GINZA SIX 蔦屋銀座の展覧会について③ 磯崎隼人との出会い

入って右側の壁に立てかけられた、切り取られたベニア板の下に、ひっそりと建てられた小さな紙の家、壁に取り付けられた2つのグレーのフェイクの照明、切り取られたベニアの三角形の穴に現れたコンセントから伸びる緑の延長コード、そして廃棄寸前でただ同然に買い求めた椅子やソファ、こうしたジャンクは観るものの想像力を大いに掻き立てる。それらは、消費資本主義のアイロニー であるが、逆説的に消費社会によって価値を失ったものたちへの磯崎さんの眼差しが際立ってくる。

マイノリティ/社会的弱者、死を直前にした人に対する目線と同じ愛情のようなものが、経済価値を失ったジャンクに対しても注がれている。

ここまで書いてきて、銀座のど真ん中で、グローバル資本主義のシンボルと言ってもいい、絢爛な商業ビルの中で、「自己埋葬」と題したこうした展示をすること自体が資本主義そのものあるいは資本主義の悪魔祓いのパロディであり、
アートを用いた現代の悪魔祓いが、とてつもない暴力行為、あるいは自死につながらないようにリミッターとして機能している
のかもしれない、と書きながら考え至った。

そして、それが、「私以外の多くの人間によってこの展示は成立している」というスローガンの正体なのであろう。

良い出会いをいただけたことに感謝する。

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