9-10 「見ることとなぞること・1」

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。
9周目の執筆ルールは以下のものです。
[1] 前の人の原稿からうけたインスピレーションで、[2]Loneliness,Solitude,Alone,Isolatedなどをキーワード・ヒントワードとして書く
また、レギュラーメンバーではない方にも、ゲストとして積極的にご参加いただくようになりました!(その場合のルールは「前の人からのインスピレーション」のみとなります)
【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

トルボットは『自然の鉛筆』のなかの緒言の冒頭で、写真という画像が「ディテールの充実と遠近法の正確さという2点において重宝されるようになるだろう」と語っている。ディテールの充実さと遠近法の正確さ。

われわれはまず、トルボットがとらえた写真画像の二つの特徴について考えてみたい。そもそも、この二つの特徴はどのような原理から導きだされるものなのだろうか。

「遠近法の正確さ」とはいうまでもなくカメラ・オブスキュラによって得られた画像を指し、古典的な光学的原理に基づく、いわゆる幾何学的遠近法のことである。このカメラ・オブスキュラ的な視覚モデルはこれまで多くの写真史の冒頭で、写真誕生の中心的な系譜として語られてきた。ジョナサン・クレーリーによれば、カメラ・オブスキュラ的視覚モデルは17、18世紀の西洋社会において人間の視覚を説明するための支配的パラダイムであったと説いている。とするならば、トルボットが語る写真における「遠近法の正確さ」とは、17、18世紀を通じて形成されてきた視覚モデル-幾何学的遠近法の完成体ともいえるだろう。

では、「ディテールの充実」をもたらす原理とは何だろうか。タルボットは「緒言」に続く「写真術発明の経緯に関する短い説明」のなかで、写真術を発明するに至った動機を記述している。カメラ・オブスキュラの像を正確にかつ微小なディテールをなぞることの難しさ。この難しさから、タルボットはカメラ・オブスキュラの像を定着させることを思いついたという。そのあと、像を定着させるための物質-光が物質に及ぼす作用の説明が続くことになる。タルボットにとっての写真術を発明にするに至ったポイントは、カメラ・オブスキュラの像を「なぞる」という目的に端を発し、像を定着させることを思いついたということになる。そのために光が物質に及びす作用-光化学的原理を解明することに至ったということになるだろう。とするならば、「ディテールの充実」は光化学的原理と不可分の関係にあることが推測できる。

ではそもそも、トルボットは、なぜ、カメラ・オブスキュラの像を正確かつ微妙なディテールをなぞることに固執したのか、そこにどのような意義を見出していたのか。

周知のように、カメラ・オブスキュラはルネサンス以来、絵画を描くための補助器具として発展してきたものだ。その発明ルーツはジャン・バティスタ・デラ・ポルタの1588年の著作『自然魔術』に由来するとも言われている。いずれにしても、カメラ・オブスキュラはルネサンス以来の自然科学の進展と不可分の関係にあるのはいうまでもない。トルボットにとっても、カメラ・オブスキュラの像は、自然の姿を正確に再現したものと理解されていたにちがいない。

自然を正確に再現した像に魅了されるということはどういうことなのか。この問題の考察に移る前に「なぞる」という行為に注目してみたい。見ることとなぞること。見ることをなぞること、そこにはどのような認識の変容が潜んでいるのか。スヴェトラー・アルパースはその著『描写の芸術』のなかで、ロバート・フック『ミクログラフィア(顕微鏡図譜)』の「誠実な手と忠実な眼をもって」を引用し、17世紀オランダ絵画の描写技術を「細心の注意もをもって事物を眺め、それを手で写しとること」ととらえ、「視覚世界を構成する多様な事物の記録へとつなげていくものであった」と述べている。「細心の注意をもって事物を眺める」ことは、幾何学的遠近法に基づくレンズの効果によるものであり、多様な事物の記録とはいうまでもなくディテールの記録ということになるだろう。

つまり、なぞることは必然的にディテールに眼を向けさせることになる。アルパースはこうしたトレースによる描写術を地図制作法(マッピング)と呼んでいる。実際、トルボットが事物の像を定着させるために最初に試みたのは、カメラ・オブスキュラの像ではなく、感光紙に直接物を置いて像を得る、トルボット自らフォトジェニック・ドローイング(現在、フォトグラムと呼ばれるもの)と命名したものだった。まさに光によるトレースそのものである。その後、トルボットはカメラ・オブスキュラ像の定着を試みていくことになる。

なぞるという行為における、事物のディテール情報の獲得。なぞることは見ることに対して、現実をとらえる上でどのような違いを含んでいるのか。「見ること」が幾何学的遠近法による視覚モデルとするならば、「なぞること」は幾何学的遠近法の視覚モデルに対して、どのような関係に位置づけることが可能になるのか。一定の距離をもって俯瞰され、対象化された像に対する、ディテール(多様な事物の細部)の介入。遠隔と近接。視覚と触覚。

ここでわれわれは、レオ・スタインバーグが「他の価値基準」のなかで提唱した「フラットベッド(平台)」を思い起こす。スタインバーグは伝統的な絵画が人間の体勢に対して直角に差し込まれる画面(幾何学的遠近法における不可欠な条件のひとつ)だったのに対して、1960年以降の絵画(とりわけ、ラウシェンバーグやデュビュッフェにおいて)は不透明な水平の平台(フラットベッド)をシミュレートしていると語っている。絵画画面の垂直の場から水平の場への移行。この水平の場は、多様な知覚情報が無差別に交錯する受容器と化すことになる。

もうひとつ、指摘しておきたいことは、なぞるという行為が像の生じる支持体(support:物質的な基盤)の存在を前景化することである。象徴的なことは、ダゲレオタイプが金属板の上に薬用処理(感光物質)を施したのに対し、後にカロタイプと呼ばれるようになるトルボットの方法は紙の上に塗布したことだ。その結果、ダゲレオタイプが鏡に映ったような像を浮上させたの対して、タルボットの紙の上の像はいささか不透明さを帯びることになった(もちろん、ダゲレオタイプが一点もののポジ像だったのに対して、カロタイプは紙ネガ像として、複製の可能性を開くことになる。複製の問題については、項を変えて考察してみたいと思う)。

鏡と紙。写真誕生における、支持体のふたつの存在は偶然に帰すことができない、何か根本的な像生成の問題を孕んでいないか。少なくとも、ひとつ、確実に言えることは、紙上の像はカメラ・オブスキュラの像に振動を与え、像そのものの存在を反省的に反復させることになるのではないか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?