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地球儀から考える新冷戦 『13歳からの地政学』

最後に地球儀をじっくり見たのがいつだったか、覚えているだろうか。

私はといえば、リビングに転がる「ほぼ日のアースボール」のビーチボール版で遊ぶことはあっても、「じっくり見る」ということあまりなかった。

先日、少し空気が抜け気味だった地球儀に息を吹き込み、久しぶりに時間をかけて眺めまわした。
きっかけはロシアによるウクライナ侵攻と、田中孝幸さんのデビュー作『13歳からの地政学』を読んだことだった。

田中さんはモスクワ駐在を含む国際報道のベテラン記者だ。外交・安全保障分野のプロであり、苦楽というか、主に「苦」をともにした友人でもある。
本業でソリッドな文体を貫く硬派の田中さんが、こんなライトタッチの素敵な読み物を書くとは、失礼ながら、ギャップに少なからず驚いた。

さっそく読んで、本書には拙著『おカネの教室』と3つの共通点があると感じた。
ひとつは少年と少女が「怪しげなその道のプロ」から講義をうける構成。
もうひとつは平易にみえる文章のなかに本質に切り込む「刃」が潜んでいること。
3つめの共通点は、この文章の最後で触れたい。

まず、いくつか「刃」を引用してみよう。いずれも元軍人あるいは情報機関関係者と思しき講師役の「カイゾク」のセリフだ。

「情報というのは集めすぎると、それは持っていないことに近くなっていく」(p36)
「領土というのは、ぼーっとしていたら取られるというのが世界の常識だ」
(p73)
「一番大事なのは口も利きたくないほどいやな敵を作らないことだ」(p83)
「民主主義の利点は、暴動やギロチンがなくてもリーダーを代えられるということにつきる」(p112)
「すべての平和はバランスから生まれる」(p127)

『13歳からの地政学』(田中孝幸)

こんな「刃」が柔らかいストーリーの中からひょいっと飛び出してきて、ドキッとさせられる。
もっと「刺さる刃」がいくつもあるし、上の例も前後の流れに置いて読めば切れ味が増す。あとは読んでのお楽しみ、としておこう。

地球儀から見る

副題に『カイゾクとの地球儀航海』とあるように、高校一年生の大樹(だいき)と中1の妹・杏(あん)は、地球儀を眺めながら町のアンティークショップの店主「カイゾク」から講義を受ける。
「カイゾク」は7日間の講義の後でひとつの問題を出すと宣言する。正答できた兄妹のどちらかが、賞品として地球儀をもらえるという筋立てだ。
賞品は、ただの地球儀ではない。
大樹がショップのウインドウで一目ぼれした「ディプロマット」だ。

http://www.globe-shop.net/new_globe/diplomat/dip.htmより

この地球儀の王様は、80センチ大の画像のタイプだと160万~200万円程度が相場の「お宝」だ。
兄妹どちらが「ディプロマット」を手に入れるのか。
決着も、読んでのお楽しみとしておこう。

軽いタッチの会話形式でありながら、『13歳からの地政学』は地政学の骨太なエッセンスに満ちている。秀逸なのはその入り口として、「地球儀から世界を見る」という発想・意識を採用していることだ。

我々は今、ロシアの侵攻によるウクライナ情勢の悪化によって、連日、見慣れない黒海周辺の地域の詳細な地図を、嫌というほど目にしている。
多くの場合、クローズアップレンズは頼りになる。
だが、地図には弱点がある。「切り取り」と「ひずみ」だ。

総務省のサイトより

見慣れたメルカトル図法の世界地図が赤道から離れるほどゆがみが大きくなるのはご存知の通りだ。
地球儀なら「ひずみ」が消えて視界はより正確でクリアになる。

ほぼ日アースボール

黒海に張り出すクリミア半島はロシアにとって地中海へ通じる出口だ。
ウクライナと黒海を挟んだ位置にはNATO加盟国トルコが、黒海東岸には親欧・反ロのジョージア(旧グルジア)がある。ウクライナが戦略上、極めて重要な位置にあるのは明白だ。

これくらいは普通の地図でも読み取れる。
しかし、それでも地図と地球儀には「手触り」に大きな差がある。
地図は、「面」である以上、どこかを中心に一定の範囲を切り取ったものにとどまるからだ。
一方、球には「中心」はなく、「面」として閉じてはいるものの、境界もない。
地球儀、特に軸が固定されていないタイプの地球儀は手に取って自由に視点を変えられる。
地球上のどの地点からでも、「そこから見る風景」を感じ取れる。

新冷戦で欧州が遠くなる?

論より証拠。ちょっとしたツアーにお付き合いいただこう。

ほぼ日アースボール

これは太平洋の南寄り、クック諸島やタヒチから見える「風景」だ。
見渡す限りの広大な海と小さな島々しかない。
「地表の7割は海で陸地は3割」という知識は誰でも持っている。
だが、地球儀で「ほとんど海しか見えない」風景に立てば、それを疑似体験として実感できる。地図は国や陸地を中心に置きがちだが、実際に手に取ってみれば、地球は「海ばっかり」だ。

『13歳からの地政学』でも繰り返し説かれるように、海洋支配は覇権国家の条件であり、ロシアや中国の行動原理を理解するカギでもある。
海洋国家の歴史と地政学を深く知りたい方はこちらもオススメしたい。少々値が張るが、フルカラーの図版が豊富で何度も読み返せる良書だ。

さて、さきほどの「見渡す限り海」というポリネシアから、「地球4分の1周分」ほど視点を北にうつすと、風景はこう変わる。

ほぼ日アースボール

まだまだ「世界の半分以上は海」だが、ユーラシア大陸の東端が視野に入り、きな臭い空気が漂ってくる。
「ロシアの視点」でこの風景を見れば、オホーツク海から太平洋への出口に千島列島は位置する。ここを掌握しておくことの重要性は明白だろう。
「極度の政治的混乱か国家破綻に近い状態にならない限り、ロシアは北方領土を手放さない」が私の長年の持論だ。「べき論」は別にして、それが現実なのは、もう少し地球儀を北西に回せばはっきり見えてくる。

ほぼ日アースボール

通常の世界地図では、ロシアの北岸は広大な海域に見える。だが、実際は海岸線は北極海を囲む曲線を描いている。
「不凍港を求めてロシアが南下を志向する」は世界史・地政学を動かす基本的な力学だ。この極北の「風景」に立てば、ロシアの渇望が腹に落ちるだろう。

新冷戦到来の衝撃も地球儀から実感できる。
現状、東京・ロンドン間は直通で11時間程度。ロシアの上空を通る最短ルートが使えるのは、冷戦終結がもたらした「平和の配当」だ。
地球儀上のロシアはメルカトル図法の地図よりやや小さいのだが、むしろ「等身大でこの大きさなのか」と改めて驚く。

ほぼ日のアースボール

もし冷戦期に逆戻りするなら、世界最大の国土をもつ国を迂回する形で、ロンドンへのルートはこう変わる。

東京からアンカレッジまで7時間半、そこからロンドンまでさらに9時間半。片道11時間から17時間へロンドンは「遠くなる」。地球儀を指でなぞってみれば肌感覚でわかる。

米国と欧州の近さも、日本で一般的な太平洋中心の世界地図を見慣れていると見落としがちだ。特に南米・アフリカ間では大西洋は意外なほど狭い。

ほぼ日のアースボール

「中国の視点」に立ってみる

新冷戦のもうひとつの主要プレーヤー、中国の「視界」もおさえておこう。

ほぼ日のアースボール

国土の広大さに比べて海岸線は短く、領海は狭い。沖縄、台湾、フィリピンに包囲され、南側にはベトナムがせり出している。
地球儀の向きを変えて「中国の上」から太平洋に目を向ければ、「台湾を突破口として、南シナ海を勢力下に置く」という戦略が自然に浮かぶ。

お断りしておくが、私は中国の覇権主義は容認しないし、台湾の独立を支持し、南シナ海への進出を強く非難する。
そうした信条とは別に「中国の視点と内在的論理を理解しておく」のが地政学の基本だ。

最後に日本にも目を向けてみよう。

ほぼ日のアースボール

日本人は自国を「小さな島国」などと卑下することが多いが、地球儀の上の存在感は、世界地図よりずっと大きい。海域も中国よりはるかに広い。
日本は地政学上、大国であり、歴史上「植民地を持った側」になった数少ない国のひとつであることは、常に頭に置いておくべきだろう。

浮世のルール

『13歳からの地政学』はロシアのウクライナ侵攻を深掘りした本ではない。それでもこの本は、今こそ読まれるべき一冊だろう。
そう思う理由が拙著『おカネの教室』との3つ目の共通点、「普遍的な世界の仕組み」を若い世代に伝えたいという執筆動機だ。

少々手前味噌になるが、もうすぐ発刊4年となる『おカネの教室』は、コロナ禍で世界が一変した今でも、古くなってはいないと自負する。作品に普遍性があるからだ。
なぜ我々の経済が今のような形になったのか。それが世界と一人ひとりの人生にどんな意味があるのか。何が市場経済の病巣なのか。
今後も拙著がこうした問いに向き合う手がかりになれば幸いだ。

『13歳からの地政学』で田中さんが伝えようとしているのも、国民国家という枠組みが成立して以降、数百年にわたって続くパワーゲームのエッセンスだ。
地理的な位置がその国の運命をどう左右するか。
多くの多民族国家でマイノリティがなぜ弾圧されるのか。
なぜアフリカは貧困から抜け出せないのか。
国や民族の壁を超えた相互理解に何が必要なのか。
そんな難問を考えるための軸、ヒントを本書は与えてくれる。

生まれてちょうど半世紀、記者になって四半世紀の私も、かつてないほどの視界の悪さを感じている。
そんな先が見えない時代に世界を少しでもクリアに理解しようと思えば、「浮世のルール」を学ぶのに、早すぎることも、遅すぎることもない。
経済と外交・安全保障は不可分のものだ。
勝手ながら、拙著と田中さんのデビュー作は、互いを補完するような関係にあるように感じている。

少々暗い話になったので、最後に地球儀のちょっとポジティブな使い方を紹介しておこう。

まず、一通り、ゆっくりと地球儀を眺めて、世界は広い、と感じる。
その後で、手を伸ばし、視線より少し低い位置に地球儀をもってくる。

ほぼ日のアースボール

最後に「心の目」を使う。

NASA Visible Earthより

It’s only when you’re flying above it that you realize how incredible the Earth really is.
――Philippe Perrin
その上を飛んでいるときだけ、地球が本当にどれだけ素晴らしいかを実感できる。
――フィリップ・ペリン(宇宙飛行士)

AllGreatQuotesより

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ご愛読ありがとうございます。
田中さんのご著書のリンクを再掲します。

ふたりの共通の友人の古川英治さんのご著書のレビューはこちら。
ロシアと中国の仕掛ける情報戦の「前線」を追った迫真のルポです。

異色の経済青春小説「おカネの教室」もよろしくお願いします。




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