内のMVPを頂いきました。上司や先輩にはお世話になっていたのに成果で返せていなかったので、本当に嬉しかったです。というより、安心という表現の方がふさわしいかもしれません。受賞コメントは泣きすぎて何言ったか覚えてないです。

自分の使命を意識した営業2年目

1年目の1月以降、安定的に目標を達成できるようになりました。それまでは売れない自分が不甲斐なくていっぱいいっぱいでしたが、組織のために何かをしようとか、もっと別の目的を持とうとか、以前より高い視座で仕事ができるようになりました。

2年目のタイミングで最初に所属した組織は解体。業界別組織ではなくなり上司も変わりました。その時メーカーや商社をメインで担当しているのは私とあと数人のみ。当時、メーカーや商社は求職者からの人気が高く応募が集まりやすいのが特徴でした。

営業は、より多くの求人を載せて求職者にとってより魅力的な求人サイトにする役割も担います。その中で、人気業界・企業が多く載っていることはサイトの価値を高めることに繋がるのでは?そしてメーカー・商社を担当しているのは自分。

私が1社でも多くの企業にアプローチすることはユーザーにとって価値が高い!という使命感が芽生えました。そこからの仕事はこれまで以上に楽しむことができました。

多くの営業はディレクターに取材以降の業務を引き継いでいましたが、私は全部やりたいというこだわりが捨てきれず、キャパがある限りは自分で取材~掲載まで担当していました。

※制作ディレクターとは※
営業から契約企業を引き継ぎ、求人広告制作の取材~サイト掲載までの一連のディレクションをする職種。これまでは営業が担っていた部分ですが、私が2年目になるタイミングで制作ディレクターの部署ができました。

使命感って本当にすごいんです。2月のタイミングで、新規契約社数が2年間の営業人生の中で一番多くなりました。事業部内でも1番になり、グループ内でもMVPを頂いきました。内発的な動機付けがパフォーマンスに大きく影響するんだということをこの時体験しました。

3年目で制作ディレクターに

2年目の3月に入る頃。「一緒に制作ディレクター組織を強化してほしい」と異動の辞令をいただきました。

取材は会社のことをよく知ることができ、求人広告の制作はユーザーに一番価値を提供できるもの。そのように捉えていたので異動に対して抵抗はありませんでした。自分のお客さんが大好きだったので寂しさはありましたが。

ただ、実際異動してみると営業の時よりしんどかったです。営業ももちろん売上を立てるプレッシャーや新規開拓で断られ続ける辛さなどありましたが、また別のしんどさです。

営業はある意味自分と相性のいいお客さんを選べます。そして、ディレクターは後工程の仕事になるため、いただく依頼に対して高いパフォーマンスを発揮することが求められます

対応するのは、いろんなタイプのお客さん。慣れない業界・職種。とにかく対応数も多く進行管理も大変。突然大きな修正が入れば予定が狂う。クオリティもすぐに上げられるものではありません。それでも営業、顧客、サイトユーザーの期待に応えなければならないので妥協できない。

そんな中で、慣れない外部ライターとの打ち合わせも増えていきました。というより、外部ライターとしか打ち合わせが入らない時期が続きました。

思い通りの原稿が作れない日々が続き、自分のディレクション力のなさにひどく落ち込みました。リーダーに心のうちを話し、しばらくリハビリ期間として社内の慣れているライターと組ませていただくことに。

その期間で、どのような情報があればいい原稿が作れるのか、どのような打ち合わせをすれば議論できるのか、いい原稿ができるのか、ライターさんにアドバイスを頂きながら学びました。

その後は徐々に外部ライターさんにも意図を伝えられるように。クオリティがあがり、壁を乗り越えられました。顧客ともコンセプトが握れるようになり、進行管理もスムーズになったので仕事が楽しくなりました。

慣れてきたころ、私の中で大きな転機がありました。同期の営業に「結局ディレクターって原稿のクオリティより、いかに対応本数こなすかの方が大事なんでしょ?」と言われたのです。

確かに、対応本数は当時のディレクターの評価指標の1つでした。とはいえ、ディレクターの役割は原稿制作を通じて顧客の入社成功確率を上げること、ないしは企業の課題を解決すること。そのために日々クオリティ向上に努めているのになんでそんなこと言うのかとカチンときました。

奮起。北関東の血が騒ぎました。

ディレクターの本当の価値を知ってほしくて、入社成功事例を2か月連続で毎日日報で発信し続けました。そもそも入社成功していないとこんなに書けませんし、成功事例をまとめるのは結構な負担でした。

その結果、社内で決定率の高いディレクターという認知と評価を得ることができ、グループのMVPを頂くことができました。これを通じて、ディレクターという組織に注目してほしかったし、数ではなく顧客の採用成功にこだわっている組織なんだと理解してほしかったのです。

自分の中で「憤り」が大きなエネルギーに変わることを体験した出来事でした。また、発信することの価値や威力も学びました。あの時プライドを刺激し、成長機会を与えてくれた彼には心から感謝しています。サンキュ。

マネジメントへの興味

プレイヤーとしてマンネリ化し始めた3年目の秋ごろ。このままベクトルが自分の成長に向いたまま、他者の育成もせず過ごしていいのかと突然危機感を抱きました。

そこで上司にOJTやりたいと相談。その時は新しく入る人もいないから難しいといわれ断念しました。

しかし翌日。チームリーダーはどうかと提案されました。リーダーやる気なんて正直なかったし自信もありませんでしたが、チャンスだと思って二つ返事で「やる」と回答しました。

そして3年目の1月からリーダーとしてメンバーを2人持つことに。すでに1人で取材~掲載までできる2人だったので、主には進行管理能力の向上と広告のクオリティ向上を目指しました。

価値観や常識、仕事へのモチベーションや捉え方が違う相手。マネジメントはめちゃくちゃ難しかったです。同じ会社で、ある程度近い価値観の社員とはいえ、自分の当たり前は相手の当たり前ではないことを思い知らされました。

4年目になったタイミングでは、ディレクターへの異動者を受け入れました。1から型を教えていくのは初めてで、これも難しかったです。誰でも進行管理できるようにするにはどうしたらいいのか。初めて仕組化を考えました。1人立ちしていく様子や、どんどん原稿のクオリティが上がっている様子を見ていくのが楽しいと感じました。

5年目になったタイミングでは、初めて新卒社員を受け入れました。社会人としてのマナーやマインドから教えていくのも初めての体験です。本人は新人賞をとりたいとやる気満々だったので私も気合が入りました。

人事への異動を言い渡され、号泣

新人賞をとりたいというメンバーを徹底的にサポートするための目標設定が完了した日。その日の夕方に上司と面談が入り、人事への異動が言い渡されました。

正直、イヤでした。目標設定と行動計画まで立てたのに。もっと育成でやりたいこともあったのに。あの子どうしたらいいんですか、と感情が高ぶって面談の場で号泣してしまいました。こんなこと言ったら幼稚ですが、当時は邪魔するなとさえ思いました。(今では感謝してます!!!!!!!!!)

人事としての異動背景は、中途採用における母集団形成の強化&採用ブランディング。人事初のポジションとして声をかけてもらえたのは素直に嬉しかったのですが、同時に、自分にできるのか不安もありました。

当時は採用職種も多く、管理も大変。広告のブラッシュアップも毎日やる。全職種分、効果の動向に目が離せず細かい分析もやる。人と話すより、数字と睨めっこする時間の方が増えました。人と話す時間が減ったことが何よりストレスで体調も悪くなりました。

自分の役割と本質的な効果の板挟みで葛藤も大きかったです。一部分しかできないもどかしさ。上司は定期的に気持ちを吐き出す時間を設けてくれたましたが、成果のわかりずらさに自己肯定感がどんどん下がっていきました。

この時に、私は数字で見える成果だけでなく反応がわからないと満足できないことや、裁量を求めていること、人と話さないと具合が悪くなることに気が付きました…。

これまでは苦手に挑戦しても「なにくそ」という気持ちで頑張ってきましたが、この時初めて本気で会社をやめようか検討しました。だけど、あのままやめていたらネガティブな転職になって一生引きずっていたと思います。ただ逃げたいだけだったので。

内定者の受け入れ責任者という天職

1年ほど中途採用の集客に携わったタイミングで、3度目の辞令。

もともと育成への関心が高い&職務適性を鑑みて、20新卒受け入れ責任者のミッションを任せていただくことになりました。

これが私の最大の転機でした。この仕事をしていなければ人事を続けたいと思っていなかったでしょう。

新卒受入れ責任者とは、入社までの受け入れ計画、いつまでにどんな状態になっているべきかを自分で考え、自分で組み立て実行していく役割。もちろん同僚や上司に相談しながらでしがが、自分の裁量で思うように組み立てられることが楽しくてしかたなかったです。

いざ研修をしてみると内定者の反応や成長の様子もわかったし、これはよかった・イマイチだったなど、見たもの感じたもの聞いたものをベースにPDCAを回せることが嬉しくてしかたありませんでした。

また、人事だけでなく事業部の育成担当など多くの人を巻き込みながら成果を上げていくことも自分には合っていました

このミッションを通じて、人の成長にかかわること課題を洗い出して1つ1つ潰し、良くなっていく様子を見るのが好きなんだと改めて認識しました。

後半はコロナ禍でイレギュラー続きでしたが、研修のオンライン化を短期間で進めるなど刺激的な経験もしました。

これまでの社会人人生で、ここまで裁量をもって、大きいけど気持ちいいプレッシャーとカオスを経験したことはありませんでした。ダントツでいい経験でした。このミッションを任せてもらえたことに心から感謝しています。

受け入れの次は新卒の採用

受け入れが落ち着いたら、今度は新卒採用へ。

メインは学生の面接。1人ひとりの人生のストーリーを聞くのは自分にとっても学びの多い時間でした。この出来事でこうゆう感じ方をする人もいるんだとか、そうゆうモチベーションもあるんだとか。とにかく面接の時間が楽しくてしかたなかったです。

たくさんの学生とお話しする中で、「もっと早く〇〇な観点を知っていたらこの人の人生どうなっていたんだろう?」と何か支援したいという思いが芽生えることもしばしば。面接では1つでも学びを持ち帰ってもらえるように意識していました。

そして次のステージへ

ここまでが2020年7月31日までの話。エン・ジャパンで6年4ヵ月。いろんな経験をし、たくさんの成長機会を頂きました。

3職種5ミッション。まさにプランドハップンスタンスを体現したような6年4ヵ月でした。目の前のことを一生懸命やり、もらったチャンスを活かすことですごく刺激的な日々を過ごしましたし、いい仲間・いい仕事に恵まれました。本当に感謝しています。

そして9月16日からは別の会社で人事をやることになるのですが、退職に至るまでの話はまた別の記事で。

では。

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