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5時間目 「100%ノン・フィクションで100%フィクション」を書くこと

わたしは以前、人類学の専門ではなく自然科学系の先生からこのように言われたことがあります。「もっともよくできたエスノグラフィーはフィクションの書架に配架されてしまうものなんですよね。」エスノグラファーは他者の生活世界に赴き、“彼ら”の視点において世界を理解しようと試み、そして何よりも重要だが、それを「書く」。人びとの生活世界に文字通り肉体を投じて経験を積み重ねるなかで、人の関心、話すこと、一挙手一投足を漏らさずメモ帳にぐちゃぐちゃと文字化していく。一度閉じられたメモ帳を、あとで何度も開く。手元でそれを眺めることによって、薄れたり、消え去っていた記憶に、もう一度、温度、匂い、質、感情、声、動きが活力をもって廻り始める。と同時に、可能な限り経験したのに近い時点で文字化され紙面に「固着」させられているために、完全な虚構を自分で0から作りあげてしまうことにブレーキがかかる。しかしそれでも、「ありのままの経験」と記された記号は異なっているのであるから、それは制作物であることを否定できない。「書くこと」というプロセスにおける、世界そのものとわたしの中身の間の混淆は、不思議に満ち溢れている。

ここで深く入っていくことはできないけれども、エスノグラファーはしばらく前に、この「書くこと」をめぐるショックを経験している。『文化を書く』の時代だ。年齢は20代半ばの院生であるわたし個人にとっては、それは生まれる前の出来事だが、エスノグラファーとしては、必ず一家言をもっておかなくてはならない通り道だ。

今回は、この「書くこと」がいかに『実験的実践』でのパパドプロスにとって問題となっているのかを取り扱う。

バロック・フィールドワーキング

パパドプロスは、自治について論じた後に「バロック・フィールドワーキング」と題した節を設けて、方法論を説明している。フィールドワークという方法論は、人類学者の院生であるわたしの注意をひく。これまでのポストヒューマンの話題で疲れていたところだが、少し姿勢を正して読み進めた。

まず「バロック」という言葉だが、わたしはこれを違う著者の論文や著書でも見かけたことがあった。パパドプロスは註で「バロック的なものへのわたしのアプローチは、ジ・ソウザ・サントス(2001)とドゥルーズ(1993)からインスパイアされている。」と書いている。前者の「われわれのアメリカ:承認と再配分についてのサバルタン的パラダイムを再発明する」という論文で(おそらくは未邦訳)、ドゥルーズは『襞——ライプニッツとバロック』として邦訳があることでよく知られているものだ。わたしがこれまで目にしたバロックは、おそらくドゥルーズを参照しているのだが、恥ずかしながら勉強が足りなくて、ドゥルーズのこの著作については何にもわからない…。

話は少し脱線するのだけど、人類学を勉強していると、わたしの読む著者たちがドゥルーズに言及していることがとてもとてもよくある。例えば少し前に話題になった、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』も、ドゥルーズと並走するようなところがあって、その部分は全然わからなかった。勉強したいのだが、なかなかその領域に入れずにいる。

つまり「バロック」の背景知識について、ここでは何も言えないというのが現状だ。ちゃんと勉強しようねという課題が与えられた。パパドプロスがそれをどのように論じているのか以上の理解は残念ながらできない。

この節を、パパドプロスはこのように始めている。

超社会運動の実験的実践を証拠立てることは、社会運動の政治の今日の現実に経験的に根ざしていると同時に深く思弁的な仕事でもある(4頁)

経験的な仕事と思弁的な仕事を組み合わせて、実験的実践を論じようという試みだ。これは彼の考える「バロック」な特徴なんだろうか?でも、これって普通にエスノグラフィーがやってきたことで、この難しい形容詞はなぜ必要なんだろうかと、わたしは思った。もう少し同じ段落を読み進めていくと、彼は、自分の目的は現実に起こっていることを「追い」「記述する」ことではないとはっきり言ってから、このように述べている。

(わたしの目的は)政治についての実験的見解を育むこと、そしてその変容を引き起こすような潜在性を指し示すことを可能にするそれら(=社会運動)の活動の特定の側面を誇張することである(同頁)。
(My aim is) to magnify specific aspects of their actions that can foster an experimental view of politics and point toward its transformative potential. 

わたしはこの箇所を、実際に起こっていることalready happening nowを記述する=現象に対して後ろ手に回り、それをなるべくそのまま翻訳しようと努めるのではなく、そこに隠れている示唆的な重要性を概念的に引き出して、それをより目立つように提示するつもりなのだと理解した。

とは言え、経験的な事実も扱うことに変わりはない。彼はこの本のそれぞれの章で、実に多岐にわたる現象を取り扱おうとしている。すなわち、移民、ハッカーコミュニティ、神経可塑性、エピジェネティクス、身体化された脳、80年代エイズ・アクティヴィズム、映画、雑誌、本の表紙、歴史的出来事に関する二次文献、インターネットサイト、学術書、概念、SF文学…。これほど多岐で、しかもそれぞれが非常に異なった質であろう対象に着目するとは、どういう本なんだとビビってしまった。全ては実践的実践を論じるためという共通の目的を共有しているが、しかしそれぞれ別々の場所、別々の議論、そして固有の内的な論理が展開されると言う。それらを思弁的に扱うことで、コンポジショナル・ポリティクス、モノの脱植民地的ポリティクス、そしてオルターオントロジーと彼が呼ぶ概念が取り出せると言うが、全然わからない。

重要な概念そうな「思弁的」あるいは「スペキュラティヴ」も、わたしが度々ほかの文献で目にしては、何となく触れないで今日まできてしまった事項の一つです。「思弁的実在論」という領域があって、注目されていますよね。でも何のことなのか…という感じです。ドゥルーズと同じく、よく会うのに全然距離を縮める努力をしていない。

こうした多岐にわたる異質な対象を論じながら、そこからさっきの謎の諸概念を取り出すというプロセスをたどるのが、本書の道筋なのだと理解した。彼はこの方法論を「バロック・フィールドワーキング」と読んでいる。それを彼はこのように言い換えている。

政治的に関与した調査、思弁的なヒストリオグラフィー、そして社会科学フィクションの混合物である(5頁)。
(A) mix of politically engaged research, speculative historiography, and social science fiction.

フィールドワークにまつわる方法論なら、わかるかもしれないと思っていたが、もう置いていかれた。しかも彼はこのすぐ後に本書は「エスノグラフィーではない」と断言している。そうではなくて、

(本書は)ひとりの身を捧げた実践家であり活動家として持続的・長期的な政治的関わりに根ざした、理論的に動機づけられたプロジェクトである(同頁)。
it is a theoretically motivated project grounded in sustained and lengthy political involvements as a committed practitioner and activist.

彼が、フィールドワークして書くというプロセスに取り組みながらも、あえてきっぱりとエスノグラフィーではないことを明言しているのはなぜか。きっぱりと言っている。わたしのようにガッツリ誤解する読者が多いだろうと彼は想定したのだろうか。人類学者でエスノグラファーであろうと学んでいる身として、この箇所で気になるのは、パパドプロスが自分を実践家であり活動家である者としてこの問題を論じていると書いているところだ。ここに差異が置かれているのではないだろうか。

エミック/エティックで問題に取り組まない

わたしは、パパドプロスの試みからすれば、端から筋違いの期待をしてしまっていたのだ。ここまで読んでわたしは、パパドプロスは、“われわれ”と“彼ら”の二項対立を、調査の前提にしていないのではないかと思い始めた。わたしは大きな勘違いを犯していたと思って、反省した。このバロック・フィールドワーキングの枠組みには、内部と外部、現地人と調査者という、わたしにとってとてもとても当たり前化されていたフィールドワークの概念を退けている。彼は、献身的に政治活動に身を捧げている実践家・活動家であると自認し、その上で経験的なものと思弁的なものを書くのだが、別に彼は現地人であるわけでもないのだろう。だとするとこれは、いわゆる「当事者」研究なのだろうか(上野千鶴子な?)。しかし、この本が対象にしていた、上に見た多岐にわたる領域の全てにおいて彼は当事者なのだろうか…。

当事者もまた微妙かもしれない。そもそも、彼の論じようとしている実験的実践の大前提は、「社会なるもの」を超えた、ポストヒューマンな物質空間がある。内部の「人」、外部の「人」という枠組みにすると、わたしたちは両者を意味の領域で内部/外部というカテゴリーを作り、「人」という概念を疑うべくもない土台にしたままにしてしまう。彼は、ポストヒューマンな物質空間——主体的な意志とは無関係な連合がすでにあり/これからできつつある——のなかで実践・活動する、エージェンシーなのかもしれない。これには、人、種、機械、モノがフラットに含まれるだろう。

こういう理解において「書く」ということは、どういう行為なんだろうか。(パパドプロスのテクストを基にしながらも、だんだんわたしの考えは飛躍しつつある。)関係性はすでにもうある、しかしこれからもできていく。こう考えようとすると、「わたし」が「在る」。そして「彼ら」も「在る」。「わたしと彼ら」が「出会う」なかで、「わたし」は「書く」という、まず主語がしっかりとあって、それが動いていくというプロセスを当たり前のものとするのに違和感を覚え始める。行為と関係を先にしてみたらどうなのか。しかも人間を中心にしないやり方で。エージェンシーが、互いにすでに結びついており、結びつきの中で活動し、それを通じて互いが互いとして差異をもって存在し始めるようなイメージ。そこにおいて「書く」は、「わたし」でも「彼ら」でもまだない状態において始まっており、私たちがなんたるか、何が問題なのかを、生み出すのではないか。つながっている、その中で書く、そして何か差異が離散と凝集によって、何か光の効果のように生まれる…。

すでにそこにそのように在る何かをフィールドワークする。まだカタチにないものをゲスワークする。この二つの領域を、きっぱりと分けて準備しておかないことを、バロック・フィールドワーキングは要求しているのではないか。

オルタナティヴな歴史/仮想的な未来

社会運動、そしてその政治は、制度や支配的慣習の中に位置を認められていない、しかし在るというようなコミュニティが、既存の力の配分に異議申し立てをし、行動し、形を変えようとするような行為だ。(パパドプロスが、社会運動をそのように捉えないことは、少しだけおいておく。)ここには、確かに別の世界が生まれる。コミュニティにとって世界があるのだが、それは支配的な強力な世界との関わりにおいては、まだ「あるべき」「来たるべき」状態だ。だから運動し、変えようとする。ここには、在るのにまだないという状況が生まれる。「運動」は文字通り動きなのであって、時間的・空間的に、何かを変えながら進むプロセスだ。目指す方向が暫定的に描かれつつも、まさにそれをもって動くことによって生じた障害物や摩擦が、それをズラしていく。もう始まっていて、あって、だがまだ完全にはあるわけではない。

パパドプロスは自分の試みをこのようにも書いている。

わたしは、まだ完全には現れていない現在の現象を明るみに出す可能な歴史的軌跡を再−創造するために、差異のある、しばしば矛盾する、歴史的出来事、遺物、そしてクロノトープをまとめるのだ(6頁)。
I bring together different, often discrepant, historical events, artifacts or chronotopes in order to re-create a possible historical trajectory that unearths a present phenomenon that has not fully emerged yet.

このようにしてできる書かれたものは「社会科学フィクション」で「100%経験に根ざしていて、100%フィクショナル」である。

支配者や大勢による固定した一つの歴史のなかで、勝手に「浮いた」集団、「影響を被った」犠牲者としてコミュニティを見るのではない。そこには、過去をみてみれば、異なる別の歴史があり、書くことがそれをカタチあるものにする。創り出すことによって、既にあったことがわかる。一回転して、それは別な歴史の再−創造だ。そしてその時点で、未来は、まだ完全に把捉できるカタチをもっていない。しかし、それはカタチを取りつつある。あるいは、運動こそがその輪郭を生み出しつつある。書いているとき、現象は「既に起こっているのだが、同時にまだ現れきってはいない」のだ。パパドプロスは、既にあるものを追っているのでもないし、何もない無を夢想しているのでもない。書くことが、関係性を別の関係性に変え、その関係の節々の存在たちの輪郭を創り出すのである。


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