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小説 下弦の月に消えた女 試し読み

 この記事を投稿した2022年4月時点では、Amazonで「試し読み」が出来なかったので、「試し読み」として投稿しましたが、今はAmazonで「試し読み」が出来るようになっています。それも最後のシーンまで…(汗)
 作者としては、ちょっとネタバレになってしまうので、購入前には、読んで欲しくないシーンなんですが、作者の意向は反映されないんですね。
 どうも最近はネタバレが解ってから読むという読者が多いらしいので、これもアリなのかと思いますが、ネタバレが嫌いな人はAmazon試し読み、最後の「プロローグ2」だけは読まない方がよろしいかと思います。

 上記は作者本人が Canvaという動画ソフトで作成したプロモーションビデオです。フリー画像を活用して素人でもこんな動画が作れる時代になったんですね。
 映画の予告編みたい、面白そう、そう思って頂ければ嬉しいんですが……
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下弦の月に消えた女

            瞬那浩人

目次
  プロローグ 1 …………………    5
  第一章 失踪人調査 …………    11
  第二章 美魔女 …………………   85
  第三章 昏睡 ……………………   135
  第四章 仮想現実 ……………    157
  第五章 妄想殺人 ……………    231
  第六章 背徳施術 ……………    281
  プロローグ 2 …………………  347

登場人物
 竜崎隼 ………… 私立探偵
 宮沢亜衣 ……… 探偵助手
 小堀和也 ……… 失踪人調査の依頼人
 中西英孝 ……… IT企業ジェレミーの社長
 広瀬智花 ……… IT企業ジェレミーの社員
 中西麻里恵 …… 中西英孝の妻(旧姓 鈴木)
 鈴木俊行 ……… 中西麻里恵の弟
 谷原耕造 ……… 清安真病院の院長
 寺島康夫 ……… 清安真病院の入院患者
 高野史幸 ……… 城雅大学病院の心臓外科医
 竹内亮 ………… 東和医大病院の脳神経科医
 近藤直哉 ……… 殺人犯として逮捕された青年
 近藤明美 ……… 近藤直哉の妹
 本郷直樹 ……… 警視庁捜査一課の刑事
 秋元道代 ……… 秋元優子の祖母
 秋元優子 ……… 消えた女

   プロローグ 1

 完璧なまでに鼻筋の通った横顔。耳介には何の装飾も無かったが、ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を連想させる。そんな印象を与える要素は、鼻梁の形だけではなかった。女の頭部にはターバンのような物が巻かれており、前髪を完全に隠していた。青いターバンではなく、白いターバン。いや、それはターバンではなく、幅広の包帯だった。ベッドの上で仰向けになっている女は、頭部に何らかの疾病を患っているのか、或いは外傷を負っているのか……。
 女の鼻梁に沿って直線の定規でも当てれば、中ほどに生じる僅かの隙間によって、厳密には緩やかな曲線だったことが判別できるだろう。人は加齢と共に鼻先が下がる傾向がある。だから鼻先がアップしている顔は、一般に若々しい印象を与えるものだが、この女に限って言えば、それは当てはまらない。
 包帯が巻かれた頭は、大きな枕で支えられている。枕は白い絹の枕カバーで包まれている。女の後頭部と枕との間からは、何本ものケーブルが伸びていた。ケーブルはこの女の顔には相応しくない毒々しい色だ。赤や青や緑のヴィニールで被覆されている。
 ベッドサイドには、キャスター付きのラックが置かれている。ケーブルの各端子はラックの中ほどに搭載されたコネクターパネルに繋がれている。コネクターパネルの上には表示部、下には各種のスウィッチやダイヤルが並んだ装置がある。そんなラックの横には作業台があり、各種の電子機器やデスクトップタイプのパソコンが置かれている。
 ラックのベッド側の支柱には、金属製のアームスタンドが、ベッドにオーバーハングする形で取り付けられている。女の視線の先、八十センチメートルほどの距離に、アームスタンドに固定されたフラットパネル・ディスプレイがある。しかし、女の目は何処にも焦点が定まっていないように見える。
 睫毛はそれが彼女の意志であるかのように若々しく凛と立っていた。しかし、目元には小さな皺が刻まれている。頬や口元にも皺があった。顎から頸にかけての皺が最も深く見えた。目鼻立ちが整っているだけに、女の顔は、蝋人形館に展示される上品な老婦人の人形を連想させる。
 女が本当に見ているのか解らないディスプレイ。そこから放たれる光を、二つの茶色い瞳は反射している。それはガラス玉に反射する光のように虚無的だった。
 ディスプレイに映された画像は粗いモザイク模様である。女が横たわっているベッドの傍に、一人の男が立って女を見ていた。男はくるりとベッドに背を向けて、作業台のパソコンを操作し始める。パソコンのディスプレイには、女の視線の先にあるディスプレイと同じ映像が映し出された。モノクロームのモザイク模様である。
 男がパソコンのキーボードを操作すると、二つのディスプレイのモザイク模様は同時に動き始めた。その動きは断続的だった。暫くすると、画像の中に、ひときわ明るいオレンジ色のドットがポッと光った。最初は一個だったドットの数が増えてくる。緑色のドットが光った。それでもまだカラー画像と言えるものではない。色の種類は最も多くなった時でも、せいぜい四種類に過ぎない。
 部屋の照度は七十ルクスにも満たない。事務作業が難しいほどの薄暗さであるが、男はディスプレイを見ながらマウスとキーボードを操作している。慎重に手先を動かす。男は白衣を着ていなかったが、真剣な眼差しはマニピュレータを使って内視鏡手術を行う外科医のようにも見える。
 その部屋は薄暗さに相応しく静寂に包まれていた。男は無言で自分の作業に集中している。突然ピッという音がした。男は安堵の表情に変わると、女に向かって言った。
「アクセスできたよ。シナプス5028だ」
 ディスプレイのモザイク模様は次第に細かくなり、色も鮮やかになっていく。
 小学校の運動会だろうか? 白い体操着を着た女の子が画面の中心に映っている。徒競走の順番を待っているようだ。女の子の父親が運動会で撮影したホームヴィデオの映像のようにも見える。
「可愛いなぁ。この時の君の同級生が、僕は羨ましいよ」
 男はディスプレイを見ながら朗らかに言った。なぜか、その目には微かに涙が浮かんでいる。女の視線の先には、確かにディスプレイがあるのだが、女の表情は少しも変わることはなかった。
 画面の中で、徒競走は女の子の順番になった。その子は他の子たちと一緒に立ち上がると、横一列に並び、両腕を前後にして構えた。ピストルの音はしなかったが、女の子たちは一斉に駆け出した。
「がんばれ、がんばれ」
 男はディスプレイを見ながら声援を送る。主役の女の子が一等になると、男は歓声を上げた。
「おおい。すごいなぁ、でも、嘘はいけないよ」
 男は嬉しそうな顔になっていたが、ベッドで仰向けになっている女は、人形のように動かない。男は女の顔を見ている。そのまま数秒が経った。男は目をしょぼしょぼさせた。
「嘘じゃないわよ。あたし、小学校の頃、かけっこは得意だったんだから」
 声が聞こえた。それは年老いた女の声ではなかった。若々しい女の声。
 男は欲しかった玩具をサンタクロースからプレゼントされた子供のような顔になった。しかし、女の顔は依然として固まったままだった。男は女の顔を見ながら、再び泣きそうな顔に戻った。女の声は、彼女の口から出たものではなかった。機械に繋がれた小さなスピーカーから出ていた。
「本当かい……。初めてのデート、覚えている?」
 男は女の顔に向かって言った。数秒が経った。
「ええ、忘れるわけ、ないじゃない」
 女の声がスピーカーから流れた。男の声から遅れていたが、その反応は前の時の反応より僅かながら速くなっている。
「あの時の君ったら、ガーター連発だったじゃない。だから、なんて運動神経が鈍いんだって思っていたんだ」
 また数秒の間を置いてから、
「いやいや」
 それから、女の声はカタカタとした音に変わった。男は笑った。その笑い顔は無理に作っているように見えた。カタカタと聞こえていた音は、決してキュートといえるものではなかったが、女の笑い声だということを、男は知っていた。
 いつの間にか、スピーカーからの音が途絶えていた。
 男は女の顔を見ている。どれくらいの時間が経っただろうか、ポツリと再び声が戻って来た。同じ女の声だったが、積層されたフィルターを通したような濁った音だった。
「でも、本当にいいのかしら?」
 ノイズは女の不安と躊躇いと畏怖を包含していた。
「いいんだ。もう決めたことなんだ。僕には、どうしても君が必要なんだ」
 男は強い口調で言った。
「でも、でも……。あたし、その人に申し訳なくて」
 歪のある音だった。回線の悪い国際電話を通して会話する恋人のように、二人の声にはタイムラグが生じていた。
「君がそんなことを悩む必要はないんだ。君も、ドナーも、二人は死なないんだから」
 スピーカーから声が出ることはなかった。
 ベッドの傍には小さな丸椅子があった。男はそれに座った。より近くで女の顔を見るためである。
「愛しているよ」
 男がそう言った後、ノイズの混じった音が聞こえた。微かに「アイシテイル」という言葉だけが解った。その声を聞いて、男は自分の口を押えた。男はベッドの上でピクリとも動かない女を見つめ、必死に嗚咽を耐えていた。

   第一章  失踪人調査

     1

 無精髭が汚らしい男である。お世辞にも肌のツヤがいいとは言えない。気持ちよさそう鼾をかいている。横長のソファの肘掛けに足を掛けて仰向けになっている。締まりのない口元からは今にも涎が零れそうだ。こんな平和な顔で眠ることができる男は、それだけで充分に幸せだ。
 男が寝ているソファの前には、ガラステーブルがある。天板のガラスに透明感はない。そんなテーブルを挟んで、一人掛けのソファが二脚、横長のソファに向き合う形で置かれている。こちらは両方とも空いている。応接セットを従えるような位置に、一見したところ真新しく見える両袖机がある。大きなマホガニー製の机はゴージャスで、粗末なこの部屋では浮いている。机は窓を背にして置かれている。雑居ビルが連なる景色が見える。その窓ガラスには、鏡文字の白いカッティングシートがデカデカと貼り付けられている。センスがいいとは言えないが、今、部屋に射し込んでいる日の光を邪魔するほどではない。
 プルルルル。事務机の上の固定電話が鳴る。電話の音と鼾の音は暫く張り合っていたが、やがて鼾の音だけが消える。
「アイッ、電話!」
 男は目を開けずに声を上げる。その声に反応する人間はいない。部屋には男が一人いるだけである。男はコキコキと猪首を左右に動かす。鷹揚に右目だけ開けて鼻声で呟く。
Uh-huhアーハッ
 アルバイトが出勤拒否をしているらしいことを思い出す。寝ぼけ眼を擦りながら緩慢に起き上がる。大抵この男が受話器を掴む前に電話は切れてしまうのだが、今日の電話は諦めが悪い。男は口の中でぶつぶつ言って、受話器を取ってやることにした。固定電話のベルは五十三秒間鳴り続けてから止められた。
「はい、竜崎探偵事務所です」
 珍しいことに、この日最初の電話は大家の苦情でも、いかがわしいセールスでも、飲み屋のツケの催促でもなかった。
「相談料は無料です。気軽に相談して下さい。もし費用等で納得できない場合、お客様のご負担は一切かかりませんので」
 竜崎隼りゅうざきしゅんは慣れない努力をする。出来るだけ誠実そうな声を出すという努力である。それが成功したかどうかは、言わぬが花と言うべきだ。電話の相手は要領を得ない話しぶりだった。それでも、仕事の内容が人探しであることは、何とか理解できた。
「ええっと、本日の弊所の予定は……、ああ、お客様、ついていらっしゃいます。本日であれば、今のところずっと空いています」
 竜崎は生産性のない見栄を張ってから、電話を切る。下手な口笛を吹く。来客に備えてソファの前の応接テーブルをテーブルモップで拭く。この男の物差しで最低限の掃除。何とか顧客を招き入れる部屋らしくなると、応接室の隣のキッチンスペースに入る。目の前の流し台を見て、溜息をつく。溜息なんてものは、決して事態を好転させることはないと知っていたが。
 この場所は探偵の職場であると同時に、探偵の自宅でもある。キッチンスペースの流し台には大量の洗い物が溜まっている。探偵はアルバイトのありがたさを痛感する。ちょうど一週間前のことを思い出す。

     *   *

「あれっ、もしかしたら、お客さんかもぉ」
 その声で竜崎は振り返った。語尾だけが微かに艶めかしかった。いつものように宮沢亜衣は窓から外を見ていたが、急に外に出て行った。彼女はコーヒーを淹れる、というその時点における最優先任務を途中で放棄した。所長は文句ひとつ言わず、部下の仕事を引き継いだ。コーヒーを啜っていると、ドアが開き、アルバイトの右手はOKマークを作っていた。
「お待たせしました。どうぞ、お入り下さい」
 髪の毛の中には、小型スピーカーでも埋め込まれているのか、普段は聞くことのない営業用の声が流れた。七十歳くらいの紳士が入って来た。会社を定年退職して悠々自適の生活を送っているという印象。この男が上客になる可能性は充分にあった。しかし、三十分後、竜崎は紳士を怒らせて、帰らせてしまった。
「こらーぁ、シュン。おまえ、お客を選り好みできる身なんかぁ。あたし、今日という今日は、もうアッタマにきた」
 事務所に客がいない時、アルバイトは雇い主を、決して所長とは呼ばず、下の名前で呼ぶ。多くはないが、時に呼び捨てになる。そのことに対して、雇い主がいちいち腹をたてることは、いつしかなくなっていた。給料の支払いが二か月滞っているせいだ。雇い主はアルバイトを年長者に対する敬意を払わない不届き者、と決めつけたが、それを言うタイミングは逸した。バタンと乱暴にドアを閉める大きな音が響いた。

     *   *

 電池が切れた玩具のロボットのように、ぼんやりと流し台を見ていた竜崎だったが、無駄な回想を終えると、洗い物を片付ける、という一大決心を仕方なく下した。何とか電池の出力を上げて手を動かしながら、電話の依頼内容を思い返す。皮算用をしていると、つまらない作業でも早くこなせた。スプーンを使わず、直接インスタントコーヒーの瓶からカップに粉を入れて、コーヒーを淹れる。
 もしこの時、コーヒーを飲んでいる竜崎の顔を、誰かが見ていたとすれば、よほど苦いコーヒーだと思うに違いない。しかしながら実際は、いつものインスタントコーヒーを特別うまく感じていた。この男の気持ちを、その表情から推測することは、時に難しいことがある。
 人探しの電話を受けてから一時間後、竜崎はネクタイを締めていた。カルバン・クラインのストライプ。決して高級品ではないが、馬子にも衣装だ。探偵は応接テーブルを挟んで、スーツのボタンを外し、依頼人と向かい合う。依頼人もスーツ姿だ。一番下のボタンも留めている。探偵の観察眼から得られる、最初のインフォメーションは、スーツがこれほど似合わない男も珍しい、ということだ。それが有益なものであるか否かは別にして、竜崎が他人の服装に関して評価を下すとは、身の程知らずというべきである。
「そんなに緊張しないで。どうぞ」
 竜崎は客の前に置いていたコーヒーを手で示す。スーツの似合わない男は、ぎこちなく頭を下げ、ぎこちなくカップを摘み、ぎこちなく一口啜る。店主は客がカップをテーブルに置くのを見届けてから、おもむろに話を切り出す。
「ええっと、さっきの電話では、連絡が取れなくなった恋人の捜索でしたよね」
 竜崎は「恋人」という部分に妙なアクセントをつけた。時に、そんなことをしてしまう性格なのだ。悪気は……、決してない、とは言えない。
「はぁ、はい……。あっ、あのう……」
 小堀は躊躇いがちに唇を舐めている。
「本当に恋人なんだよね?」
「ほっ、本当です。デッ、デートしたこともあります。喫茶店で」
「そう。失礼。こういった職業柄、人探しは慎重に対処しないといけないんだ。解るだろう。以前あったよね。警察官がストーカーの男に被害者の住所を教えてしまい、女が殺されたっていう、なんとも悲惨な事件が」
「ぼ、僕、ストーカーじゃありません。本当です。信じて下さい」
「解った解った。落ち着いて」
 相手の感情を逆撫でしてから、なだめる必要に迫られるのは、この男のルーティーンだ。
「で、その恋人の名前は?」
「秋元優子と言います」
「何処に住んでいたの?」
「住所は……、知らないんです」
「付き合い始めたのは、最近ってこと?」
「えっ、ええ……、そうです」
「彼女と連絡が取れなくなったのは、いつ?」
「先月の十日を最後に、LINEが消えてしまって」
Uh-huhアーハッ
 竜崎は語尾を上げて相槌を打つ。小堀は身体を硬くする。竜崎は軽く咳払いをする。
「LINEをされていたんだ。それで電話の方は?」
「生憎、電話番号は知らないんです。教えてくれなくて」
「まあ、電話ってやつは突然掛かって来ても困るからなあ。最近はみんなLINEばかりだ」
「はい。そうなんです。優子ちゃんのLINEが消えて、僕、デパートに行ったんです。でも、会えなくて」
「デパート?」
「あっ、優子ちゃんが勤めていた光廣みつひろ百貨店です。でも、やっぱりデパートを辞めてしまっていて」
 竜崎が百貨店の場所を尋ねると、堂羽駅から徒歩十分のところにある店だと言う。この事務所の最寄駅の次が堂羽駅。竜崎は自分の探偵事務所が選ばれた理由に思い至る。窓ガラスに貼られたカッティングシートは、エレガントはなくても、ベネフィットはあった。
「ああ、ちょっと整理させて。ンーン、小堀さんが彼女に会いにデパートに行った八月十一日には、彼女、デパートを辞めていたんだね。退社の正確な日にち、デパートの人に訊いたんじゃない?」
「あっ、そうだ。八月九日って聞きました」
「それで、デパートにおける彼女の仕事は?」
「紳士用品売り場の販売員でした」
「じゃあ、あなたが買い物に行ったデパートで親しくなったの?」
「そうです。優子ちゃん、僕にとっても親切にしてくれて」
 小堀は顔の筋肉をだらしなく緩めた。世の中には、単なる親切をそれ以上の感情として勘違いするやからがいることを、竜崎は知っている。自身のプライドが傷つけられた忌まわしき記憶として……。竜崎は不貞腐れたように唇を曲げて、首を振る。
「あの、何か?」
「いや、気にされなくて結構」
 竜崎は自分の過去を引きずることをやめる。
「ところで、先ほど、やっぱりって、言ってたけど、彼女、デパートを辞める理由があったってことだね。それ、詳しく話して」
「それが詳しいことは解らないんです。でも、以前一度だけ『ここ辞めるかもしれない』って、彼女、言ってました」
「でも、あなた、彼女に辞める理由を訊いたんでしょう?」
「ええ、勿論。そうしたら優子ちゃん、急に慌てて『多分辞めないと思うけど、もしかしたら、もしかしたらよ』って」
「気になるね」
「そうなんです。僕、心配になって『職場でイヤなことでもあったの?』って訊いたんです。だって、最近の若い人で、きつい仕事に耐えられなくなって自殺したって話、時々ニュースになるし」
「それで、秋元さんは?」
「優子ちゃん、『ちがうちがう』って明るく言ってくれたんです……。その後、LINEで僕に約束してくれました」
「仕事を辞めないって?」
「あっ、そうじゃなくて……。もし辞めることになったら、辞める前には教えてくれるって。あれは七月の中頃だったと思います」
「店の従業員にも、彼女のこと、訊いたんでしょ?」
「はい。でも、はぐらかされて、殆ど教えてもらえませんでした」
「最近は個人情報の保護が厳しいからなぁ。それで彼女の住所は解らずじまいなんだね……。ところで、秋元さんの写真、ある?」
 小堀は鞄の中から、一枚の写真を出して、テーブルに置く。
「ちょっと粗いな」
 街を歩く若い女だった。隠し撮りを引き伸ばしたように見える。解像度が悪いが、顔の造形はどちらかといえば美人の部類に入るだろう。尤も竜崎にとって、若い女はたいてい美人の部類に入ってしまう。今より十歳以上若い頃は、そうではなかったが。
「優子ちゃん、写真が嫌いで。撮られるの、すごく嫌がっていて」
「若い女にしては珍しい」
「そうなんです。それでこれ、外で撮ったスナップ写真なんです。だめでしょうか?」
「いや、まぁ、なんとか解るから、大丈夫」
「ああ、よかった」
「ええっと、としはいくつだった?」
「三十五です」
「ほう」
 少し意外に思った竜崎は写真を見返す。小堀は慌てて言う。
「あっ、優子ちゃんのですよね。ごめんなさい。知らないんです」
 好きな異性の年齢を知らないってことがあるのだろうか? 竜崎は決して几帳面な性格ではないつもりだが、過去に付き合った女の年齢に興味を持たなかった、という経験はなかった。
「解った。ところで、警察に捜索願は出してます?」
「いえ。親族とか身内の人間じゃないと出せないのかと思って」
「以前はそうだったけど、今は、恋人とか、勤務先の関係者とか、本人と密接な関係を持つ人なら、受理されるみたいなんだ」
「そうなんですか……。捜索願、出した方がいいんでしょうか?」
「いやいや。小堀さん、今回直接弊所に来られたのは正解。警察ってとこは、書類を作成するのも面倒で、手続きに時間がかかる。それに、なんとか捜索願を受理してもらえても、事件性が認められない限り、真剣に捜索なんてしてくれないからね。警察と違って、私立探偵は小回りが利くから、スピーディに対応できるよ」
「そうですか、良かった」
 視力一・五の探偵には依頼人がカモに見えた。竜崎は秋元優子について更に詳しい情報を得ようと思い、その後も幾つかの質問を続けたが、大した収穫は得られなかった。それで、契約書作成の為の説明に入った。探偵業における業務の適正化に関する法律、所謂探偵業法の第七条には、調査結果を犯罪行為や差別的扱い、その他の違法な行為のために用いない旨の書面を、探偵は依頼者から受けなければならない旨の規定がある。竜崎はこの条文のせいで、仕事を取り損なった経験がある。以前の客は何を思ったのか、「自分のことを犯罪者扱いして」と激怒した。その時、竜崎は世の中には怒りっぽい人間がいることを改めて思い知らされた。カルシウム不足で怒りっぽくなるという話は科学的根拠が曖昧で、疑問の余地が残るとも言われるらしいが、日本人一人当たりの牛乳消費量は、十年以上もずっと落ち続けている。竜崎は毎日牛乳を飲んでいる。
「それで、今回の業務における報酬に関してだけど」
 ここからが最初の難関、つまり、相手の顔色を伺いながら足元を見極めること。あくまでも事務的に規定料金という前提で金額を提示する。それは一流企業のサラリーマンが断らないであろうギリギリの線を狙っていた。
「今回の依頼の場合、被捜索者の生年月日や以前の住所など、基本的な情報量が少ないから、大手の探偵社に依頼したら、相当高額になるんだけどね。うちの場合、こういう設定になっている。良心的な設定でしょう」
 竜崎は自分の良心に恥じないという意味で、良心的という言葉を使ったのだが、かなり疑問の余地がある。依頼人は事務所に入ってきた時よりも硬い表情になった。竜崎はポーカーをしている気分で相手のカードを待つ。
「解りました。よろしくお願いします」
 今回の依頼人は、おとなしい男だった。契約書類を作り終え、竜崎がソファの肘掛けに手をついた時、小堀はソファに深く座り直した。そのため、心持ち浮き上がった竜崎の臀部は再びソファに戻らなければならなかった。半分以上残っていたコーヒーはすっかり冷めて、もう不味かろうと思われるが、客はコーヒーを飲み干した。客が帰ってから、竜崎はテーブルに置かれた一枚の写真をもう一度手にする。秋元優子という女が、本当に小堀和也の恋人であったかどうかは疑わしい。写真の中の優子は、写真を撮られていたことにも気づかなかっただろう。小堀は、街でのスナップ写真と言っていたが、写真を撮られることを嫌っていたというから、明らかに隠し撮りだ。
 竜崎は小堀が残していった名刺を見る。松井電機株式会社、製造技術部とある。クライアントの勤務先は、経済活動に疎いこの男でも知っている中堅の電機メーカーである。まぁ、何れにせよ、大切なお客様であることには変わりがない。竜崎はそう考えることにした。久し振りの仕事である。基本的に怠け者の竜崎だったが、珍しく仕事をする気になっていた。財布の中身がさびしくなっていて、一か月も馴染みのスナック綾に行っていないこと、いや正確には、春奈ママの顔を見ていないことが最大の要因である。
 探偵事務所はビルの最上階である。今どき貴重とも言えるエレヴェーターがない四階建て。メリットは最上階のテナント料が安かったこと。外に出るには毎回階段を使うしかないが、運動になっていいくらいだ。竜崎はポジティヴに考えていた。地上に降りて、きっちり五メートル歩いた時、彼は急に立ち止まった。頭に手をやる。愛用のハンチングを忘れていたことに気づく。
 竜崎の髪の毛は気苦労がないせいかフサフサである。今のところ、薄毛を隠すための帽子を必要としていない。それにも拘わらず、事務所に引き返すことにした。ビルに駆け込み、階段を上っていく。新しい仕事に着手する最初の日だけはハンチングをかぶる。それが、この探偵のルーティーンになっていた。
 一年ほど前のこと。仕事を引き受けた最初の日、頭に大怪我をして救急車で病院に運ばれた。その後、頭に包帯を巻いた状態で退院した。包帯の頭では仕事に差し障りがあるので、その時に帽子を買った。名探偵シャーロック・ホームズみたいなやつ。そんな験担げんかつぎをしている竜崎であるが、決してシャーロッキアンではない。小学校時代にホームズ大好きの友だちがいたが、そんな友だちに対抗して、ルパン派を気取っていた。ルパン三世ではなく、祖父の方。
 シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンは何度か対決している。奇巌城から九千キロメートル以上離れた極東の地で、半ズボンの少年ふたりは子供らしい論戦を繰り広げた。それから三十年以上経った今でも、竜崎は友だちの真剣な主張を覚えている。
『ホームズが誤射なんかするわけないよ。ルパンの妻を死なせたのは、エルロック・ショルメスなんだ。翻訳の南洋一郎が悪いんだ』
 日本の探偵は事務所に戻ると、ポールハンガーに掛けていたハンチングを被る。ウォールミラーに向かってポーズをとる時間は一秒だけ。すぐに外に飛び出す。この男がナルシストではないことは、男の無精髭が証明している。

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