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【明清交代人物録】鄭芝龍(その六)

オランダの配下であることをやめて、独自の勢力となってからの鄭芝龍について触れます。彼はまず東シナ海の中国人海上勢力の第一人者となることを目指します。その過程でオランダと協力したり敵対したりしますが、常に柔軟に対応しています。


許心素を排除し、厦門の主となる

許心素というのはオランダの資料の中でSim Souとして現れてくる人物です。台湾の研究者はこの発音を閩南語で解読し、許心素を比定しています。彼は李旦集団の中国官憲側の代理人として厦門で貿易を統括していました。李旦が亡くなった後も許心素はこの利権を手放さず、明朝の正規軍の後ろ盾もあったので、鄭芝龍を敵対視し排除しようとします。しかし、鄭芝龍の船団は明朝の正規軍を破ってしまいます。
この時明軍を統率していたのは俞咨皋です。彼は倭寇と戦った功績のある将軍俞大猷の息子であり、明朝の中では名家の出身であったのでしょう。この人物が、その出自と比べて貿易商人の後ろ盾となっているところが非常に面白いところです。

この際にオランダ勢は許心素側に立って、貿易の利益を得ようと考えています。許心素は明朝の軍部とつながっており、官の利権をある程度代表していたと考えられますが、この内部抗争に負けていまいます。結果として許心素は殺され、厦門港は鄭芝龍の勢力下に入ります。

【許心素】

【俞大猷】

この厦門の港を使えるということは、この時代の海上勢力にとって大きな意味を持ちます。これより前の時代、港の水深というのは大きなイシューではありませんでした。船の規模が小さいため吃水がそれほど深くないからです。この時代に、日本では平戸から長崎に交易の港が移行しています。これも同じ理由で、水深の深い港が規模の大きな船を入港させるには必要になっているからです。そして平戸も泉州も中世の港として発展することはありませんでしたが、長崎も厦門も現代に生きる国際貿易港となっています。

この港の水深という問題は、後にタイオワン(大員、後の台南)のゼーランディア城でも戦いの帰趨を左右する大問題となります。オランダはこの問題を知りつつ、華僑集団との商売のためにタイオワンに砦を設けています。

明朝の招撫を受ける

オランダの指揮を離れた鄭芝龍が行ったことは、明朝の支配下に入り中国の正規軍となることです。明朝側としても、俞咨皋の軍隊が破れてしまったことで、鄭芝龍に対抗する軍隊がなくなってしまい、打つ手がないという状態なので、他の選択肢がなかったのでしょう。
このことは、70年前の王直の時と異なり、問題なく明朝旗下の軍隊となることができています。理由はこの時点の明朝はすでに一部開国をしており、民間勢力を海軍に納めることに反対が少なかったこと、東北地方での満州族、陝西省での李自成などとの戦いのために、地方の治安のために施す政策が手薄になっていたことなどが考えられます。

日中貿易を営むという主題に関して、明朝のお墨付きをもらうことは、軍事的な意味だけではなく、経済上の利点も大きかったであろうと考えられます。日中貿易の基礎となる商品は圧倒的に中国で産出される品物、絹織物や陶器などです。これらの商品の供給源との連絡を正式に結ぶことができます。これは、過去の日中貿易のプレイヤーが常に間接的にしか商品の生産地とアクセスできなかったことと比べると非常に有利です。

このように考えると、鄭芝龍のこの一手は、結果的に一石二鳥の妙手であったのではないかというのが僕の考えです。彼以前の東シナ海の海上勢力は、明朝の支配下に入るという選択をしていません。唯一王直がこれにトライしていますが、失敗し死刑に処されるという憂き目に遭ってしまいます。そのためこの判断は鄭芝龍が行うまではタブーだったのではないでしょうか。

そして、鄭芝龍は明朝の正規軍としての立場を備えて、東シナ海の制海権を奪いにいきます。

東シナ海の制海権

鄭芝龍の海上勢力は、最終的に東シナ海の制海権を掌握していると考えられます。彼の経済力の一部分は、この海域を通行する際の通行税:旗幟料の徴収にあったと言われています。ということは、この海域の治安維持を行うだけの海軍力を備えていたのでしょう。
この様な勢力を持つ集団がどの時点で発生したのかを考えると、鄭芝龍の時代以前には、そこまでの力を持った集団は存在していなかったのだろうと思われます。

前回考察した、日中間の交易をおこなったプレイヤーを振り返ってみると、いずれもそのような力を持っていません。倭寇、ポルトガル商船、中国の海賊たち、これらのいずれもその勢力範囲は限定的でした。
唯一オランダ東インド会社はそのような意図を有していたと考えられます。彼らは中国とマニラ間の貿易を遮断しようと考えています。それがために鄭芝龍に協力を要請しています。しかし圧倒的に自らの船団が少ない。ですので東シナ海の制海権を得ることはできませんでした。

このオランダ人の意図と挫折を目の当たりにした鄭芝龍が自らその野心を持ったのではないか、というのは十分に考えられることです。そして自らの海上勢力を拡大することで、東シナ海の制海権を掌握することを実現します。そして、その前提となっているのが明王朝の後ろ盾を得るということで、これが時代の状況の中で実現したわけです。

李魁奇と鍾斌の反逆

李魁奇はもともと鄭芝龍の配下で働いていた人物です。鄭芝龍の勢力が拡大するのを見て、彼は鄭芝龍の元を離れ独立の勢力となろうと試みます。一時期、彼の勢力は福建の南半分、厦門から漳州月港を支配するほどになります。そしてオランダも李魁奇の勢いを見て、彼につこうと画策します。この段階でオランダは鄭芝龍と組むことには反対であったようです。そして明朝も李魁奇に対して招撫を行い、鄭芝龍と並び立たせその勢力を牽制しようと企み始めます。

しかし、李魁奇の絶頂期はここまででした。最終的にオランダに対し必要な交易品を引き渡すことができず、オランダの支持を失ってしまいます。そして明朝からのお墨付きを得ることにも失敗し、厦門で孤立し鄭芝龍の軍隊に敗れ去ります。

李魁奇のこの経過を見ると彼は武力に訴えることはできても、交易をとして恒常的な関係を築くことには疎かったのではないかと思われます。逆に鄭芝龍はその点で交易により信頼関係を築くことが大切であることを、過去の経験から理解していたのではないでしょうか。

鍾斌も李魁奇と同じように、鄭芝龍の配下から独立し彼の勢力に対し挑戦をしますが失敗します。そして、このような経過を経て鄭芝龍は東シナ海の海上の第一勢力となります。

オランダはこのような状況で鄭芝龍との提携を結び、台湾を拠点に中国と自由に交易をする権利を得ます。彼らの長年の希望がようやく叶えられたわけです。今後長く続く鄭家軍とオランダの抗争を考えると、束の間の平和な一時期になります。



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