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言葉を惜しむからこそ、語れること

アゴタ・クリストフの『悪童日記』を再読している。この30年、何度読み返したか分からない私のオールタイムベストのひとつだ。

この作品がなぜこれほど自分に響くのか、理由のひとつははっきりしている。
文体の「縛り」だ。

「縛り」が生む力

主人公である双子の日記という形式をとるこの小説は、独特の文体で綴られる。それは双子の少年たちの「作文のルール」でもある。

ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は事実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。
(中略)
感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。

『悪童日記』(ハヤカワepi文庫版)アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳

描写のみの乾いた単文の積み重ねと掌編をつなげる構成によって、読み手は「双子の作文」のリズムに引きずり込まれる。
そして、このほぼ事象の描写のみによる小説が人間の本性を抉り出す離れ業に息をのむ。

『悪童日記』の文体の本質は冒頭近くの「精神を鍛える」で明らかになる。
「ぼくら」は一緒に暮らす「おばあちゃん」や町の人々から「牝犬の子」「魔女の子」「淫売の子」など罵詈雑言を浴び、そのたびに動揺する。
そんな言葉を無力化するため、双子は「言葉に鈍感になる訓練」を重ねる。互いに日々罵り合い、どんな言葉にも動じないようになる。

だが、それでも乗り越えられない言葉が残る。
離れ離れになっている母の、愛にあふれた過去の言葉だ。

しかし、以前に聞いて、記憶に残っている言葉もある。
おかあさんは、ぼくらに言ったものだ。
「私の愛しい子! 最愛の子! 私の秘蔵っ子! 私の大切な、可愛い赤ちゃん!」
これらの言葉を思い出すと、ぼくらの目には涙があふれる。
これらの言葉を、ぼくらは忘れなくてはならない。なぜなら、今では誰一人、同じたぐいの言葉をかけてはくれないし、それに、これらの言葉の思い出は切なすぎて、この先、とうてい胸には秘めていけないからだ。
そこでぼくらは、また別のやり方で、練習を再開する。
ぼくらは言う。
「私の愛しい子! 最愛の子! 大好きよ……けっして離れないわ……かけがえのない私の子……永遠に……私の人生のすべて……」
いく度も繰り返されて、言葉は少しずつ意味を失い、言葉がもたらす痛みも和らぐ。

『悪童日記』(ハヤカワepi文庫版)アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳

言葉はすり減る

私がその高風を欽慕してやまない山本夏彦にこんな名言がある。

言葉は乱用されると、内容を失う。敗戦このかた、平和と民主主義については言われすぎた。おかげで内容を失った。

『茶の間の正義』山本夏彦

保守の論客らしい一刀両断の評価の是非はひとまず置こう。
夏彦翁の「乱用」と『悪童日記』の双子の訓練には通じるものがある。

言葉は、使われすぎるとすり減るのだ。

まともな小説家は、紋切型の慣用句や比喩を避ける。
それは筆力を誇示するためではなく、そうした言葉は使われすぎて、もうすり減っているからだ。

では、新奇な、誰も書いたことも読んだこともない鮮烈な語彙や表現だけが「書くこと」の柱になるのだろうか。
そんなわけはない。
夏彦翁は「尋常な言葉、耳で聞いて分かる言葉しか用いない」と語った。
『悪童日記』の文体も、事実のみを淡々と記述する素っ気ないものだ。

むしろシンプルな文体、特異でない語彙、まっすぐな構成を用いているのに、いや、そうして「言葉を惜しんでいる」からこそ、言葉を尽くしても語りえないものを伝える力が文章に宿るのだと私は思う。

最近の書き手では、フェルディナント・フォン・シーラッハがそんな稀有な存在だ。
デビュー作の『犯罪』から『罪悪』『刑罰』まで、一切の緩みがない、恐ろしい切れ味の文章で「語りえないもの」を描く。

シーラッハの根幹は、上記のnoteで触れた『罪悪』に収録した「ふるさと祭り」と『刑罰』の「友人」の2編ではないかと私は考えている。前者は弁護士という因果な商売が負う業を自覚した若者の成熟、後者は誰もが陥り得る孤独や虚無を描く。この2編はシーラッハの実体験ではないだろうか。

そうしたもの、本当に大事なことを書くためには、言葉を惜しまなければいけないのだ。
シーラッハのどの短編を読んでも、饒舌であっては語れないものを書くため、極限まで言葉をそぎ落としている姿が浮かぶ。
私の勝手な妄想かもしれないが。

何にもまして重要なことは

悪童日記と同じように繰り返し読む愛読書のひとつが、スティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』だ。

何度も再読する同じような愛読者なら、もっとも印象的な場面は「雌鹿との遭遇」ではないだろうか。
少年たちが森で一夜を明かし、一人だけ早起きした語り手のゴーディが線路近くで鹿に出会うあのシーンだ。

この場面はストーリーの流れには無関係で、不必要にも見える。

だが、作中でゴーディは「雌鹿との出会いは、わたしにとってあのときの小旅行での最高の部分であり、いちばんすがすがしい部分なのだ」と位置付ける。
その後の人生の困難な場面、ベトナム出征時や我が子に先天性の障害があるかもしれないと宣告されたとき、母親の臨終間際、そんなときに自分は「あの瞬間」に立ち返ってきたと語る。

雌鹿のことをみんなに話そうと喉まで出かかったが、結局、わたしは話さなかった。あれはわたしひとりの胸におさめておくべきことなのだ。今の今まで、この話は人にしゃべったこともないし、書いたこともなかった。こうして書いてしまうと、たいしたことではなかったような、取るに足りないつまらないことだったような、そんな気がしていることも書いておくべきだろう。
(中略)
なににもまして重要だということは、口に出して言うのがきわめてむずかしい。なぜなら、ことばがたいせつなものを縮小してしまうからだ。おのれの人生の中のよりよきものを、他人にたいせつにしてもらうのは、むずかしい。

『スタンド・バイ・ミー』(新潮文庫)スティーブン・キング 山田順子訳

なぜ書くのか

私はどちらかといえば説明過多、饒舌にすぎる人間だ。
伝わっているのか不安で、必要以上の言葉を重ねてしまう。そうすることで、かえって大事なものが零れ落ちてしまうと分かっているのに。
せめて「言葉を惜しむ」というテーマのこの文章では、悪癖を避けよう。

『スタンド・バイ・ミー』には成長して作家になった語り手のエピソード、キング自身の体験とおぼしき下りがいくつか挿入される。
作品のヒットを祝して担当編集者のキースにニューヨークに招待された作家は、見たくもないものを目にした後、こう語る。

本当はこうも言いたかった。人がものを書くたったひとつの理由は、過去を理解し、死すべき運命に対し覚悟を決めるためなのだ。だからこそ、作品の中の動詞は過去形が使われている。わがよき相棒のキースよ、百万部売れているペーパーバックでさえそうなのだ。この世で有効な芸術形式は、宗教と、ものを書くこと、この二つしかないのだ、と。
ご推察のとおり、その夜、わたしはしたたかに酒を飲んだ。
そしてキースにはこう言っただけだった。”ちょっと他のことを考えていたんだ。それだけのことだよ”。なににもまして重要なことは、なににもまして口に出して言いがたいものだ。

『スタンド・バイ・ミー』(新潮文庫)スティーブン・キング 山田順子訳

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