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不義

 結婚という契約を交わした男と女は無条件に祝福すべきものとされている。

 人を集めて幸せそうな顔をしてみせて、永遠という空疎を誓う。体裁さえ整えておけば、そこは喜びの場なのだという約束事が、不安も憂鬱も塗り込めて覆い隠す。

 婚姻関係という型に収まって数年後、喪失をきっかけとした心身の不調に対処するために読み漁った本から得たいくつかの概念は、私にとって禁断の知恵の木の実だった。

 どんなときでも、私の気持ちを否定する権利は誰にもないのだということ。

 自分は欠陥品だから隅のほうで大人しく耐えていなければいけないという信念は間違っているかもしれないこと。

 自分と同じような人がどこかにいること。

 自分のために怒っても良いのだということ。

 色々なことがつながってしまった。なぜ自分が不良品だと思ったのか。罪悪感はどこから来たのか。どうして自分の気持ちを殺す必要があったのか。

 思い出してしまった。恋というのがどういう気持ちかわからないまま、ただ家族が欲しくて関係を結んだこと。自分が主役になる場でドレスを着て女装しなければならないのがどうしても嫌だったこと。婚約指輪は要らないと言ったのに、「女は後からグチグチ言うものだ」という理由で買うことになったこと。

 知恵の木の実を口にしなければ、ずっとエデンの園にいられたかもしれない。言葉を呑み込んで。想いを封じ込めて。夫を支えることに存在意義を見出し、これこそが幸せなのだと言い聞かせて。

 権威に守られた園に彼を置き去りにした私は、確かに裏切り者だっただろう。

 だとしてももう戻れない。食べて飲み下して消化して血肉とした実を吐き出すことはもうできない。

 一つの心残りは、恋でなくても好きだったのだと、愛情を感じていたのだと、彼に伝わらなかったことだ。


本日のお題:The Lovers(逆位置)

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