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単発「~たり」禁止教団への抵抗

最近、家族に注意されたりするほどツイッター(アカウントはこちら)を徘徊している。今朝も寝起きにつらつらとタイムラインを眺めていたら、こんなツイートが流れてきた。

(読みは「こずえ」?なら、なぜ(あこ)?)

私もライター(みたいなもの)だし、「全員読むべき」とあるし、ちょっと朝からお勉強するか、なんて殊勝な気分になり、Mitsufumi Obaraさんという方のこのnoteを読んでみた。
ちなみに最後の推薦図書の部分だけ有料だが、記事全体は無料で読める。

さすがに四半世紀近くライター(みたいなもの)をやってるオジサンにとって新発見があったりしたわけではないが、ポイントを押さえた投稿で、商業ライティングに限らず、読みやすい「文章の型」を簡潔にまとめてある。
イマイチ文章がうまく書けない方、一読をお勧めします。お布施もお納めしました。Obaraさん、ありがとうございました。

そのうえで!
私が引っかかったのは、この箇所である。少し引用します(太字は私)。

上記の文章は、編集前のもの。パッと見ただけでも、いくつか直すべき点が見つかります。

・一文が長い(一文に読点は多くても2回の意識が大事)
・不要な「という」がある(「という」がなくても成立する)
・質問と回答に間がある(基本的に「言いたいことから順に」書く)
・「〜たり」と一度しか使っていない(基本的に「〜たり」は2回以上繰り返す場合のみ許される)

そう、「単発『たり』禁止」(Single TARI Ban ,STB)問題である。

鬼の首を取ったように叱られる「単発たり」

STBは「業界」では絶対のルールである。
本業の記者稼業でも、ペンネームでの寄稿でも、うっかりと単発「たり」を放置したりすると、校閲さんから必ずチェックが入る。
時には「たり、は2回以上繰り返す場合しか使えませんので」などと百も承知の説教を食らったりして、校閲さんの(てめえ、何年、この業界で飯食ってんだよ…)という心の声がはっきり聞こえる場合すらある。

私は長い物には巻かれるタイプなので、基本、STBには素直に従っている。
抵抗しないのは、「ご指摘、ごもっとも!」なのが第一だが、STBに賭ける校閲系職人たちの情熱に圧倒されるからでもある。
他の誤りの指摘や文章改善提案と比べて、「これだけは見逃さない」という固い決意が感じられるのだ。
校閲系職人の皆さんは、業界と時空を超え、STBを使命とする教団を組織しているのではなかろうか、と想像したりすることもある。
日本語テキストから単発「たり」が根絶されるまで、信徒に休息の日などないのだ。

タマには「アリ」じゃない?

実は、そんな業界の鉄則STBについて、私は常日頃、疑問を持っている。
目ざとい読者(あるいは教団の一員)なら、この文章には単発「たり」が頻出しているのにお気づきだろう。
読み返すのも面倒だろうから、以下、抜き出します。

①最近、家族に注意されたりするほど
②オジサンにとって新発見があったりしたわけではないが
③うっかりと単発「たり」を放置したりすると、
④百も承知の説教を食らったりして
⑤組織しているのではなかろうか、と想像したりする

1000字ちょい、原稿用紙2枚半ほどで5か所。
STB教団に見つかれば、即刻、磔獄門モノの大罪である。
特に③は「たり」間の距離が近く、確信犯の気配が濃厚だ(ちなみに世間には「確信犯」誤用摘発教団というものも存在する。「すべからく」誤用摘発教団と同類である)。

①と②を直すのは簡単だ。「注意されるほど」、「あったわけではない」とすれば、STBを順守できるし、その方が良い文章になる。
③、④はどうだろう。
③は①、②と同じ「たり」の削除以外に、「2つ以上列挙」という方向で、例えば「放置したり、直すのを後回しにしたり」とする手もある。④も同様に「説教を食らったり、露骨にため息をつかれたり」といった列挙型が選択肢として検討に値する。

①②と③④の違いは何か。
前者は「手癖で『たり』と書いた、練れていない悪文」なのに対して、③④は「複数のシチュエーションがあり得るというニュアンスを『たり』で表現しているが、STBにひっかかる」というのが私の見解だ。
そして、私が教条的なSTBに異議アリなのは、後者のケースのような単発「たり」には、「イロイロあんねん」という幅やニュアンスを残しつつ、列挙を省略して文章をコンパクトにする効果を上げるケースがあるからだ。

③で比較してみよう。

原文)うっかりと単発「たり」を放置したりすると、校閲さんから必ずチェックが入る。
列挙)うっかりと単発「たり」を放置したり、直すのを後回しにしたりすると、校閲さんから必ずチェックが入る。
削除)うっかりと単発「たり」を放置すると、校閲さんから必ずチェックが入る。

私の好みは原文→削除→列挙の順だ。列挙はくどい。削除は面白くない。
原文は、「うっかりと」という文句と、たりたり言ってるバカっぽいリズム感のコンビネーションが校閲さんの叱責の前振りになるという、なかなかナイスな軽薄調の一文だ(と自分で言っていれば世話はない)。

単発「たり」に生存権を

STBでは味が出せない最たる例が⑤である。再掲する。

STB教団を組織しているのではなかろうか、と想像したりすることもある

野暮を承知で少々説明すると。
そもそも、この文は全体が虚構だ。私はこんな「想像」などしない。だから、列挙すべきことなど、ない。
あえて列挙するなら「想像したり、想像しなかったりする」となろうが、くどくて、「俺、ちょっと面白い文章書いてる感」が恥ずかしい。
かといって、「想像することもある」では、うまくない。ウソだし、面白くもない。
つまりこの文の場合、書かれていない「想像しなかったりする」という現実をほのめかすために「たり」が必要だが、その「現実」を列挙してSTBを順守すると文章の質が劣化するのだ。

朝から何を力説しているのか自分でもよく分からなくなってきたが、考えてみれば、話し言葉ではSTBは全く徹底されていない。
飲み会の後「もう一杯、行っちゃったりする?」と誘ったり、選択に迷っているとき「こっちも悪くない、と思ったりして」と言ってみたり、ツキに恵まれなかった一日の終わりに「こんな日もあったりするわな」とこぼしてみたりするのが、人間というものだ。
(ちなみに上の長い一文は、STBを順守しつつ単発「たり」の文例を列挙するというトリッキーなメタ構造を持っている…。どうでもいいですね)

STB教団の皆さん。
「たり」の大半、おそらく95%以上は、直した方が良いのは同意します。
でも、例外もあると思うのです。
ネタ元のnoteでObaraさんも「基本的に」と枕詞をつけておられます。
単発「たり」を見つけても、脊髄反射で「書いたヤツ、死ねよ」とか思わず、文章を読み返してみてはいかがでしょうか。
100回に1回くらいは、「これはこれでアリかも」と思ったりするかもしれない…と愚考するのですが、まあ、無駄な抵抗でしょうな…。

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