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ミラノビッチ 二つの資本主義の競争 B. Milanovic, ProMarket, Sept.2019

Branko Milanovic, With the US and China , Two Types Capitalism Are Competing With Each Other, ProMarket, Sept. 25, 2019   抄訳 

(解題)ミラノビッチの中国を資本主義の一つタイプとして位置付けるこの論稿は、そしてそれが欧米型の資本主義とまさに競争関係にあるとの指摘は、中国をあくまで社会主義の類型とみたり、あるいは、資本主義とは異なる権威主義国家とみたりする従来の議論とは異なっている。中国は資本主義だが、西欧とは異なったタイプの資本主義だというのである。ミラノビッチは資本主義は民主主義と不分離だという通説をも覆す。民主主義がない資本主義の見本が中国だというのである。中国では、自由な賃労働を用いて、資本制生産がおこなわれている。しかしそこには民主主義がない。ミラノビッチの議論は、いろんな意味でこれまでの議論を突き抜けている。また自分たちは社会主義国であるという中国政府の公式見解をも完全に覆している。
    なお以下で中国は資本主義だというときに、「法的に自由な労働」だけが強調されているようにも読めるが、Branko Milanovic  on  Capitalism, Alone Econlib May 11, 2020 ではもう少し丁寧に説明している。自分の定義はMax Weberによるものだとして、法的に自由な労働のほかに、分散化された協調decentralized coordination、さらに資本家が私的に所有された資本を用いて利潤原理で経営者機能を果たしていること、の2点を中国を資本主義とする理由に加え、計3点を挙げている。

(見出し)資本主義の地球上の勝利は、西欧において発展した自由でエリート主義的資本主義と、中国により例示される国家主導の権威主義的資本主義という二つの異なるタイプの資本主義制度により達成された。どちらが勝つかはともかく、そのいずれかが全地球を支配することはありそうもないと、Branko Milanovicは彼の新著で書いている。

(本文)今や全地球が、同じ経済原則ー法的に自由な賃労働と私的に所有された資本を用いて利潤を目指して生産が行われるーに従って運営されているのは、歴史的に前例がないことであるが、事実である。
    過去において、資本主義は、ローマ帝国、6世紀のメソポタミア、中世イタリアの都市国家、あるは近代の低地諸国において、生産を組織する他の方法とともに、ときには同じ政治的組み合わせとともに、共存していた。これら[(訳者補語)他の生産組織方法には]狩猟、採集、様々な奴隷制、(土地に法的に縛り付けられ他の人々に労働を提供することを禁ぜられた労働者を用いる)封建性、そして独立した職人或いは小規模の農民による小規模の小品生産が含まれていた。地球化された資本主義の最初の肉体が現れた直近100年前に至っても、世界は依然としてこれらすべての生産方式を含んでいた。資本主義は、ロシア革命のあと、人類の人口の3分の1を含む国々を支配した共産主義と世界を分け合った。今日、世界の発展が全く影響しない限界的地域を除いて、資本主義[だけ]が残っている。
    資本主義の地球上の勝利は、1848年にマルクスとエンゲルスにより予測されていた多くの含意をもっている。資本主義は、海外の利潤が国内より高いとき、クレヴァス(氷の深い割れ目 見えない危険)でさえ超えて、国境を越えた財貨の交易、資本の移動、そして幾つかの例では労働の移動を容易にする。
 それゆえ資本主義が大きく広がった、ナポレオン戦争と第一次大戦の間に、グローバル化[地球が一体になること]が進展したのは偶然ではない。そして今日グローバル化が、資本主義のより決定的な勝利と同時に生じていることも偶然ではない。[逆に]共産主義が資本主義に勝利していたら、その創設者が表明した国際[共産]主義者の信条にも拘わらず、それ[共産主義]がグローバル化を導かなかったであろうことは、ほとんど疑いない。共産主義社会は圧倒的に自給自足的で民族的であり、国境を越えた財貨、資本、労働の移動は最小限だった。ソビエトブロックの内側においてすら、貿易はただ余剰財貨を売るだけ、という二者間取引の重商主義的原則に従って行われるものだった。これは、マルクス=エンゲルスが記したところの、拡張する分離しがたい傾向を有する資本主義とは全く異なっている。
    生産の資本家様式の挑戦されない支配は、イデオロギーの見解においても同様に挑戦されない対応物をもつ。すなわち、金もうけは尊敬されるだけでなく、人々の人生において最も重要な目的であり、世界のあらゆる地域の人々そしてすべての階級の人々により動機付けとして理解されている。我々と生活経験、性、人種、あるいは、信念、関心、動機、背景において異なる人を説得することは困難だろう。しかしその同じ人が、貨幣と利潤の言葉は容易に理解する。もし我々が、我々の目的は最良の取引を入手することだと説明するなら、彼らは、協調と競争のいずれが最良の経済戦略であるかを容易に理解できる。

(見出し)政治的経済的システムは、社会で支配的な価値観と調和の取れた関係に立つというのは、プラトン、アリストテレス、そしてモンテスキューのような傑出した著述家に依り議論されてきた古くからの考え方である。

     (マルクス主義者の用語を使うなら)下部構造(経済的基礎)と上部構造(政治と司法の諸組織)が今日の世界において、とてもよくそろっているという事実は、世界の資本主義がその支配を維持するのを助けているだけでなく、人々の目的をより存在できるものcompatibleにし、その通信をより明確かつより容易にしている。というのは、彼らは皆すべて、他の側は何か、その後も知っているからである。我々は、誰もが同じルールに従う、金もうけという同じ言葉を理解している世界に住んでいる。
   こうした[疑点を]一掃するような断定的説明には、一定の留保が必要である。金儲けを避ける小さな地域社会が世界中に散在しているし、金儲けを避ける個人も存在している。しかし彼らは所有の形the shape of thingsや歴史の運動には影響しない。個人の信念や価値の体系が、資本主義の目的と合っているとの主張は、我々の活動のすべてが完全かつ常に利潤により牽引されているとの示唆ととられるべきではない。人々は時々非利己的な他人の幸せへの関心、あるいはほかの目的に支配された行動をしている。しかしほとんどのわれわれにとって、もし我々がこれらの活動を使った時間や使ったお金で評価するなら、それらは我々の生活でただ小さな役割を演じている。それはちょうど億万長者を、もし彼らが途方もない[大きさの]富を不品行な行いにより築き、そしてその富の小さなカケラを放棄したときに、かれらを「慈善家」と呼ぶことが間違いであるのと同じである。それゆえ我々の非利己的な行為の小さな組み合わせをゼロだとすること、また、我々の起きている生活のおそらく90%は我々の生活の水準を改善するという目的のための活動―主としてお金を稼ぐ活動に使われるという事実を無視することは、[ともに]間違っている。
(中略)
 世界における資本主義の優越は達成されたが、二つの異なる資本主義のタイプによってである。過去200年間以上、西欧で次第に発展した自由主義的エリート主義的資本主義、そして中国により例示されている国家主導の政治的あるいは権威主義的資本主義。そして政治的あるいは権威的資本主義はまたアジアの他の地域(シンガポール、ベトナム、ビルマ)そしてアジアとヨーロッパの一部(ロシアとコーカサス諸国、中央アジア、エチオピア、アルジェリア、ルワンダ)に存在する。
(中略)
    二つのタイプの資本主義、自由主義的エリート主義的資本主義と政治的資本主義とは、今や互いに競争しているように思われる。それらはそれぞれ合衆国と中国により率いられている。しかし中国の[政治的資本主義を]普及させ「輸出」しようとする積極的意思を別にして、ある程度まで資本主義の代替的経済版である政治的資本主義は、単にアジアだけでなく自余の世界の政治的エリートにとり、より大きな自律性を与えるという魅力的特徴を持っている。また普通の人々にとっても、それが約束しているように思われる高い成長率のゆえに魅力的である。
 他方で自由主義的資本主義は、多くの周知の長所をもっている。最も重要であるのは、民主主義と法の支配の双方が自身価値があり、論争はあるが、より早い経済発展をうながし、革新を促し、社会の流動化を許すことで、予測されるところでは、すべての人に平等な成功のチャンスを与えることである[とする点である]、それは暗黙の価値体系の決定的側面に立ち戻ることである。[反対に]エリートとそうでない者の間の自己永続的な上級階級の創造に向けての運動、エリートとそれ以外のものの分極化。それは自由主義的資本主義の活発さにとって最も深刻な脅威である。この脅威は、この体系自身の生存にもまた自余の世界にとっての一般的魅力にとっても危険である。


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