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言葉の認識

私はInstagramに誰にも見られない(鍵をかけてフォロワーのいない)アカウントを持っていて、そこには自分の内面のことや、人に言うまでもない本当にしょうもないことを書いたストーリーを上げている。
友人にそのアカウントについて話していた時、「誰にも見られないし見られるつもりもないのにストーリーに上げている」というと妙な顔をされた。
その時確かに自分でもなんでそんな事してるんだろうと思ったけどわからなくて「承認欲求変に拗らせてるのかも?笑」と言って終わらせたが、なんとなくその答えがわかった気がする。

「それ」は私の溜まった思考と言葉を吐き出して清算する場所であるから、な気がする。

私にとって、自分が吐き出す言葉は思考そのもの、私そのもの、という認識が強い。積み上がると重くて背負い切れなくなってしまう。
だから紙に書いたりする日記は、ノートとして残る意識が強くてなんだか気遅れしてしまう。それに、どうも三日坊主なのに完璧主義な部分がある所為か「日記=毎日書くもの」が出来ないことにイライラしてしまう。
ストーリーみたいに自分で開かない限りは24時間で消えてしまうような、そんな風に吐き出して清算する方が背負わなくていいから、気軽で良いのかもしれない。

思い返してみると、わたしの中の言葉の位置付けってかなり上位にある気がする。
ドラマを見る時もストーリーよりも会話のテンポみたいな所が良いものに惹かれるし、付き合ってきた人もある人は言葉のチョイスが好きだったり、逆にある人は会話が成り立たなくてストレスに感じたりするし。

言葉が綺麗、乱暴とかは多少気にするけどそこまで重要じゃなくて、そういう単語よりもどんな言葉を状況から選んで繋ぎ合わせてるか、みたいな所を気にしていて、その人から紡がれる言葉はまるでその人自身のように感じている節がある。だからこそ、他人に向かって自分の思考を発するのは、近しい人ほど躊躇われるし他の人にもそれを求めてしまう。
誰にも見られず消えていくInstagramのストーリーはそんな自分には丁度良い距離感なんだなと思った。

言葉に責任を負わせすぎてるな。笑

いつもはこれもストーリーの中で吐き出して終わるのだが、今日はこれを考えた時ふと「他の人は言葉をどういう認識で扱ってるんだろうか」と思い久方ぶりにnoteを開いてここに書いている。
色んな人の「言葉に対する認識」を聞いてみたい。

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