見出し画像

#62. たけのこ問題、バラ問題


道ばたのバラに目を奪われた。

画像1

ぼくの目線よりすこし高い場所に、君臨するように咲き誇る花。人間が活動をしなくなってから明らかにその純度を増した空の青さと相まって、そこに奇跡のコントラストを生み出していた。

成人してから「自分も大人になったのかもな」と感じる機会は、いつもふとした瞬間だった。

甲子園球児がみんな年下になったとき、緑茶が美味しく感じられたとき、初恋の人から結婚の報せを聞いたとき ...... などさまざまあるが、

こうして街で見かける花を美しいなと感じることも、自分が中高生のときには、まさか自分がそうなるなんて、思ってもいなかったことである。

動物愛好家であれば、ふいに耳にした鳥のさえずりに心躍るかもしれないし、音楽に造詣が深い人なら、街中のなにげない音の響きにも一層の趣を感じられるだろう。

こんな風にして、年を重ねていくにしたがい色んな知識を増やしていき、日常に面白味を感じるポイントが、すこしずつ増えていけばいいなといつも思う。

ぼくは言語に興味・関心のある人間。だから日常のささいな言葉に、楽しいことや不思議なことの種を、意識しなくても見つけてしまう。

たとえば、この記事の第一行目「道ばたのバラに目を奪われた」と書いているとき、「バラ」と書こうか「薔薇」と書こうかですこし迷って、

そもそもなんで日本人はこういうことを考えなければならないんだろう。「バラ」と書いたときと「薔薇」と書いたときで、違いはどこにあるんだろうと、しばらく悶々としてしまった。

というのも、この間フィンランド人の友人とスカイプでチャットをしていて、彼女から、

「どうして『竹』は漢字で書くのに『たけのこ』は漢字にしないの?そもそも、ひらがな・カタカナ・漢字と 3 つの文字を使っているけど、それらをいつどうやって使い分けるか、わからないよ」

という質問(文句?)を受けたからだ。たしかに「竹」はだいたい常に漢字で書くが、「たけのこ」に関しては、漢字で「筍」と書くことは稀でほとんどの場合ひらがなで書くか「タケノコ」とカタカナで表記する。

世界の言語には色んな文字があるけれど、英語がアルファベットのみを使って書かれるように、おそらくほとんどの言語圏では、1 言語につき文字 1 種類というのが相場で、3 種類もの文字を使い分けているなんていう例は日本語くらいしか思いつかない。

そういえば以前、メキシコから来た男性と話をしていたとき、彼がカフェで日本人が文字を打つのを見ながら、「なにやら高速で文字が増えたり減ったりしているがあれはどういうことだ」と不思議がっていたのを思い出した。

タイプ途中で「文字が増えたり減ったり」するというのはおそらく「文字の変換」をしていたからだろう。「あしたはいけぶくろにしゅうごうね」という 16 文字が、変換すると一瞬にして「明日は池袋に集合ね」という 9 文字に減る。

複数の文字を使わなければ、そもそも「(文字の)変換」という概念自体ないわけで、ぼくが「あ~あれは文字を変換しているんですよ」などと言ったところで、日本についてほとんど何も知らない彼には、なんのことだかさっぱりわからないだろう。

とまあそんなわけで、文字に関しては極めて特殊な付き合い方をしているわれわれ日本人である。日本語を学ぶ外国人が 3 種類の文字の使い分けに戸惑ってしまうのも無理はない。

タケノコを「筍」と書かないのは、単に漢字が難しいとか知らないからというわけではない。漢字を知っていてもなお漢字で書かない例はある。

漢字をあえてひらがな(や、ときにカタカナ)で書いたり、いつもはひらがなで書くところをわざわざ漢字に変えたりするのは、やはり「漢字で書かれた言葉」と「ひらがなで書かれた言葉」は印象が微妙に異なるからだろう。

ひらがなで書くとやわらかく、カジュアルな印象になるのに対して、漢字で書くとフォーマルで格式ばった感じか、あるいはすこし古風な印象にもなる。

ぼくは、だれもいない部屋でイスに座ったまま、
「ありがとう」と、きみに言おうか考えていた。
僕は、誰もいない部屋で椅子に座ったまま、
「有難う」と、君に言おうか考えていた。

上はできるだけ漢字をひらがなに開いて書いたものだが、これだと語り手として浮かんでくるのは男子高校生といった感じだが、下の方になると、漱石の『こころ』に出てくる「先生」のような和装の男性が想起される。

タケノコは「筍」と書くんだとみんな知っているけど、お菓子の名前としてふさわしいのはやはり、やわらかな印象の「たけのこの里」であり「筍の里」ではダメなのである。「茸の山」なんかもっとダメだろう。それじゃただの茸がびっしり生えた山みたいじゃないか。

もちろん、こういう細かいニュアンスは、日本人として日本語を幼いときから見たり聞いたり使ったりしているから理解できることで、外国語として日本語を勉強している人には先ほどの 2 つの文の違いだって理解するのは容易ではない。

ぼくのアメリカ人の友だちは、ぼくがこのブログで「友だち」と書くのを「どうして『友達』と書かないのか?」と LINE で聞いてきたことがある。「よりカジュアルな印象になるから」と説明したが、どれほど深い理解があったか定かではない。

逆に英語の場合は、"I am sorry" を "I'm sorry" と「短縮」したり、"I am" の部分を「省略」して "Sorry" と言うなど、そのような言葉上の操作をしつつフォーマルさや本気度の違いを出すが、これが多くの日本人にとって「なんで?」となるのと同じである。

理解するのは難しくても、理解できれば上級者。そういう部分がどの言語にもきっとある。それが言葉の奥深さ、そして面白さの一つではないだろうか。

ちなみに結局ぼくは冒頭で「バラに目を奪われる」べきだったのか、それとも「薔薇に目を奪われる」べきだったのか、ハッキリとした答えは出なかった。

けれど、このブログは基本、形式ばらない、肩ひじ張らないことを主眼に置いているので、そういう場合なら漢字よりカタカナの方がいいんじゃないかと感じた。

そういえば、「たけのこ問題」について聞いてきたフィンランド人の友人とは、2 年前、駒込にある旧古河庭園のバラを見に行ったっけ。

画像2

キレイだったなあ。今年はちょうどバラの咲く時期に、あえなく閉館中となっている。

(実物はこの 10 倍以上キレイです)

ここに咲くバラは庭師の誇りであるらしく、3 月あたりには Twitter で「とにかく見に来てください!」と強く呼びかけていただけに、なんとも残念な気持ちである。

秋にまたバラが見ごろを迎える。それまでにはなんとか、観られるようになっているといい。

人生、薔薇色とはいかない。

でもだからこそ、ぼくらは道ばたに咲くバラやその他の花々を、見たり香ったり、写真に撮ったり、ときには部屋に飾ったりしながら、日常をすこしでも彩ろうとする。

どんなに活動が制限されても、毎日をそっと華やかにする自由はいつでもそこにある。

バラは人の世で起きたことなどつゆ知らず、いまもただそこに咲き続けている。


画像3


この記事が参加している募集

おうち時間を工夫で楽しく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?