蛭野行燈

ゆとり世代の傾奇者。仮の姿は底辺会社員。幼少期よりズレた人、変な人と言われ育つ。なんら…

蛭野行燈

ゆとり世代の傾奇者。仮の姿は底辺会社員。幼少期よりズレた人、変な人と言われ育つ。なんらかの発達障害を疑うも、診断が怖いのと、忙しいのと、金がないのとで踏み込めない。noteを始めたのは自分の感性を形に残すため。

最近の記事

気分転換のしすぎで混乱する

新しいノートの1ページ目を開くのが好きだ。どう書いていこう、わかりやすくこんな書き方をしていこう… あれこれ思い巡らせて書いていく。丁寧な字、行間なんかを意識しながら。その時の瞬間が好きなのだ。 絶対わかりやすくて良い一冊を作る! いつもそういう野望が現れ、勢いでペンを走らせる あれこれ始めようとする時の感覚も好きだ。多様な趣味を持ちたい。そして、色々な人と関わりたい。色々な出来事や問題に首を突っ込んで、視野を広げようと画策するのも好きだ。 ただ、それらは長くは続か

    • 頭がパンクした時の感覚

      仕事に追われつつ、こなしている仕事もなかなか終わらない。捌くのに時間がかかりすぎている。 そして案の定、また別の仕事を頼まれる。 先日はそれがことの他多かった。 最初は「やるぞ!こなしてくぞ!」と若干意気込みが強かったが、いつのまにか何もかもが頭の中に入らなくなってしまった。言われたことを記憶する、メモする、力はとうに無くなっていた。 いつもながらに呆れられ、その帰り道暫く頭を冷やした。 これが頭がパンクする感覚なんだろうな。 パンク=破裂というイメージが強く、空

      • お人好しで自滅する

        私は仕事が遅い。 他の人が2分で終わらせるようなことに30分かかってしまう。 他の人が数日かけて終わらせるようなことは永遠に終わらない。 この記事だって何度も寝かしつつ、何日かかけて書いている。 それだけならまだ「仕事の遅すぎる役立たず」で済むだろう。 そして私は変にお人好しだ。 人からの頼まれごとをとにかく引き受けてしまう。 自分のタスクが途中でも、「やります」と作った笑顔で引き受ける。 できなければやらなきゃいいだけだろ、と思うことだろう。それでも、お人好

        • 「放っておいてくれ」と言われた良心は

          私はその時大学生だった。当時は大学の講義が終わり、そのままアルバイトへ赴き、22時半前に退勤し、23時過ぎに帰宅しそのまま晩飯、シャワー、就寝というような生活サイクルだった。 その頃の私は、若干病的な正義感と優しさを持っており、困ってる人は放っておけず、ついついこちらから声をかけることがしばしばあった。そのせいで痛い目を見たこともあるのだが、それはまた今度に。 その日もアルバイトを終え、22時半頃に退勤をした。季節柄、繁忙期の後処理などに頭を悩ませていたが、春の宵の心地良

        気分転換のしすぎで混乱する

          「生きてるだけでえらい」って言われても

          自己肯定感がなかなか得られない世の中、みんながみんなを励まし合っているのを見かける。 生きてるだけでえらい!この言葉もそんな状況下で生まれたものに違いない。自己肯定感を高めなければ、心は容易く死んでしまう。なんとか生かそうと皆この言葉を口にするようになった。 色々と疲れた立場だからこそ、はっきり言う。私はこの言葉に苛立ちを覚えている。励ましよりも侮蔑すら感じる。我ながら、面倒な性格だと思う。だからお前は孤独なんだと、自分が自分に言っている。 しかし、この言葉を初めて見か

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          1人の世界へ突入してしまう

          もともと空想や物語に心を惹かれていた私は、自分を守るために自分の世界みたいなものをつくってしまっている。10代の頃は「いずれこの世界は無くなるだろうけど、そのときには自分もしっかりしているはず」などと珍しく楽観的になっていた。 そして20代になり、一人暮らしになって早数年。その「自分の世界」は今、アパートの一室の中に体現されている。趣味のものが重なり、おまけにガラクタまでこの世界では宝物。20歳になる前に無くなると思ってた世界はよりその輪郭を濃くしていった。 その世界があ

          1人の世界へ突入してしまう

          人の話が聞けないというよりかは

          「俺が話してるとき、目線がどっかにいってたけど、話聞いてた?」 「返事のタイミングが遅いんだけど、聞いてた?」 「あ、これは話聞いてない顔だな笑」 どんなに聴こうという意志があっても、何かの拍子にそれは容易く壊れてしまう。結果、上記のようなことを言われることになる。 耳にタコレベルで言われたことだから、感覚が麻痺しているのだが、振り返る度にいつも思う。 どうしてみんな、外界からの刺激に左右されることなく人の話を聴くことができるのだろう?流行りの言葉で言えば、どうして

          人の話が聞けないというよりかは

          脳のつくりか無能なだけか

          自己紹介でも伝えた通り、私は発達障害があるのではないかと思っている。 今まで、俗に言うADHDの可能性を何度も指摘されたし、ある程度自覚している。自覚症状から察するに、どちらかと言えばアスペルガーの傾向の方が強いのかもしれないと考えているが、専門家の意見無くして論ずることではない。 自分の様々な不手際の理由を知りたい。でも、知りたくない。診断書をもらったら、薬を飲んだら楽になれるのか、周りはやさしくなれるのか。面倒な邪念が脳をジャックしている。 診断書を見せると、水戸黄

          脳のつくりか無能なだけか

          蛭野行燈という人物について

          私、蛭野行燈(ひるの・あんどん)。 俗に言う「ゆとり世代」のど真ん中で、社会人になった現在は人生の先輩方からこの境遇について言われることもしばしば。 幼い頃から周りの人が概ねやってきたこと、例えばサッカーとか野球とか、そういったことへの一切の興味を持たずして、自由帳に拙い絵や漫画を描いていた。かと言って、漫画が好き、というわけでもなく、物語とか空想だとか、のめり込むと大変なものに興味あり。 さて、私がこのnoteを始めた理由だが、それは生きづらさからである。このペンネー

          蛭野行燈という人物について