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現代の病理 老いの揺らぎ

私は59歳だ。もうすぐ還暦と言われることがよくある。また、最近.年甲斐もなく老年が若者言葉を使って、エネルギッシュに動いているのが目障り、という印象を、60代から80代の成功したキャリアを持っている方々から持たれることが多いと感じる。おそらく、付き合いきれない、と思われていて、世間に出ると、否定の矢面に立ちやすい。
「羨ましい」と言われることも多いが、その言葉の裏にある排除と悪意の感情には気をつけなくてはならない。距離を保ち、謙虚さと笑いでネガティブな感情を避ける必要がある。

「なんだか元気だよね」そう言われる理由は 年寄りでかつ大病もしているのに、よくやるよ、と思われているからである。褒められているわけではない。ありがとう、と答えながら、距離を保つ、気をつけなくてはならない。

特に、元学校の先生や大企業幹部にそれが顕著だ。
悔しいけど,そうした印象を持たれることは認めなくてはならない。

私は老人だろうか?どうしてもそう思えない。
そう考えることには、すごく違和感がある。
それが今日の中心テーマである。

私の脳は、記憶力を除けば、成人の時よりもよく機能していると思う。どんどんクリエイティブになっていると実感もしている。体力は落ちてはいるが、ドーパミンやアドレナリンの力で、一定時間のパフォーマンスは出すことができる。お遍路では一日中歩くことを証明した。5時間ぶっ倒してDJをすることも、10時間詩を書くことも、絵を描くこともできる。何より、社会的責任を一通り果たしたため、自分の中の義務感からも自由になった。
疲れきると、確かにふらふらになるが、寝れば回復する。アーティストとしてはスタート地点にだったばかりであり、10年で何かを成し遂げなくてはならない、と考えている。そんな同年代はあまりに少ないので、友達は年下ばかりだ。

そうは言っても、一般の世間と自己認識のギャップは理解しておかなくてはならない。今のところは。

さて、1947年に50歳だった日本の男性の平均寿命が今は81歳である。約75年で31年伸びたことになる。つまり、戦後生を受けたものは、1年に約5ヶ月人生が伸びていくことを,無意識で感じてきたことになる。何をしなくても、寿命が伸びていく感覚は、ある種の不老信仰を生んだ。人によっては、「もしかしたら、死なないかもしれない」という錯覚さえある。私はそれを父親に感じた。
しかし、この感覚には限界があるだろう。
いくら医学が進化しても、いずれ、寿命の打ち止めが来る。そんな時代に必要なのは、自分が死んだ後への想像力ではないか、と思う。

私は56歳から詩の活動を始め59歳で詩人になった。これは20歳の青年がするのと何も変わらない。テクノロジーの進化によって、衰えた様々な機能を補完することもできる。ある人は、それを現代の病理ととらえるかもしれないが、私はそう思わない。おそらく、逆三角形の人口ピラミッドや、ヒエラルキーの固定化による若年層の無気力や鬱を引き起こす要因として、捉えられているのだろう。しかし、それは、むしろ逆であると私は強調したい。

例えば、退官した大学教授やCEOが振りかざす権威主義は老害ではあるが、もしそういった社会的なポジションから離れれば、人はクリエイティブなことを
しつつ、自由でいられる。そのことを私は証明したいと思う。

固定観念は個人の意識だが、関係性によってもたらされる面も多く、それは時間をかけて注意深く進めれば、取り除いていくこともできる。
つまり、決意と想像力の問題である、と主張したい。

何よりそれは、若者のロールモデルになり、人生の好循環につながる。死んだ後もそのミームは残る。そういう意味での不老不死であり、個体として、名前としてのものではない。それをあなたに伝えたい。

私が、還暦を過ぎてもまるで青年のように行動することは、社会の病理の現れではない。むしろ、都市化とテクノロジーによる人間の勝利である。それによって失うものもあるだろう。かと言って得たものを失うわけではない。
若い友人と楽しく過ごすことに違和感はない。

人生の自己満足と権威主義こそ老いの病理である保守的で頑固で死ぬ準備のためだけに生きることが,楽しいと思えない。
老いても、若者言葉を使い、若者と交わることは、社会にとって何の問題もない、と思う。
間違ってるかな。
わからないけど、僕はそう思うことにする。
今日のところはこの辺で。

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