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ただの日記(20240524)

 少年たちの締まったしなやかな肢体を見て湧き上がるのは憧れだ。僕にも少年時代が欲しかった。少女時代ではなく。

 胸に無駄な肉の塊ができて、骨盤がバキボキと音を立てて育った。

 骨が薄くて皮下脂肪が柔らかい身体が一概に嫌いなわけではない。人間の身体は男性より女性のほうが美しくできていると個人的には思っている。客観的に見て女性の身体は嫌いではない、だが自分が女性の身体でいることはまた別の話だ。綺麗なドレスを着たい花嫁と、綺麗なドレスを花嫁に着せたい花婿が別人であるように。

 青春時代を少年として過ごすことは僕には不可能だった。そもそも自分を男だとは思っていなかった。自分が女であるという事実に対する反発があっただけ。

 子供から女になっていく過渡期、子供のままでいたくて反発しているのではないかと思った。大きくなれば自然と自分が女だと納得できるのだろうと考えていた。

 しかし中学生になっても自分が女であるとは思えなかった。トランスジェンダーの存在は知っていたが、そういう人たちは物心ついた時から自分が男/女であると確信があるものだと思っていた。そうとも限らないと知ったのはごく最近になってからだ。

 違和感だけを抱えて、自分が何者かわからないまま、女になれない自分を責めた。いつまでも女は嫌だと駄々をこねて、事実を受け入れないわがままな奴。人として根本的に重要なものが欠けている欠陥品。

 30年、頑張った。女になろうと頑張った。結局なれなかった。女になろうとすることを諦めた。その頃から不思議と、死にたいと思わなくなった。

 今になって、もっと早くから諦められれば良かったのにと思う。時代的に難しかったかもしれないが、トランスジェンダーの子供として受け入れてもらうことができていたとしたら。

 少年として過ごす日々が、少女として過ごした日々よりも幸せだったかどうかはわからない。けれど少なくとも自分として生きられたかもしれないとは思う。しかし僕には無理だった。

 僕が可愛がられるのは女の子だからだと、物心つく前から知っていた。女の子が欲しかったと母は言った。男の子は可愛くないと言った。男の子の母親になんかなりたくないと言った。祖父母には従兄よりもちやほやされた。それも大人しくて従順な女の子だからだと知っていた。

 女の子をやめるなんて自殺行為だった。子供は保護者に見捨てられたら生きていけない。スカートは嫌だ、ピンクは着ないと言いながらも「女の子」の範囲内に収まるように努力したのは、生き延びるための術だった。

 少年として生きる選択肢は僕にはなかった。それは生き延びるためにその時その時で必死に最善の選択をしてきた結果だ。後悔はしていない。でもほんのり憧れを抱くくらいは許してほしい。

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