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個人、集団、一国、世界の歴史とは?

◆パーソナル・ヒストリー(個人史)
◆ワンチーム・ヒストリー(集団史)
◆ナショナル・ヒストリー(一国史)
◆グルーバル・ヒストリー(世界史)

この四つを仮定してみます。

パーソナル・ヒストリーは、
ある一個人の歴史。
自分のヒストリーならマイ・ヒストリー。
「個人史」「自分史」になります。

これが集団ならワンチーム・ヒストリー
「ある集団」のヒストリー。
家族、会社、学校、市町村、コミュニティ…。
個人ではなくなっていきます。

さらに広げると「国」単位。
日本で言えば「日本史」ですね!
ナショナル・ヒストリー。
一国の枠を超えて、
「世界」的な歴史となら
グルーバル・ヒストリーと言える。

パーソナルだと、主対象はその人。
その人の歴史、その人なりの歴史です。
ところがワンチームだとそうはいかない。
誰か一人だけの歴史ではなく
「チーム全体としての歴史」が必要です。
登場人物、利害関係者が増えていく。

ナショナルだとさらに範囲が広い!
日本一国を例にとっても、
東西南北、様々な来歴、特色がある。
それらを「一緒くたにまとめる」ので、
どうしても「個々人の参加感」が希薄になり、
「個人を越えた別の物語」になります。

これが世界、ワールド、グルーバルだと、
さらに広い範囲…。
広いがため、個人はほぼ見えません。

本記事では、そのような意識を踏まえて、
「世界史」という教科が
戦後日本でどう生まれてきたのか?を
書いてみたい、と思います。

日本では学校教育で「歴史」を学びます。
小学校では日本の歴史が中心。
中学校では日本史中心、世界史ちょっと。
高校では「日本史」「世界史」に分かれる。
(最近は「歴史総合」という科目もあります)

…ただ、初めから「世界史」という教科が
あったわけではない。


戦後、1947年に新しい学制になります。
「6・3・3・4」で小・中・高・大。
その前の1945年、GHQによって
「修身」「国史」「(日本)地理」を
教えることが禁じられました。

1947年に米国流の「社会科」が誕生する。

高校においては「国史(日本史)」が
禁じられたため、
「東洋史」「西洋史」「人文地理」それに
「時事問題」が選択科目
になりました。

…ただ、世界を学ぶのに、東洋と西洋に
はっきり分離するのはよろしくない。
また、義務教育の小・中において
自分たちの国のことを全く学ばせないのも
いかがなものか?

そんな意見が、現場を中心に出てくる。
様々な事情を鑑みて、
高校では「東洋史」「西洋史」の区分が、
「日本史」「世界史」という区分へと
変わった。
これが1949年のこと。

…いささか急に世界史が生まれた。
ゆえに誰も「世界史」がわからなかった。
1950年、ある高校の先生がこう書きます。

(ここから引用)

『一つの怪物が、
1949年の日本に突如として現れた。
社会科世界史という怪物が。
文部官僚も、西洋史家も、東洋史家も、
はたまた日本史家も
この怪物の正体がつかめない。
ましてこれと取り組む運命におかれている
高等学校の教師と生徒にとっては、
難解なることゴルギアスの結び目の如くである』

(引用終わり)

「世界史」をどう学び、どう教えるべきか?

ただ、東洋史と西洋史を
ドッキングさせればいい話ではない。
でも、元々そのように生まれたため、
そうやって学ぶ&教えるしかない…。


するとどうなるでしょう?

…学ぶことが膨大に広がっていく。
生徒がいわゆる「暗記地獄」に陥る。
当然ですね。1+1=2ですから。
先生が西洋史専門か東洋史専門かによって
偏りもひどかった。

そんな折、戦後の世界、米ソ対立、
冷戦構造の世界のほうが変わります。

いわゆる「第三世界」が現れるんです。
1955年に「アジア・アフリカ会議」開催!
主導したインドは、東洋でも西洋でもない。
かつこの頃、日本自体も「高度経済成長」で
徐々に経済大国化していきます。

このような世界情勢の変化により、
「新しい世界史像」が模索されていく…。
そのうちの一つの試みが、
梅棹忠夫さんの「生態史観」です。

(ここから引用)

『インドは東洋ではない。
中国を中心に発展してきた
われら東洋諸国とは、本質的に
文化的伝統を異にする世界である。
インドはむしろ、もっと西の方の
イスラム的世界とこそ、
歴史を共有するものである。

しかし、インドが東洋ではないとすれば、
それはいったい何か。
もちろん、西洋ではありえない。

…この、東洋でもなく、
西洋でもないインドをさして、
わたしがデリーでしりあった
一人の日本人の留学生はうまいことをいった。

「ここは、中洋ですよ」

わたしは感心して、
このことばをつかうことにした』

(引用終わり)

西洋か東洋かの二者択一ではなく、
他にも世界があるという(当時は)斬新な意見。
インドもアフリカも日本もまた他の地域も…。
それらの歴史は「独自に並列に
扱われるべきものではないか?」
という考え方なのでした。

この「梅棹史観」が議論を呼ぶ中、
上原専録(うえはらせんろく)という人が
『日本国民の世界史』
という本を出します。

「日本人にとっての」世界史とは何なのか?
というテーマを突き詰めた本です。

上原さんがこだわったのは、
歴史、世界史を描く「主体」は誰か。

抽象的な法則や「人類史」全般について
ただ説明していけばいいわけではない。
まず「自己」がある。
その「自己」を「日本」の中に置いてみる。
その日本が「世界」との関係の中で、
さまざまな問題に関わっていく…

そういった論調で、世界史が描かれた。

この本が出された後も、様々に世界史の姿は
時代に応じて変わっていくのですけれども、

私には、まず「自己」があり、
ついには「世界」につながる…
という
この姿勢が画期的だった、と感じられます。

最後にまとめましょう。

本記事では四つの範囲の歴史の区分を仮定して、
「世界史」が生まれる試行錯誤を書きました。

◆パーソナル・ヒストリー(個人史)
◆ワンチーム・ヒストリー(集団史)
◆ナショナル・ヒストリー(一国史)
◆グルーバル・ヒストリー(世界史)


近年では「キャリア教育」の文脈により、
パーソナル・ヒストリーへの意識が
高まってきていますよね。

また本記事でも見たように、
「世界史」が試行錯誤を重ねながら
構想され、構築されてきた。

ただ、現代の「世界」は
「コミュニティ」の時代だとも言われます。
中間にある様々な「集団」、
この歴史にこそ、もっと
脚光を当てるべきでは…と私は思っています。

読者の皆様におうかがいします。

あなたがあなたなりの歴史を描くなら、
どの範囲を、何を題材にして書きますか?
個人、集団、一国、世界。
どう取捨選択して、どう強調して、
どうつながりをつけて描きますか?


◆「歴史総合」についてはこちらの記事もぜひ↓

※「世界」をどう解釈し、どう描くのか、という
問題については、世界中で様々な学者が
たくさんの学説を発表・提案してきました。
こちらの記事も、合わせてぜひどうぞ↓
『ニーダム・クエスチョンからの問いかけ』

※『みんなの世界史』さんのnote記事も
とても参考になりますのでぜひ↓

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