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2024 春 静岡 その2

(前回のつづき)
 静岡駅の改札で、ぎゃーぎゃー叫んでいる人がいる。駅員に怒っているらしい。悲鳴はおそろしく耳障りなだけで、言葉に聞こえない。
 電車の中で友人と落ち合う。ぺたちゃん(仮名)と会うのは半年以上ぶり、去年は僕の家にあそびにきてくれて、タロット占いの練習台になった。
 意地が悪く、意固地でケチでワガママで、どうしようもない祖父に愛想をつかして、意地が悪く意固地でケチでワガママでどうしようもない祖母が家を出て行って数年、いまだに祖母は居所を知らせずに、財産分与を要求してくる。祖父は弁護士費用を惜しみ法的な対応はなにもせず、莫大な財産を抱きしめたまま、祖母の居所を自力で探ろうと頑張っている。投資家として大成功をしているがカップラーメンしか食べない。
 ドストエフスキー作品の設定の下地みたいな「きらわれもののおじいさん」の現況を、会うたびに聞くのだけど、その話をはじめて聞いてから数年、一切状況は変わっていない。ペタちゃんは話がうまいので、「ばあちゃんもケチでさ、たとえば~」と、必ず具体的なエピソードをくれる。聞けば聞くほど、お似合いのふたりだな、と思う。

「田子の浦」これは静岡は富士市から駿河湾をのぞむ海辺の名称で、とりあえずはここにむかうのが、ふたりの散歩の口実だった。富士山がでかい。まったくの車社会、幹線道路沿いに食品加工工場や製紙工場が並ぶ道を長いこと歩いて、目に映るすべてのものに悪い冗談を重ね、だらしなく、素直な、力の抜けたやりとり。お腹空いたよね、なに食べようか。いま食べたいものはなに? いま、なんでもあるフードコートにいるとして、なににする? だしがいいな、だしの味のやつ。とろろこんぶののってるうどんとか、わかるわかる、味噌汁、味噌汁がいいな。味噌汁なにがいいかな。豆腐オンリーとかでいいか。赤だしとか、なめことかじゃないよね。いまちがうよね。



柵と大量のパイプにかこまれた広い敷地に新築家屋がぽつぽつ…


 ハウスメーカーが、実際にいろんな住宅を建ててみて、いろいろチェックするための施設があった。むかしのバラエティや特撮もの仮面で、爆発ロケを撮影しているような土色のだだっぴろい平地に、ぽつりぽつりと新築物件が置かれている。いつか見た、空爆実験の映像を連想した。

「しらす街道」の看板にケチをつける。「江戸に向かうから江戸街道、日光に着くので日光街道。街道沿いに江戸や日光があるのではなくて、道の果てに江戸や日光がある。レストランフロアにたまにあるような「ラーメン街道」に並んでるお店は嘘のラーメン屋、「しらす街道」に並んでいるのは「しらす」にあらず、その道を突き進んで落ちた果ての駿河湾こそがゴール地点だ」屁理屈をこねる中学生の会話。もう3キロか4キロは歩いただろうか。ようやく公園について、展望台に上って海と富士山を眺める。潮風によって髪の毛がゴワゴワになったのを、ぺたちゃんはしきりに気にしている。「いま東海地震おきたら、津波くるね。ここにたら助からないね」おれたちは海浜公園をはしゃぐあらゆる犬を上から指さしていた。



 公園を出て、住宅街を抜ける。表札は斎藤さんばかり、幹線道路に沿って北上、それから、ふたたび住宅街へ。さっきはさ、だしの味がとか味噌汁がとか抜かしてたけど、もう全然そんな気分じゃないよね。塩と脂、塩と脂がほしいよね。だし? しゃらくさいわ、チーズ、チーズ、チーズ! 顎をしっかり使いたいよね。ときには道なき道を、ときには、大型トラックばかりが通る頼りない歩道を、何時間歩き続けているのか知りたくなくて私は一切時計を見ない。ついに辿り着いた商店街では昼営業時間が終わっており、どこもやっていない。「ここもやってないねえ」って声が漏れるばかりで会話じゃない。
 バーミヤンを見つけたのでバーミヤンに入った。座るとふくらはぎがあつい。水を何杯も飲む。眠たい。熟考の甲斐なく頼みすぎるほど頼んで、もりもり食べながら、ようやく言葉のキャッチボールが成立していくのに、中身はいつまでも品がない。ぺたちゃんが急に、
「いまさらだけど、一人称ってなに使ってるっけ?」間髪いれずに「ちんぽこ」という言葉が頭に浮かぶ。しかし口に出さない。口に出せばよかったと一瞬で悔やむ。いまならまだ間に合うかもしれない。焦る。だって質問されてからまだ一秒、二秒しか経っていない。けど、ベストなタイミングはもう逃がしてしまっている。質問をすべて聞き切らないうち、球がネットを超えるか超えないかの刹那にスマッシュをぶちこむべきだった。それはわかってる。わかってるけどどうしよう。いや、潔く諦めるべきか? なんて悩んでいるうちにもう三秒、五秒経っている。もはや、いまさらマジメに答えるのも難しいし恥ずかしい。だからといって、「即座ちんぽこ」を上回る返答も見当たらない。この迷いをまるごとを打ち明けるのも情けないし長いし、そもそも応答になってない。混乱する。こんなふうに、こんなことを悩んでいるだなんて悔しい。どうすればいい? 今年35歳になります。どうすればいい? 自分のなかで思いが巡り、おそらく疲れも手伝って、バーミヤンのソファに横になって腹を抱えてひとりで大笑いする。涙が出る。事情がまったくわからない(一人称をきいただけ)のぺたちゃんはただただ困惑するばかりである。ばかばかしさの自家中毒にはまってしまっていつまでも笑いから抜け出せない。

 風情ある駅舎の「岳南鉄道」で吉原駅に戻る。JRに乗り続ければ浜松まで帰れるぺたちゃんと、ふたりで静岡駅で降りて、昨日、美容師さんに教えてもらった「むそう」という居酒屋に行ったものの、お互いバーミヤンで腹が膨れているから、美容師さん一押しの「白いだし巻き卵」と「静岡おでんの大根」だけ頼む。巨大な大根おでんは味も歯ごたえもとてもおいしくて、昨日の「おでんストリート」のおでんがおいしくなかったことがわかる。おいしいおでんはおいしい。

 ぺたちゃんは、家族で福井に旅行して、それからしばらく関西の実家で過ごしていた。いま、その足でそのまままっすぐ新幹線帰って浜松の家にいる、ことになっている。実際は違う。新幹線は名古屋で降りて、名古屋の友人宅に一泊してからバスで浜松に戻って、それから今日はちんぽこと一緒に静岡にいる。なぜ親に嘘をつく必要があるのかはわからないが、「家着いたかどうか、いま何してるか、聞かれたときのために今日はなんていおうかな」と考えている。案の定、「いまなにしとるん?」と母親から電話がくる。「いま駅で、これから大学の友達と夜ご飯食べようって待ち合わせしてて」と話している。母親は結局、祖父VS祖母の最新情報をお伝えしたい気持ちが強いから、嘘がばれるほど深堀りされることはない。ぺたちゃんが電話している隙に、ポケットから「ちびしかくちゃん」2冊を取り出して、電話を終えた彼に渡す。誕生日プレゼントです。改札で見送って、ぐるぐる遠回りをしながら宿に帰って、昨日の続きの「しかくちゃん」を読む。だまちゃんがしかこをいびっている。「あたしが送った年賀状はお年玉に当選しているはずだねぇ、なんで言わないんだい? 卑怯な子だねぇ」(そんな嫌なやつなのに、年賀状は出すんだ……)
 
 

おおきなだいこん


 翌日は朝から冷たい雨、激しい雨、バスに乗って県立美術館に行く。どんな展覧会がやっているのかは知らないで行く。
 いかにも日本の公立美術館らしい、まっすぐな石で組まれた四角い建物だが、なかにはいるとめちゃくちゃに広い空間がどかーんと抜けている。隅にそっと富士山の絵があり、雨の注ぐ中庭もみえる。中庭を迂回するようにぐるりとめぐると工作室があった。「見学自由」とある。リトグラフをやっている。
 県立美術館の工作室には版画用品やプレス機があって、誰でも自由に、リトグラフやエッチング、シルクスクリーンや木版画をやれる。利用者はみんな大人で、真剣に銘々の作品制作を行っているようだった。私はすっかり(利用希望をもった)見学者だので、機材・用品のことシステムのこと、さまざまに説明をいただき、おもしろく感じてはいるのだけど、日常的に通えないから申し訳ない。

 ロビーの空間を横切って、おおきなおおきな階段をのぼって折り返してまたのぼって、二階の展示室では天地耕作(あまつちこうさく)の回顧展が開催されていた。
 美術館ホームページにはこうある。

 『天地耕作は、街中を離れた野外を主なフィールドに、木や縄、石や土などの自然物を素材として、大がかりな作品を制作しました。彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマに迫りました。しかしながら、時間をかけて築かれた、それらの耕作物(作品)は、公開期間やアクセスが限られていたため、現場を目撃した人は多くありません。 本展では天地耕作の活動の全貌を、写真作品や映像、貴重な資料で明らかにします。』

 天地耕作とは、1988年から2003年にかけて断続的に活動していた、3人の作家(といっていいのか?)によるプロジェクトである。静岡の山中に木々や綱を用いて「場」をつくり、ときには「場」で祈祷や舞踊(前衛的ともいえる、土着的ともいえる)などが演じられる。残っていた映像をみてまず感じたのは、しらじらしさだった。しかし少し考え直すと誤りに気づく。地域や時代など、本人たちの生まれ育ちを思うと、彼らにとってはかなりリアリティのある、自らの血の物語に根を張った「パフォーマンス」なのではないか。

20年ぶりの新作(一部)


 ハイカルチャーの宿命ではあるが、ごくごく一部の人々が彫刻だの絵画だのといったものを楽しんで、しかも、ここに本質的ななにかを透視して論じたりする。ながいこと地域に根ざして続いてきたお祭りや習慣と並べると、アートファン相手だからこそ成立する体系の狭さが嘘っぽく思えてくる。あるいは、言語的なもの(“意味”)にぞんぶんにからめとられているものに現代性を見出すパラダイムがある。批評の文脈とか社会運動との共鳴とかを指摘できるゆえに認められる価値。いずれにせよ、≪それなりにおおきくなってから、「アートの見方」を勉強して身につけた人々=そういった勉強が可能な立場にいた人が「イメージ」について美学的な論点で考えている≫。これはなんていうか、もっと裸な≪生活≫とは離れたところにある、という物足りなさ。
 ≪アート≫に覚える違和感はもうひとつある。
携帯していた河合隼雄の「中空構造日本の深層」が示唆していたものは、神話や言語を分析することでみえてくる、その国独自のメンタリティの存在であった。(便宜的に「その国」と言ったが、もちろんいわゆる国家を指さない)
 彫刻や絵画と名指されている物体「だけ」を模倣して、それで本当に西洋美術を輸入したことになるのか。(翻訳をこなすAIに人の心がわかるのか、といった議論とも同型である)西洋文化と出会って、なにかおもしろいものが出てくるとして、日本なら日本のメンタリティによりなじんだ様式がまだ、どこかに潜んでいると、もうちょっとだけ期待してもいいのかもしれない。そんな気もしている。

 以上の違和感ないし好奇心を、天地耕作の回顧展は刺激してくれた。パブリックのホワイトキューブ展示室で刺激されてるようじゃぬるい気もするが。

静岡県立美術館


 
 美術の話もう少しだけ。
 自分は絵を描いて、描き続けているわけだから、述べたモヤモヤはまさしく自分の問題でもある。
 けど、この違和感に足ひっぱられて「つくれなくなる」ことはない。たんにお絵描きが好きで描いている部分が多いために、「シーンや制度にどのように参入するか。あるいは、立ち向かうか」という課題にチャレンジしている意識が希薄なので、つくれなくなることはない。どっちかっていうと頭は、「人類にとって、絵とは何か」みたいな壮大な疑問にむかいがちである。となると、「("人類"ってスケールと比べりゃほんのちょっとでしかない)西洋絵画ってなにものなのか」との反感があらわれる。とはいえ結局それなりに好きだから、反抗期みたいなものかもしれない。最近はアングルの画集を毎日少しずつめくって、ドガの本を読んでいます。ブランクーシとマチスの展示に行った。
 西洋絵画ぶっつぶせ!ともまったく思わんし好きは好きだけど、西洋絵画だぁいすき❤︎とも思わん。美術って「ニセモノ」だし、「ニセモノ」っておもしろいよね、って思う。
 
 なにかに立ち向かうことは、立ち向かう対象が独自の位置にしっかり存在している世界観を選んではじめて成り立つことだから、絶対に相手を無効化できない。「それはそれとして」つって受け流して、オモテではへらへら話をあわせつつも、しかし実際はぜんぜん無関係に、無視してオレの道を行うと壊せる。対象自体を切り崩すのではなく、相対化の効果によって、「それ」が帯びるパワーを「まあ、そういう人たちもいるよね」みたいな質におとしめる。たとえば日本円以外の経済単位を勝手につくって、みんながそっちを頼るようになったら日本政府への暴力革命をせずに国のあり方を変えられ……あ、昔そうでしたね。通貨経済と、そうではない経済とが重なってるのがフツーだった。ってことはそれが一本化されてくのが世の中の流れだったってことだから、今後わかれることはないか。ちぇっ。そうだよなあ、「通貨以外の経済」って急に言われてピンとこない人も多そうだ。「え? 経済? 経済って、お金の話なんじゃないの?」つって。

……旅行の話が美術の話になり、もっと抽象的になり、妄言になった。ちんぽこの話とかしてたのに。


おうどん

 県立美術館からのバスで東静岡駅へ。初日、美容師さんに教えてもらった、「東静岡駅前の天然温泉施設、レストランがおいしくて、うどんとかおいしくて、それだけ食べに行ったりもする」って店にいく。メニューや器のサイズがどう見ても「つるとんたん」。調べるとビンゴです。この温泉施設のレストランは「つるとんたん」が担当している。というか、「つるとんたん」は、レジャー事業の総合的な開発をおこなう会社によるひとつの事業としてそもそもはじめられたうどん屋さんだそうです。またひとつ賢くなってしまった。

(つづく)

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