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10-2「"さみしい"について」


連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。

10周目の執筆ルールは以下のものです。

[1] 前の人の原稿からうけたインスピレーションで、
[2]"さみしいときどうしているか" について書く

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center
【前回の杣道】




いま32歳で、今年33歳になる。15年前はいっつもさみしかった。いまはそうでもない。いまの暮らしは、昔より整理がついている。だから「いまはそうでもない」んだろうか。どうなんだろう。

15年前のさみしさは耐え難かった。手に余った。どうすればいいかわからず、それはそれはひどいものだった。ひどく痛んだ。足を止め、うずくまっていた。あのころ、家族がぼろぼろだったのと、地域にせよ部活にせよ、属していると安心して自覚できる共同体がなかったのとで、とにかくひどい様子でした。アルコールで睡眠薬を流し込み、へろへろになって過ごしているだけの十代後半だった。フォークばかり聴いていたように思う。搬送や入退院の記憶には、いつも森田童子や友川カズキの伴奏がついている。耐え難いさみしさに、ほんとうは耐えるべきだったのだ。あそこで耐えていたら、まだ違う人生だった。しかしそうはいかなかった。自分自身のコックピットをさみしさに占領されていた。痛かった。
「けど、結局、好きなんでしょ。なんだかんだいって、"さみしいよう、さみしいよう"ってぶうたれてるのも含めて、さみしさが好きなんだよね」と、昼ご飯を食べながら彼はへらへらといってのけた。大学院のとき、学食での会話です。私はびっくりしました。その通りだったから。なんていう明察だろう! その通りだ、その通りだ。彼の一言によって、さみしさを味わう自分を俯瞰で眺める視点がイッパツでインストールされた。さみしさが襲ってきたとき、そいつに占領されずにすむ人間になった。
そして同時に、感じる「さみしさ」の質が下がった。もはや歩みを止めるような痛みではなくなった。「それは質が下がったんじゃなくて視点が変わっただけだろ」といわれても納得できない。なぜなら自分にとってのさみしさとは、あくまで、大きな傷だからだ。痛みだからだ。ちょっとした傷は、さみしさ、と似て非なるもの、さみしさ未満のものだ。ホラー映画のエキサイトとリアルな恐怖感の違い。俯瞰で観察・確認するさみしさそっくりの愁傷は、ぼくの愛した裂傷ではない。
とはいえ当然、彼の明察によって、さみしさへの理解は進んだ。そうなんだよな、昔から、センチメンタルの甘さに沈むこと自体は好きだった。冬のほうが好きだった。夜のほうが好きだった。ひと気のないところや、人目を忍ぶような場所のほうが落ち着いた気分でいられる。昼前の閑散とした住宅街、ホテルの廊下、誰もいない教室、夜の公園。これまでに、猫の死体や人の糞便、カーセックス現場などを目撃した数は人より多いような気がするのだけど、人の目が届かない場所にばかり足を踏み入れがちだからなんじゃないだろうか。「ひとり」を感じるということが、わたくしのたましいにとってある種の「ふるさと」なのでしょう。(誰だってそうなのではないか、との予感もあるが。)

「さみしさ」は、子供のころの精神でも充分察知できた。というか、子供のころのほうが強かった。というのは、おそらく「さみしさ」はファンダメンタルな感覚だから。自分とそれ以外、という極端な分離の味わいにパニックを起こしかけているときの高揚がその正体なのではないか。
「自分」というものは実体としてあるわけじゃなくて、過去と現在が持続していると感じられた結果として立ち上がってくる、文脈化された経験の陰画でしかないわけだが、「自分」という感覚を支えるための絶えざる持続を「持続」としてではなく、「停滞」として読んだ場合、「自分」は「自分のそと」から徹底的に置いてけぼりにされ続けていくような気がしてこないだろうか。この感じが「さみしさ」なんじゃないだろうか。変化し続けるすべてのモノ・コトのなかにぽっかりとあいた真空にしか「自分(という同一化)」の足場がないことのかなしさ。


いま、ふとさみしさに襲われるようなときは、ひとまずはその寒々しさを目いっぱい味わうように努めている。しっかりと胸に吸い込む。それは変わらず痛みである。我慢比べをするみたく、ぎりぎりまで痛みに溺れてみる。それから、さみしげな音楽を聴く。音の波がぼくの鼓膜にぶつかることで、ぼくは音楽を感じる。ぼくの身体とその外側の世界の境界面で、ぼくにとっての音楽は発生するわけだ。しかし鼓膜という境界面の存在が際立って感じられるわけではない。音楽の経験は多分に心理的なものだし、しかも聴いている楽曲が気分に同調してくれるものともなれば、むしろ聴くことで内外の区別は曖昧になっていく。自と他が滲んで、だらしなくこなれていく。「ひとり」の効力が遠のいていく。

さみしい、ということに全身で苦しんでいた時代もあったけれど、「結局、さみしさのこと、好きなんだろうね」との分析にはっとさせられたという話はすでに述べた。この明察をした彼が亡くなったことで生じた感覚は痛みであり、つらいが、これが「さみしさ」なのか、まだ確信がない。自分のなかに彼の存在を感じる。同時に、死んだことですっかり静止しきった彼を、まだ生きているおれは自動的に置いてけぼりにしていく。おれという持続は時間を運ばれていき、彼から離れていく。そういう感じもある。内部化されている彼の存在を感じながらも、彼から引き離されていく感じもある。
停滞と変化の温度差を、甘さと痛みによってとらえている、という点でいえば、なるほどひとつのさみしさかもしれない。これから歳をとっていって、つまりは子供時代から離れていく。子供のころのようにさみしさを味わうことはできなくなる。そのかわり、別の視点でのさみしさを知っていくのかもしれない。どうなんだろう。



→この記事は以下の記事に「バトンタッチ」しています。


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