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読めば解決できる問いを読んで作る。って、おかしくない?

読めば解決できる問いを読んで作る。って、おかしくない?

それを読めば解決できる問いを、それを読んで作り、その問いを追究することを通して行う読解授業が、今、日本全国の学校で進められている。しかし、おかしくないか?読めば解決できる問いを、読んで立てるんだよ。問いを作った時点で解決できているはずじゃないか。私のその批判に対しては、浅く読んだ段階で解決できなかった問いを浅く読んで立てるんだという返答が返って来るかもしれない。そんな深い問いを、浅く読んで立てることができるだろうか?実際には、深く読んで深い答えを出した子が、その答えを隠しておいて、深い問いを引き出す深い問いを立てるんだと思う。深いかどうかは私が決めるのではなく、授業する教師が決めるのではあるが・・・。教師のそんな思いを忖度できる子が、教師が喜びそうな問いを立て、教師が喜びそうな答えを発表してくれることによって、その読解授業が進む。

何か読んだ際に、この字なんて読む?この言葉どんな意味?この事柄ってどんなこと?などと、文章を読む上でその子にとって必要な問いはいくらでも出てくると思われる。が、そういう一人一人にとって必要な問いは、たいていは教師がねらう問いではないので、無視されて捨てられてしまう。教師が欲しい答えは、この作品で作者が最も訴えたかったこと(いわゆる「主題」)であり、その主題を問う問いである。そういう問いが出てくるのを教師は待つ。ただ待つだけでなく、声の調子や表情や、さまざま々な誘導的働きかけを通して子どもに伝える。それを察知した子(忖度上手な子)がそれを理解して、教師が喜ぶ問いを提案してくれる。そんな茶番劇によって、主題に迫る問い、価値ある問いを立ててそれを全員で考え合うという読解授業が進む。

そうすることを通して、深い読みを実現するんだと、今の日本の国語教育を担当する実践者と学者は言うだろう。

でも、おかしいよ。その文章を読んで解決できる問いを、その文章を読んで作るというのは、どう考えてもおかしい。そのおかしさに気付かないで、今、日本全国の先進的と自認する先生方が、読んで問いを立てる読解授業を進めていたり、進めようとしていたりする。そんな現状を私は嘆いている。私はもはや、国語教育界の長老である。その長老である私が、そんな現状を嘆いている。

しかも!その作品の主題がなんであるか、なんて、誰にもわからない。作者にだってわからない。作者が言いたいと意識したことが作品にうまく表現されているかどうかも分からない。作者を突き動かしてその作品を書かせた深層心理は作者にだって分からない。読者にだって分からない。名作の誉れ高い作品ほどそうである。

誤解しないでほしい。私は、生活や学習上に立ち現れる何らかの困難や問題や課題を解決するために、その解決に役立ちそうな文書を選んで読むことによって、その解決を図ろうとする読みを否定しているわけではない。むしろ積極的に肯定しているのである。そういう読みは、必要で役立つし、そういう読みをする経験が、生活や学習に役立つ読む力を高めると私は考えている。

そんなお前に代案はあるか!と言われれば私は答える。ある!と。

私の代案は次のようなものである。

私は生活や学習に役立つ読む力を伸ばす学習活動には次のようなものがあると考えている。ひとまず、四つの例を示す。

1. 何かを解決するために役立ちそうな文書を読んで利用する。例えば、明治維新について知りたいと思えば、明治維新に関する文書を探して読む。特別な料理を作りたいと思えば、その料理の作り方についての文書を探して読む。楽しく暇つぶしをしたいときには、楽しく暇つぶしができそうな文書を探して読む。このような活動が、私流の問題解決的な読みの力を高める学習活動の具体例である。(この種の活動を私は「問題解決プロジェクト」と呼んでいる)

2. 味わい楽しみたいときに、味わい楽しめそうな文書を探して読む。読み始めて期待外れだったら読むのをやめて、ほかの文書を探す。(この種の活動を私は「味わい楽しむプロジェクト」と呼んでいる)

3. 名作を読んでその作品の内容や表現を学びたいときは、その作品を書き換えたり、絵本にしたり、新聞にしたり、脚本にしたり、問答スタイルの文体に書き直したり、方言や外国語に翻訳したり、絵にしたり、劇にして上演したり、紙芝居に作り直して上演したり、カルタににして遊んだり、クイズにして遊んだりして、その作品の形式や内容へのなじみを深める。そうすることを通して、理解力や表現力を高める。(この種の活動を私は、「翻作して作る・演じる・遊ぶプロジェクト」と呼んでいる。)

4. 文章力を高める練習をしたいときに、文学や説明的文章の名文を選んで書き写したり書き換えたりして練習する。(この活動を私は「上達するプロジェクト」と呼んでいる。)

以上が私の代案である。私のこの考えが、今の国語教育界に喜んで受け入れられるだろうか?あるいは、国語教育界から反感と怒りを買うだろうか?私にとっては、どちらでもよい。

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