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母の永眠に寄せて…


この世界でいちばん大切で、大好きな母が、
2024年3月31日 0:23に永眠いたしました。


葬儀は4月2日に近親者のみで執り行いました。


63歳でした。
難病指定の肺高血圧症とアルツハイマー型認知症で約7年間の闘病でした。

眠るような表情は穏やかでとても綺麗でした。
肌もふっくらとすべすべで。
あぁ、まだ若いなぁと思いました。





生きているうちに、母にはたくさん、愛を伝えてきました。

「大好き」も「ありがとう」も「ごめんね」も「愛してる」も余すことなく伝えてきました。

いつ死ぬかわからないと言われた時、私はこれから母を誰よりも大切にすると決めました。
毎日、たくさんの愛を伝えようと決めました。




それから存外、元気にやってきて、なんだかんだ長生きするんだろうなと、だんだんと楽観的になってしまっていたので、覚悟する期間は長かったけれど、連絡は急で。
混乱したまま、あっという間に……。
真っ暗闇に堕ちていく感覚。


そこからなんだか納得したくなくて、言葉にしたくなくて、区切りなんかつけたくなくて、でも絶対に忘れたくないから、言葉にしようと、まとまらない頭でここに書いています。





まず、前置きとして。

「人の死に意味なんてない」という思いが、母が死んだとき、私の頭のなかに強く浮かんでいました。
「人の死に意味を見出そうとするのは、遺された人の慰めのためでしかない」と。

親しい人の死は辛く、自身が生きていくためにも心の拠り所は必要なので、人の死に意味を見出そうとするのはとても大切なことだと思います。
多くの人はそうやって生きているし、それが正しい在り方なのだと思います。

この後の文章のなかで、実際に私も、それをしているように見えるかもしれません。
でも、そんな自分を冷たく見ている私もいます。

自分を慰めるために悲しみに浸ってしまうのが、私はすごく嫌でした。
悲しむなら、母のために、悲しみたい。


「人の死なんて、事実がただ通り過ぎるだけ。
  そこに意味なんてない。」

大事なのは、生きている時、その人と何を話して、何を共にするのか、だと私は思います。


亡くなってから何をしても思っても、何ひとつ伝わらないから、そんなの意味ないから、母が生きているうちに、たくさん愛を伝えていくと決めて、一緒に暮らしてた時は毎日、離れても会いに行く度に、母と愛を伝えあって過ごしました。



美談なんかじゃなくて。
よくある悲しい物語なんかにも絶対したくなくて。
誰にでも起こりうることで。
どこか遠くの絵空事なんかじゃないから。
これが私の生きてきた現実だから。
苦しみながら踏みしめてきた出来事も、感情も、消し去ってしまいたくないと思いました。


自分以外の問題が、ある日急に私の生活にズドンと大きく鎮座して、次々に降りかかってきて、目の前のことをとにかく必死にやるしかなかった。

振り回された末に、そのなかで、どうやって生きようと決めて、母とどう向き合って過ごしてきたか、そんな話です。




長くはなりますが、こんなんじゃ書ききれていないくらい、本当にもっとたくさん、色々なことがありましたが、いま書けるだけ書いてみます。




(冷静なフリした前置きを後から加えてみたけれど、ここから先は、どうしたって悲しみに呑まれてしまった私の感情の入った文章です。)



葬儀の日に花屋で買った母のすきだったチューリップ🌷




最後に会いに行った日。

認知症の母は、調子の良い日と悪い日があって、その日はボーッとしていて
「あぁ、今日はあまり話せない日だな」
と思いました。
手を繋いで、母の肩に頭を乗せたりして、ふたつみっつ話もしながら、穏やかに過ごしました。



別れ際、「ハグしていい?」といつも聞いてからハグをしていたのですが、なんだか遠慮がちな言い方になってしまったみたいで、母はあきれたみたいに
「すきなら勝手にしなさい」
となんだか男前な言葉をくれて。

その日はぼーっとしていたのに、そこにはしっかりと意思があって。

たぶん "ハグするのがすきなら" って意味だなって思ったけれど、
「えー、じゃあ(母のことが)すきだから勝手にするね。ぎゅうぎゅう〜」
と、まるでバカップルのようなやりとりをして。

母は握力のない細い手で優しくポンポンと私の背中を叩いてくれました。


やっぱり母はウワテだな、敵わないな、私のこと何でもわかっちゃってすごいやと思いました。


手を振りながら、今度は私が母を元気づけようと思って、力強く、ちょっとおどけながら、
「ちゃんと息してね」(無呼吸の症状も出ていて酸素の機械をつけ始めたところだったので)
「ご飯食べてね」「また会いにくるからね」
と言ってその日は別れました。

そのあと、雨の中、お散歩をしながら帰って、次会う時に見せようと、花の写真を撮りました。


介護施設に行く途中に咲いていた雨に濡れた花



私が小学5年生の時、両親が離婚をしました。


姉は父親と、兄と私は母と暮らし、兄が家を出てからは、母と2人で生きてきました。

パートをしながら育ててくれた母は、いつも疲れて床やお風呂で寝ていました。

人見知りの母は忙しいなかで数少ない友達とも疎遠になってしまっていたけれど、私たち家族との日々を、忙しいながらもマイペースに楽しみながら過ごしていたように思います。




朝は母の作ったミルクティー(ティーバッグの簡単なやつです)を飲み、夜はカフェオレを飲んでテレビを観ながらお喋りをするのがすきな、仲良しな親子でした。

(一緒に飲む飲み物はいつもなんでも乾杯をするのがお決まりでした。毎日、特別な何かなんてなくても乾杯ができる相手がいるというのは、なんてしあわせなことだったんだろう。)


休みの日は友達よりも母とお出かけするのが好きで、2人で毎週のようにお買い物へ行ったり、たまに日帰り旅行へも行ったり。


パン屋さんで買ったパンや可愛いケーキ、美味しいものを買ってきたら、いつも2人で半分こ。

優しいねって言われたけれど、いろんな味がちょっとずつ食べたいだけで。

そうやって、一緒に食べる時間がすきでした。



まるで親友のような、いちばん近くて、いちばん心ゆるしあって話せる。

そんな2人でした。



母は、世界でいちばん優しくて、しなやかで強い人でした。
のんびりしてて人見知りでおとなしくて、強く意見を言うような人ではなかったけれど、落ち込んだ私の前でだけは、力強く励ましてくれました。
考え過ぎてしまう私の悩みも受け止めて、誰よりも私の才能を信じて力強く背中を押してくれて、楽観的すぎる性格にたまにむかつきつつも、私にない心もちに何度も救われました。



母と笑いあって、喜びを分かちあって過ごす日々が、私の人生のまんなかでした。



母の実家へ遺品整理に行った際に見た夜桜




そんな日常が、ある日突然、地獄へと突き落とされたのが、2人で出かけた際の自転車転倒事故でした。


祖父母の介護のために、母の実家に2人で引っ越したすぐあと、事故で左鎖骨骨折をして精密検査をしたことにより脳腫瘍が見つかり、手術。
脳腫瘍が発見できて、摘出もして、よかったね、めでたし、とはいきませんでした。

その後リハビリをして多少はよくなるも左半身不随。認知症の発症。肺高血圧症の発症。

母の方が介護が必要な体になってしまいました。




「ここからはもう回復することはない」と言われたのが確か6年前くらいだったか、毎日に必死過ぎてあまり覚えていないのが正直なところです。




リハビリ病院を退院してからは、デイサービスに通いながら、家ではほぼ、私1人で母を介護する生活が始まりました。



介護は想像以上に大変で、うまくいかなくて、それだけに注力をするためにほかを投げ棄てることもできず、なにもかもが中途半端になってしまって、頭の中はぐちゃぐちゃで、体もボロボロで、たくさん迷惑をかけました。

それもあって最初から介護施設に入れる派だった姉と兄に、もう無理矢理にでも入居させられそうになったけれど、私のために言ってくれてるのもわかっていたけれど、私は母との暮らしが何よりも大切だからと、なんとか説得をして、自宅介護で母と一緒に暮らす生活を守り続けました。



ついにそれも難しくなり、施設入居になったのが1年ちょっと前。
「何か病気や怪我をしても手術に耐えうる体ではないからその時は覚悟して」と言われました。


最近は、息をするのも苦しそうで、食欲もなく、ちょっとのことで疲れやすい体。
酸素の機械をつけ始めた所でした。


何年も、大変な時は何度もあったけれど、最近まではわりと元気で、母が苦しい時間が少なかったのは、よかったなと思います。




最期の時、なんとか僅かな時間だけ母に会うことができました。


心臓マッサージされている母を見て、真っ白になりながらなんとか近寄って「お母さん」と何度も呼びかけました。

手を握って、肩をさすって、見えていたのか分からないけれどわずかに開いた目を見て、精一杯の笑顔を作って「大丈夫、大丈夫」と呟いて。
心臓が止まるときまで、母と一緒に過ごし、看取ることができました。



あぁでも、心臓が止まる前に、
「大好き」や「愛してる」って
言えばよかったな…。


右手にパルスオキシメーターが付いていたから、咄嗟に左手を握ってしまったけど、感覚はきっとあまりないから、右手を握ってあげればよかったな。

抱きしめてあげればよかったな……。



後悔をしないように過ごしてきたつもりだけれど、最後の最後で、母は安心できただろうかと、後悔しています。
姉と兄への連絡が間に合わず私一人になってしまったけれど、さみしくなかったかな。
優しい母なのできっと「別にいいよ」とあっけらかんと言うような気はします。


私を見て、安心したような目をした気がするのは、思い込みではなく、長年過ごしてきた2人の間に通じる感覚だと信じたいです。


最期を一緒に過ごすのは、私でよかったよね。
と素直に思えます。そう信じていいよね。

安心して、ゆっくり眠ってくれてたらいいな。


母の車椅子を押して見に行ったこともある枝垂れ桜




全力で愛を伝えて、心通わせていられたから、母を安心させられたのはよかったけれど、私の後悔を少なくしてしまったのを後悔しています。


忘れたくないのに、いい思い出なんかにしたくないのに。
強い後悔や悲しみに浸っていたいのに。






本当は、ほんの少し前まで、
「もし母が死んだら私は生きていけないだろうな」
と、本気で思っていました。


母を介護施設に入れて離れて暮らしてから、喪失感が酷くて鬱になってしまい、実は、10ヶ月近く、仕事ができなくなっていました。


朝起きるたび、今日一日を生きるだけの、たったそれだけの気力が湧かない。
自分1人のために生きる気になれず、毎日、自分を責めました。


それをようやく、自分の人生を生きようと、新しく仕事を再開して、やっと明るく生き始められたところでした。


もしかして、そんな私の様子を見て、母も安心したのかもしれない。
私が大丈夫になるまで、待っいてくれたのかも、なんて……。




でもね、お母さん、
生きていてほしかったよ。



これからだったのに。
もっと楽しいこと、いっぱい話したかったよ。

お母さんがいなくても大丈夫なわけない。
全然、大丈夫じゃない。

お母さんがいたから私の人生も楽しかったんだよ。


けどきっと、生きてるだけで、物凄く疲れて、しんどかったと思う。
本当はもうずっと前から楽になりたかったのに、心配かけちゃってたのかも。



末っ子の私は本当はものすごく甘えんぼで、母の介護をしてあげているようで、きっと心の面では私の方が母に甘えてた。

いつも全力だからその分めちゃくちゃ落ち込みやすくて、外では弱味を見せられない人間だから、母の前では悲しいやつらいや悔しい気持ちを吐き出してたくさん泣いた。
手のかかる娘で、心配かけて、ごめんね。

時間かかっちゃって、ごめんね。
今まで、生きていてくれて、ありがとう。



もう痛みもないし、不自由な体からも解放されて、やっと安らかになれたのかな。
もしも天国があるなら、すきだったパッチワークや編み物をして、さだまさしのコンサートでも行って、美味しいものなんでも食べて、自由に歩いて、すきなこと沢山してたらいいな。

いいことばっかじゃなかったけど、楽しく笑いあって過ごしたよね。
色々あったね。大変だったね。
たくさん、おつかれさま。



母の棺に入れた、母がつけてくれた私の名前の由来
でもある菜の花の花束💐摘んできて作りました。





母をいちばん大事にするために、ほかのことにあまり心の容量を割けなかったし、ほかの人間関係ぜんぶ後回しにして、だいぶないがしろにしてしまいました。

それでも、この世でいちばん大切にしたい人をいちばん大切にできたので後悔はないです。


母から受けとった優しい心で、きっとこれからたくさん素敵なものや素敵な人と出会って、紡いでいけます。






母との今、目の前の毎日をとても大切にしていたので、元気だった頃の母をほとんど思い出せなくなっていて。


姉や兄が、母との思い出を語ってるのを聞いて、それに気づいて。


今を刻みつけるために、過去の思い出を振り返ってる余裕なんかなかったから。


これからゆっくり、すこしずつ、母との思い出を、思い出していきたいです。






あーあ、やだなぁ。
終わっちゃったんだね。
いま、この時だったのに。

手を握って、抱きしめて、温もりが、この手の中にあったのに。

思い出になんかしたくない。
さみしい。
やだなぁ。



美味しそうなお菓子を見つけてはお母さんに買っていってあげようって思った。
楽しいことや嬉しかったことはいつも、お母さんに話しに行こうって思った。

その癖は抜けない。
もう、なんの意味もない。


お母さんともう二度と会えないなんて、話せないなんて、嘘みたいだな。






母が死んだらもっとボロボロになる覚悟をしていたけれど、なんだかまっしろな気持ちで、不思議な感じ。


つらくはないんだ。
母を思うとあったかい気持ちしか生まれないんだ。


哀しくて1人になるとずっと泣いちゃうし、さみしくてたまらないけれど。


この気持ちは、全然いやな気持ちじゃなくて、母が素敵な人だったって証拠だから、消したくない。




だから、"哀しい" も "さみしい" も、私の心の大切な場所に大事にしまっておくね。

大切に抱きしめて、私は私の人生を楽しく生きていくよ。

たまに取り出して悲しくなっても、楽しいフリして、楽しく生きてく。




お母さんが愛してくれた私だから、誇りを持って、自分を大切にして、生きていくから。

しあわせになるよ。

だから、安心してね。





最後になりますが、母を支えてくださった、ケアマネージャーさん、介護施設の皆さん、病院の皆さん、薬局の皆さん、介護タクシーさん、兄弟に感謝いたします。




🌷お母さん🌷

世界でいちばんだいすきだよ
いつかまた天国で会おうね
私のこと忘れないでね
今まで生きていてくれてありがとう
たくさんの愛をありがとう
おつかれさま
おやすみ
愛してるよ


あなたの大好きな自慢の娘

🌼奈菜🌼

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