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大橋先輩に思いっきりバスケをやってほしかった 「奇跡の学年」の天才補欠物語

noteを開いたら「部活の思い出」というお題が出ていたので、以前から書き残しておきたいと思っていたことを書いてみる。

このマンガコラムに書いたように、私は小学校からバスケ小僧だった。

一番熱心にバスケに取り組んだのは高校時代だ。
ほとんど毎日チャリンコで20分ほど爆走して早朝のシュート自主練に励み、授業が終わればがっつり部活。
夏休みと冬休みも、泊まりこそなかったが、合宿的な特訓で汗を流した。
弱小チームだったけど、ひたすらバスケが楽しくて、楽しくて、仕方なかった。

マンガのような「奇跡の学年」

今もそうだろうが、1990年代の愛知県では高校バスケの強豪は私立校ばかりだった。
当時、最強だったのはインターハイの常連、愛工大名電。
これに「テック」こと東海工業(現・愛知産業大学工業高校)、中京高校、名古屋第一(現・中部大学第一高等学校)、名古屋大谷などが続いていた。
中途半端な県立進学校の我が母校が食い込む余地などなかった。

はずなのだが。
私の1つ上の学年はマンガみたいな「奇跡の学年」で、有力選手が偶然集まり、強豪私立とギリギリ渡り合えるほど強かった。
当時、名古屋には学校群という鬼畜な受験制度があった。
2つの高校のペア(群)を受験して、強制的にどちらかに振り分けるというシステムで、要は高校受験が「丁半ばくち」だったのだ。私も志望校と違う方に放り込まれた口であった。
そんな仕組みなのに、一つ上の先輩のレギュラー5人はこんなメンツが集結していた。

・杉本さん=センター・フォワード、一応キャプテン
身長180センチ強のオールラウンダー。マジック・ジョンソンの猿真似のトリッキーなプレーでチームメートを苛立たせるのが玉に瑕。

・中村さん=センター

身長185センチながらギリギリでダンクができちゃう化け物。ポストプレーも速攻もこなす。たまにゲーム中にゴリラのように絶叫する。

・山下さん=スモールフォワード

身長175センチなのにリングがつかめる驚異のジャンプ力。カットインとスリーポイントが得意技。ニックネームは「キヨシ」。「山下」だから。

・安江さん=ガード

身長170センチ。猫背気味の低いドリブルと鋭いパスが武器のゲームメーカー。ちょいヤンキーでパンチ気味のパーマがトレードマーク。

・竹市さん=ガード

身長170センチ。無限の体力とフロアをかっ飛ばす走力で速攻をリード。ディフェンスがえぐい。普段は一番冷静なのに、キレると一番怖い。

このうち誰か一人が欠けていても「奇跡の学年」にはなりえなかっただろう。バスケ部の顧問が「振り分け」を操作したという疑惑がささやかれるほどの顔ぶれだった。
センターの控え選手は、「そんな身長で歌ってんじゃねーよ!」と強引にバスケ部に引き込まれた元合唱部の岩田さん(通称ガンちゃん)。バスケ歴はなく、リバウンダーに徹する心優しいビッグマンだった。

この先輩たちは最終シーズンに県大会4位という快挙を成し遂げた。
事情をご存知なら、これがどれほどの奇跡か分かるだろう。サッカー天皇杯のベスト4に学生チームが残っちゃったぐらいの、ありえない達成だった。

忘れられないのが県大会の表彰式だ。
「第4位、愛知県立……」
までアナウンスが流れたところで、私立強豪校の選手がずらりと整列する体育館に、ざわめきと笑い声が広がった。「おいおい、なんで『県立』がベスト4入りしてんだよ!」という驚嘆の反応だった。

このチームで、一学年下だった私は控えのガード・フォワードとしてベンチ入りしていた。選手層が激薄なので、ガード・フォワード陣がベンチで一息入れる間を「つなぐ」のが役割だった。出場時間はせいぜい一試合10分だから、ひたすら走って技術不足を補った。

でも本当は、私の出番などなかったはずなのだ。

「干された」名手

一つ上の学年には、大橋さんという先輩がいた。身長は170センチほどでポジションはガード。
大橋先輩は「中の中」レベルの私より、はるかにバスケがうまかった。
レギュラー陣を含めても一番、バスケセンスがあったと思う。
ゲームメークは的確で、キープ力があってシュート成功率も高く、ディフェンスの裏をかくアシストが持ち味だった。

一番印象に残っているはフェイントのうまさだ。
あらゆるシチュエーションで繰り出すフェイクがどれも絶妙で、マークにつくと振り回されっぱなしになる。
180センチ超えのセンター2人が相手でもポストプレーでいい勝負をしてしまうのには驚いた。フェイクとステップワークで魔法のようにマークをかわしてしまうのだ。
私が直接接した中でもフェイントだけなら屈指のプレイヤーだった。

でも、大橋先輩は、試合ではまったく出場機会がない「万年補欠」だった。
記憶にある限り、練習試合でも大会でも、ほぼ出場時間はゼロだった。
バカな顧問に嫌われていたからだ。
理由はよく分からない。私たちが入部したときにはすでに亀裂は決定的なものになっていたようだ。

大橋先輩は、軽いパーマが入ったチャラい髪型のファニーフェイスで、いつもニヤけ気味で飄々としていて、意表を突くプレーにもどこかユーモアがあった。
後輩にとっては面白くて親しみの持てる先輩だったが、バスケ観が古くてアタマの固い顧問には「ふざけたヤツ」と映ったのかもしれない。
ちなみに顧問は、この投稿で書いた、高校時代に私に唯一ビンタをかました男だ。

リンクを開くのは面倒だろうから、当該箇所だけ引く。

私が(恐らく)人生最後のビンタを喰らったのは高校3年生のときだ。これは、今思いだしてもハラワタが煮えくり返るほど理不尽な一発だった。

私は小学校から高校までバスケ部で通したのだが、高校時代の顧問とは決定的に反りが合わなかった。好き嫌いで選手を起用し、ろくにスキルもないのに持論を押し付ける、ありがちだけども最悪のタイプの指導者だった。

一度、練習中に「気合が入っていない」と謎のイチャモンを付けられ、「うさぎ跳びで体育館を10往復しろ」と指示された。
私が「うさぎ跳びは膝や腰の故障の原因になるのは今や常識だろう。体育教師なのに、そんなことも知らないのか」と反論すると、「やる気がないなら帰れ!」と言う。「はい」とそのまま帰宅した。素直だなぁ。

その後、1カ月ほどバスケ部には顔を出さなかった。友人の家でゲーム三昧の日々で、それも悪くなかったのだが、私がチームの主力の一角だったこともあり、向こうから「そろそろ戻る気はないか」と折れてきた。

このアホな顧問に、私は引退試合の後、ビンタを喰らった。高校時代に受けた、唯一の体罰だった。
それは、県内屈指の強豪との試合に負けた後、会場内の階段付近に集まって円陣を組んでいたときに起きた。
顧問があーだこーだと訓示めいたことをしゃべっている間、私は後列の方にいた。ロクに聞いてはいなかったものの、ちゃんと顔は顧問の方に向けていた。
そこへ2階から降りてきた20人ほどの他チームの生徒が通りかかった。
アホ顧問が場所を選ばなかったせいで、私たちのチームのボールバックや荷物が通行の妨げになっていた。
「あ、すいません」。後列で一番荷物に近かったので、私はさっとチームメートの荷物を持ち上げて脇にどかそうとした。
そのときだった。

バチーン!

左斜め後方の死角から、耳裏あたりに飛んできた強烈な一発で殴り倒された。
一瞬、何が起きたか分からなかった。

「貴様!!よそ見せず、話を聞け!!」

コイツか。
このバカが、俺を殴ったのか。

「荷物が邪魔だからどかしてただけだろうが!」
「口答えするな!」

バカ顧問がまた手を振り上げた。
このとき、私はあまりの理不尽に完全に逆上し、バカ顧問の追撃をよけたら殴り返してやるつもりだった。ヒルビリーな時代でも教師に手をあげようなどと思ったことがなかった私が、である。
そのとき、2人の間にキャプテンのHが割って入った。

「高井っちゃん、わかったって!おい、バッグ、こっちに寄せろ!」

私を制止しながら、後輩に荷物の移動を支持するHを見ているうちに私は冷静になった。
「こんなバカ、殴るにも値しないわ」
私はこのアホとは、口をきかないだけでなく、二度と目を合わせることすらしなかった。

故人のことを悪く言うのは私の好むところではないが、この顧問は控えめに言ってもクソだった。
好き嫌いで選手を起用し、ろくにスキルもないのに持論を押し付ける。
ありがちだが、最悪のタイプの指導者だった。

大橋先輩は、このバカの最大の犠牲者だった。

「大橋の分も走れ!」

試合中、ベンチ脇で立って応援している私にクソ顧問が声をかける。

「高井! ヤスと交代だ! ウォームアップしろ!」

私だって、試合に出られるのは、もちろん嬉しかった。
でも、同時にいつも後ろめたさを感じていた。

はるかにうまい大橋先輩を差し置いて、自分が出ていいのか?

でも、それを口に出すわけには、チラリとでも顔に出すわけにはいかない。一番悔しいのは大橋先輩なのだ。

一度、試合中にルーズボールを追いかけている途中で、私が諦めて足を止めたことがあった。
すぐさまベンチにいた竹市さんの怒号が飛んだ。

「高井、バカ野郎! お前が走らなくて、どうするんだ!」

先輩にはそんな気持ちはなかったかもしれない。
でも、私の耳には「大橋の代わりに出てるのに120%の全力プレーをしないのは許さない」という叱咤に響いた。
ハンマーで頭をぶっ叩かれたような気分だった。

(そうだ、俺は大橋先輩の分も走るんだ。走らなきゃいけないんだ)

それからは、短い出場の間、一瞬たりとも気を抜かずに動き続けた。レギュラー陣より一段も二段も格下だった私は、そもそも運動量でカバーするしかなかったのだ。

「大丈夫だから、自信もって行け!」

そして先輩たちが最後に参加した県大会。
準決勝の相手はテック、東海工業だった。
190センチ前後のセンターが2枚いて、他の選手も全国大会レベル。ベンチ入りできない数十人の応援団が2階のバルコニーに並んでいた。

(さすがにレベルが違うな……)
試合が始まると、じわじわ点差が広がっていった。
それを見ながら、私はベンチでビビっていた。
敵のガード陣のディフェンスがえげつなくて、自分が入ってもボールキープすら満足にできる気がしなかったからだ。

「高井! ウォームアップしておけ!」

クソ顧問の声で心臓が跳ね上がった。
ジャージを脱ぎ、ベンチの脇で準備運動を始める。
手が震え、膝が笑う。顔も真っ青だっただろうと思う。
その時、誰かが震える私の肩を強くつかんだ。

「高井!!」

大橋先輩だった。

「お前なら大丈夫だから、自信もっていけ!!」

この大会が終われば先輩たちは引退だ。
県大会準決勝という、弱小県立高校としては最高の舞台に、ピカイチのバスケセンスを持った大橋先輩は上がれない。
顧問と反りが合わないという、そんなくだらない理由で。
なのに、大橋先輩は、代わりにコートに出ていく力不足の後輩がブルっているのに気付いて、エールを飛ばしてくれたのだった。

当時、彼は16歳か、17歳だったはずだ。
そんな高校生に、どうしてこんな振る舞いができたのだろう。
あるいは、そんな人の心の揺れや機微を読みとる力が、絶妙のフェイクのバックボーンだったのかもしれない。

その後の試合の展開や、自分がどんなプレーをしたのかは、全く覚えていない。
でも、この時の大橋先輩の声と表情はくっきりと記憶に刻まれている。

最後の出場

準決勝で敗れ、我がチームは三位決定戦に回った。対戦相手がどの高校だったかは思い出せない。
唯一、覚えているのは、敗色濃厚になった後半になって、ようやくクソ顧問が大橋先輩を試合に投入したことだ。
「せめて引退試合ぐらいは」と後ろめたさを感じたのだろうか。
それならなぜ、強豪テックを相手にした、緊迫感あふれる準決勝で起用しなかったのか。

今でも、ジャージを脱ぎ棄てて、ユニフォームをパンツにたくし込む大橋先輩の姿が目に浮かぶ。
大橋先輩にとって、私が入部して以来、最初で最後の出場だった。
練習ではプレー中でも口元に笑みを残し、冗談ばかり飛ばしていた大橋先輩が、緊張した面持ちでコートに入って行った。
迎え入れる先輩たちが大橋先輩の肩を叩く。
コートサイドの後輩たちは「行け行け、オオハシ! 押せ押せ、オオハシ」と声を張り上げた。

ゲームはそこそこの点差を付けられて我が母校の敗北に終わった。
「奇跡の学年」はシード権を残してくれたが、奇跡も何もない私たちの学年は早々にそれを失い、我が母校は弱小チームに逆戻りした。

バスケ少年・少女の夢を摘まないで

私が在籍していた当時、顧問はちょうど今の私と同じくらい、40代半ばか後半ぐらいの年齢だったはずだ。
そんないい大人が、一人のバスケ少年の高校時代を潰したのを、私は今でも許せない。

私自身、NBAの観戦からヒントを得て試したプレーを何度も「おかしなことをやるな」と顧問に禁止された。
例えば「ドリブルの切り返しから、ステップバックしてスリーポイントシュートを打つ」といったプレーは「邪道」と切り捨てられた。敬愛するデトロイト・ピストンズのジョー・デューマースを参考に、何百回と練習して身に着けたプレーだったのに。

高校を卒業してもうすぐ30年になる。
バスケを取り巻く環境はあれから大きく変わった。
NBAやBリーグからヒントを得たプレーを、今では中学生でも当然のようにこなす。YouTubeには個人のテクニックやチームの戦略の参考になる画像が大量にある。

バスケは自由で創造性の高い競技であり、最新のプレーを吸収した若い世代が前の世代を乗り越えて進化してきた。
Bリーグの盛り上がりや日本人NBA選手の活躍で、バスケ少年・バスケ少女の数は増えているのだろうと思う。
指導者の皆さんは、どうか、若者の夢と自由なプレーの芽を摘まないでほしい。

大橋先輩に、思いっきりバスケをやってほしかった。

30年経った今でも、ときどき悔しさが蘇る元バスケ小僧からの願いだ。

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