見出し画像

実は中年世代がつくったジブリ ~設立の経緯~

マンガ・アニメ・ゲーム。
戦後日本で独自に、高度に発達した文化…。

とすれば、日本人として生活する方は
自分なりに語れるようにしておくと良い、
と個人的には思います。
いわば「現代日本の教養」の一つとして。

「…文学作品とかクラシック音楽とか、
そういうものならともかく、
マンガ・アニメ・ゲーム?
そんな『子ども向け』の
『低俗』なもの
を教養として扱うのは
いささか抵抗があるのですが…」

そう思いましたか?

もちろん、どう思うかはその人次第です。
マンガ・アニメ・ゲームを知らなくても、
生活に全く支障はない。


…ただ、日本人が他の国の名前を聞くと、
ぱっと何かを想像をするように、
日本人でない方が日本の名前を聞いた時に、
ぱっと何かの想像をすると思うんですよね。

第一想起。

その際にマンガ・アニメ・ゲームを
思い浮かべられることが多いのなら、
自分なりに語れるようにしておいて損はない。
私の中では、次の作品群の概要は
ある程度「教養」として
知っておくと良いのでは…?と思っています。

◆マンガ:ドラえもん・ドラゴンボール
◆アニメ:ジブリ映画
◆ゲーム:マリオ・ドラクエ・FF

前置きが長くなりました。

本記事はその「現代日本の教養」のひとつ、
『ジブリ』について書いてみましょう。

ただ、一つ一つの作品について書くと
とても文字数が足りませんので、
本記事では「ジブリが生まれた経緯」
いわば「前史」に絞って書いていきます。

まず、基礎知識から。

「スタジオジブリ」は1985年、
昭和60年に設立されました。

「長編アニメ映画」を作製する組織。
徳間書店の出資。

当初は「映画の興行は水物である」として
社員の雇用はせず、
作品ごとに70人ほどのスタッフを集めて
「完成後に解散」する方式でした。
いわゆる「プロジェクト」方式ですね。

しかし1989年『魔女の宅急便』がヒット!
宮崎駿監督の提案によって、
社員化・固定給・定期採用と育成という
いわゆる「会社化」が進む。

2014年に制作部門解体、一時アニメから撤退。
2022年に愛知県に『ジブリパーク』開園。
2023年には日テレ放送網の子会社化しています。

中心人物としては、次の三人が有名!

◆宮崎駿(みやざきはやお)1941年~
◆高畑勲(たかはたいさお)1935年~2018年
◆鈴木敏夫(すずきとしお)1948年~

宮崎駿さんと高畑勲さんのお二人は「監督」、
鈴木敏夫さんは「プロデューサー」です。

ではここから、このジブリが誕生するまでの
「前史」を書いていきます。

1959年(昭和34年)24歳頃の高畑さんは
アニメ映画を作ることを志して
「東映動画」に入社します。

入社すぐの1960年に『竹取物語』
漫画映画化企画が立ち上がりますが、
この時は、高畑さんは応募しなかった。
(ただ、メモやプロットは考えた。
これが2013年の『かぐや姫の物語』
つながります。実に50年以上後)

1968年、大塚康生さんという方の推薦で
『太陽の王子ホルスの大冒険』の演出(監督)
に抜擢される。当時、高畑さんは33歳くらい。
ただ制作にかなり時間がかかり、
興行成績もふるわなかった…。
社内での待遇が悪くなってしまう。

その後、高畑さんは
「Aプロダクション」という組織へと移籍。

先に移籍した大塚さんに誘われた。
いわゆるAプロ。「新しいA」ということで
「シンエイ」とも呼ばれていきます。
『オバQ』『巨人の星』『ルパン三世』
『バカボン』など、マンガを
次々にアニメ化していく会社でした。

アニメ界の『新鋭』が集ってくる…。
そう、この時に高畑さんが
東映動画から一緒に連れてきたのが
宮崎駿さん
、なのです。

まずは『長くつ下のピッピ』という
海外小説のアニメ化を企画します。

宮崎さんもスウェーデンに同行。
…しかし、このアニメ化企画は、
原作者リンドグレーンさんに会えずに
頓挫してしまうんですね。
この際にお蔵入りになった世界観や設定が
『となりのトトロ』のルーツになった…
とも言われる。

1972年に映画『パンダコパンダ』制作。

ただその後、高畑さんと宮崎さんは
ズイヨー映像(後の日本アニメーション)に
移籍します。ここで
1974年に『アルプスの少女ハイジ』を手がける。
これが大ヒット!
1978年、宮崎監督は『未来少年コナン』
NHKの連続アニメとして製作。
(この作品のエッセンスを凝縮したのが
後の『天空の城ラピュタ』ですね)
一方の高畑監督は『じゃりン子チエ』を作製…。

このように、質の高いアニメ作品が
次々に生まれてきたのを受けて、
1978年に徳間書店でアニメ雑誌が創刊される。

『アニメージュ』です。

ここで編集者として活躍したのが、
後のプロデューサー、鈴木敏夫さん!
1982年に宮崎さんがこの雑誌上で
『風の谷のナウシカ』の連載を開始。
1984年には劇場版『ナウシカ』が作られた。

作製はトップクラフトという会社です。
(ゆえに、ナウシカは厳密には
「ジブリ作品ではない」のですが、
ほぼジブリ作品として認知されている)

このナウシカが、成功を収めた。

よし、この潤った資金を使って
今度は高畑監督の映画をつくろう!
『柳川堀割物語』という
ドキュメンタリー映画がつくられます。
宮崎監督の個人事務所だった
『二馬力』が製作を請け負う。

…ところがですね、1年間での製作の予定が、
妥協を許さぬ高畑監督の姿勢もあり
3年間に伸びる。
宮崎監督の資金が尽きた。
自宅を抵当に入れることになる。

「…この製作費を回収するには、
新作アニメ映画を作るしかない!」

宮崎監督と鈴木さんは奔走し、
新作映画『天空の城ラピュタ』の
作製を企画します。
しかし、ナウシカをつくった
トップクラフトは解散していた。
請け負ってくれるアニメスタジオがない…。

その時に、高畑監督が提案した。

「ならばいっそ、自分たちで
スタジオをつくってしまいませんか?」

…こうして1985年(昭和60年)、
トップクラフトを発展させる形で
スタジオジブリが設立されるのでした。

「ジブリ」という名前の由来は、
「サハラ砂漠に吹く熱風」
後に世界にその名が吹き荒れるジブリも、
最初はこのように
「やむにやまれず」設立されたのでした。

最後にまとめます。

本記事では「スタジオジブリ」が
設立されるまでの経緯を書きました。
1985年設立時点、
三人の年齢は以下の通り。

◆宮崎駿:44歳頃
◆高畑勲:50歳頃
◆鈴木敏夫:37歳頃

「希望に燃えた20代の若者たちが
ベンチャー的に設立した!」と
誤解されることが多いジブリですが、

実はこのように、それまで
転籍を繰り返して試行錯誤を重ねてきた
中年世代が集まって
『カントリーロード』をセッションするが如く
設立したアニメスタジオ
、なのです。

…夏休みなどには、よくテレビで
ジブリ映画が放映されますよね。

皆様もジブリの歴史を思い浮かべながら
その世界に浸ってみてはいかがでしょう?

※スタジオジブリのホームページでは
『常識の範囲でご自由にお使いください』
という鈴木敏夫プロデューサーの言葉とともに
画像が提供されています↓

※LinkedInの『千差万別キャリア自己紹介部』で
取っている「ジブリアンケート」記事への
リンクを貼っておきます。
人によって千差万別の感想が生まれるのも
ジブリ映画の魅力だ、と思います。
皆様それぞれのコメントを
たくさんいただけております↓

合わせてぜひどうぞ!

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!