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書いたものを読んでもらう2つの恐怖

下書きの記事ばかり増やしていつまでも公開しないのは、読んでもらうのが怖いからじゃないかと思ったので、そのことについて書く。

私が書いたもので私が定義付けられる

私は、夫のことをよく書く。いま溜まっている下書きの記事にも、夫に関する内容のものがいくつかある。それらを公開するのが、ためらわれるようになってしまった。
そもそも夫のことを書こうと思ったのは、彼の言動には人を癒す力があると思ったからだ。それを他の人と共有したい。その思いは今も変わっていない。
でも、出来上がった文章を読むと「これって正直ただのノロケだよな。だとしたら、こんなの読んで"スキ"って思うのかな。」と思ってしまう。それに、"夫の言動が素晴らしいので共有する"というのがそもそもノロケ的だと言われてしまえばそうだよな、とも思うのだ。私がいくら素晴らしい文章を書いても、「ノロケたいわけじゃないんですよ」と弁明したとしても、夫のことを書いているというだけでただのノロケと判断されうることは受け入れなければならない。そう思うのは、他でもない私自身が「ただのノロケだな、こりゃ」と感じるからで、たとえ他人に「そんなことないよ」と言われたところで考えが変わるものでもない。
それでも、それでもだ。私は読み手に「ただのノロケしか書けないヤツだ」と思われたくない。私が何についてどんな風に書くかで、読み手は私を定義付ける。創作ならまだしも、エッセイではどうしてもそうなってしまう。それが怖い。だけど、それ以上に怖いことがある。それは、書き手である私自身が「自分はただのノロケしか書けないヤツなのだ」と思い知らされることだ。つまり、私が何についてどんな風に書き、読んでもらうかということが、書き手である私自身の中でも、私を定義付けてしまうのだ。
実際に、今まで私の文章を読んで良い評価をくださった方々は、ただのノロケだとかそんな風には思っていないはずだ。でもダメなのだ。自分が受け入れられないからダメなのだ。私が夫に関する記事を公開しなくなったのは、"ただのノロケしか書けないヤツ"であると思われないように、そして、私自身がそう思い知らされないようにするためだったのだ。
じゃあもういっそのこと、夫のことを書くのはやめればいいのに、どうして下書きの記事は増えるのだろう。どうして私は、夫のことを書き続けるのだろう。それはやっぱり、本当に書きたいのは、読んでもらいたいのはただのノロケじゃないからだと思う。
夫のことを書いて、それを読んでもらうことを続けるなら、解決策は多分一つしかない。それは、書き手である私自身が「正直ただのノロケだけど、そんなことはどうでもいい!この夫、めっちゃ良いこと言う!!」と思えるような文章を書けるようになることだ。
そのためにはやっぱり、ほかの人の面白いエッセイを読んだりしながら、色々と書いてみるしかないのかな、と今は思う。

書いた意味が分からないものを読んでもらう意味

溜め込んだ下書きの記事の中で最新のものは、近親者の特殊な死を経験したことについて書いたものだ。何度も推敲して、自分が気に入る文章が書けた。エッセイだが小説仕立てにしたので、御丁寧にあとがきまで書いた。公開したい。これだけ気合いを入れた文章なのだから、公開したい。
そう思うのに公開しないのは、読んでもらう意味が分からないからだ。それはつまり、この文章を書いた私自身が、書いた意味が分からないということだ。
近親者の死を"ネタ"に文章を書いた意味は何なのだろう。ちょっと特殊なケースだから、誰かの参考になればいいと思った?同じ経験をした人への慰め?寄り添い?それとも私自身が同情して欲しかった?そのどれもが、ピンとこない。
書いた意味が一つも分からない一方で、読んでもらわない理由はいくつも思い付く。死者への冒涜だと思われたくない。同情を乞うていると思われたくない。悲劇のヒロインぶっていると思われたくない。何よりその故人は、自分の死をネタに書かれた文章を全世界に発信されて、どう思うだろう。傷付くかもしれない。私を嫌いになるかもしれない。それは嫌だ。
「自分が気に入る文章を書きたい。そしてそれを、誰かに読んでほしい。」という強い欲求はあるが、それを満たすのはただの自己満足で、人を傷付けるかもしれない文章を発信していい理由には到底ならないと思う。
意味だの理由だの、そういえば昔「生きている意味が分からない。」と言ったら、「意味は後から付いてくる。」と言ってもらったことがあった。私は何に対しても意味や理由を求めすぎる傾向があるのかもしれない。どうあがいても故人に正式な許可を得ることはできないのだから、割り切ってしまってもいいのかもしれない。"死人に口無し"とは言うけれど、故人を貶めるような内容ではないことは断言できる。
それでも、今のところはその記事を公開する気にはなれない。四十九日を過ぎたら公開する、というのはどうだろうか。それまでは毎日手を合わせながら、故人に公開の許可を乞うことにしよう。他の近親者に、記事の公開をどう思うか聞いてみてもいいかもしれない。それでもし自分の気持ちが変わったら、公開させてもらうことにしよう。あとがきにはちゃんと、故人への言葉を入れよう。そうだ、それがいい。

それでも書いたものを読んでもらいたい

書いたものを読んでもらう恐怖は他にもある。たとえば、書くということは"頭や心の中の膨大なもやもやを、言葉という小さな型に無理矢理はめること"とも言える。そうして言葉の型から零れ落ちたものは、(身振り手振りを交えて、抑揚を付けた声で話して伝えるなどするならまだしも、)電子的な文字だけではどうしたって伝えられない。どれだけ言葉を尽くしても、言葉にする過程で削ぎ落とされてしまう部分が必ず発生する。つまりそれは、不完全だ。不完全なものを受け取ってもらう恐怖。
きっと他にもたくさんの恐怖がある。そしてそれらはどれもこれも、文章を書く以上絶対に避けられない恐怖なのだろう。

そう思いながら、そう思っているのに、書いたものを読んでもらおうとすることを、やめられない私がいる。

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