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「東京一極集中」について考えています。

◆関東大都市圏:約3800万人
◆近畿大都市圏:約1900万人
◆中京大都市圏:約940万人
◆北九州・福岡大都市圏:約550万人
◆静岡・浜松大都市圏:約280万人
◆札幌大都市圏:約260万人
◆仙台大都市圏:約230万人
◆広島大都市圏:約210万人

東京4:近畿2:中京1:福岡0.5くらい。
見事な「東京一極集中」ですよね。

…しかし、昔はそうではなかった。
いや、もちろん江戸時代から
「将軍様のお膝元」の「江戸」は
大都市だったわけですが。

江戸時代が終わり明治時代へ。明治維新。
…ふつうに考えれば、東の江戸の時代が終わり、
今度は西の京都や大阪の時代になったはず


しかし時代の流れは、皆様ご存知の通り、
「皇居」が今の東京駅付近・江戸城跡に移転、
「東の京都」として「東京」が爆誕した。

ですが、どうしても錯覚しやすいんですが、
東京は最初から人口一位ではない。
「地方多極分散」の時代があったんです。

ここで、辰井裕紀さんの記事を発見しました。
『なぜ新潟や石川が「人口日本一」だったのか?
都道府県の人口推移から見る、日本近代化の歴史』

という記事です。

本記事ではこの記事を引用紹介しつつ、
近代化以後(明治維新以後)の
人口日本一の推移をみていこうと思います。
(引用元記事も本記事最後のリンクからぜひ!)

廃藩置県、1871年。
「藩とイワナイ 廃藩置県」。
東京(中央)の政府から県知事が派遣され、
地方を治めるようになりますよね。
いわゆる「中央集権」です。

最初は四十七以上、たくさんあったのですが、
徐々に整理されていく…。
人口統計は1872年から始まります。
近代国家運営に人口の把握は欠かせないから。

さて、栄えある人口第一位に輝いたのは?
広島県!なんです!

(ここから引用)

『91万9047人でした。
2位は山口県で、82万7536人。
当時の東京府は、77万9361人と
3位だったのです。

なぜ広島なのか。それは江戸時代から
瀬戸内海航路沿いの拠点として知られ、
近畿地方で消費される綿や日用品、食品などの
一大生産基地となり栄えていたからです。

街単位でも江戸・大坂・京都・
名古屋・金沢に次ぐ
大都市として君臨していました。』

(引用終わり)

もちろんまだ廃藩置県したてですので、
広島だけに「広い範囲を県として認められた」
ところが人口が多いのは、当たり前です。
ただ、広島が人口日本一の時代があった、
ということは、もっと知られてもいい。

1894年、日清戦争の時には、
広島に「大本営」が置かれます。
帝国議会も広島臨時仮議事堂で行われ
「臨時首都」になったこともあります。
人口が多かったと聞けば、うなずけますよね。

話を戻します。
翌年1873年の人口第一位はどこか?

それは、愛知県だったんです。
尾張中心の「名古屋県」と
三河中心の「額田県」に分かれていたのが
統合して「愛知県」になったのが、要因。

(ここから引用)

『なぜ愛知が栄えたか。
それは江戸・大阪につぐ城下町として
地元出身の徳川家康が
「6万人の街を丸ごと移転させる」など、
過剰ともいえるほどの情熱を持って
城下町づくりを行い、
木曽の山林(御用林)も特別に与えたから。

これにより財政が安定し、
現在まで続く繁栄の基盤になりました。』

(引用終わり)

八代将軍吉宗の頃の尾張藩主、徳川宗春は
質素倹約の「享保の改革」を行う幕府とは逆に
規制緩和の開放政策を採り、
「名古屋の繁華に京(興)がさめた」という
栄華を誇りました(藩の借金は増えましたが)。

愛知県も、人口第一位だった時代があった!

しかし1870年代になると、
もっと意外なところが人口第一位になります。
それが、新潟県・石川県です。

(ここから引用)

『当時日本海最大の都市にして、
一目置かれていたのが金沢でした。
(中略)
金沢は徳川家の城下町や京都を除くと、
日本最大の城下町だったそうです。

市レベルでも東京・大阪・
京都・名古屋に次ぐ全国第5位の大都市であり、
文化の中心地としての貫禄を認められ、
日本海側として初めて
第九師団が置かれて軍都としての地位も
確立していました。

また、第四高等学校が全国5つの高校の
1つとして設立され、
学問的にも先進都市として君臨するなど、
まさに日本屈指の一大シティでした。』

(引用終わり)

辰井さんの記事によると、
「仏教が普及していて、全国各地の農村などで
日常的に行われていた『間引き』が少なかった」
「米がたくさん採れ、北前船などの海運により
日本海側の港も繁栄していた」ことが
大きな要因だった、とのことです。

…ただ、明治期には「鉄道」ができます。
海運も「陸運」に取って代わられていく。
徐々に太平洋側に人口が移っていき、
日本海側は低迷の時代を迎えてしまうのです。

1900年頃には「大阪」が繁栄しています。
1925年の国勢調査では大阪市(211.5万人)が
東京市(199.6万人)よりも多い!

(ここから引用)

『「銀本位制の廃止」のせいで、
両替商に取り付け騒ぎが頻発。
結果、約50軒が相次いで破産。

「藩債処分」という事実上の
借金帳消し処分などにより、
大阪の経済は致命的なほどの
ダメージを受けました。

しかし、大阪取引所や
大阪商工会議所などの設立に尽力し、
連続テレビ小説「あさが来た」にも
描かれた五代友厚の活躍もあり、

後に「東洋のマンチェスター」といわれるほど、
紡績業を中心に商工業が飛躍して
大阪は復活を遂げたのです。』

(引用終わり)

明治維新により大阪の経済は
ずたぼろになりましたが、見事に復活
東京よりも大阪のほうが、経済が凄かった。

もちろん「帝都」東京も負けてはいません。
人口を増やし、一位になっていきますが
1945年には、意外なところが人口一位になる。

それが、北海道です。

(ここから引用)

『当時日本の人口は
7199万8104人となっていましたが、
1位は北海道で、351万8389人。
2位の東京都は、348万8284人でした。

これは太平洋戦争で
都市部が疎開によって人口を減らし、
逆に北海道らが疎開先に選ばれ、
人が集まったからとされています。』

(引用終わり)

最後に、まとめます。

本記事では、東京一極集中の戦後以前、
明治維新から終戦までの
人口第一位のところを見ていきました。

広島、愛知、北陸、大阪、北海道…。
今では東京に圧倒的な差がついていますが
実は「人口日本一」だった時代もあった。

東京一極集中と地方多極分散。
その推移。

これからの日本を、ひいては自身のキャリアを
考える上において重要なテーマの一つ
ではないでしょうか?

興味が出てきた方は
下記のリンクから引用元の
辰井裕紀さんの記事を、ぜひ!
(東京に銭湯が多い理由も載っていますよ!)

※「戦後日本」の東京一極集中については
こちらの記事を↓

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