コントロールできないことを受け入れる
最近,為末大さんのブログが話題になった。
https://note.com/daitamesue/n/n5319467da614
「未来は予測できず物事はコントロールできないという前提を腑に落ちるまで受け入れる」ことの大切さを説いておられた。
「不確実性」なる概念を一つのテーマとして研究をさせていただいている身としては,よくぞ言ってくれたという感じだった。
我々も,ビジネスも,生きている限り,この「予測できない出来事」と付き合っていかなければならない。予測できない出来事といかに付き合っていくかが大事なんだと思う。予測できることはAIに任せたっていいのだ。最近,そんなことをもっと教育にも取り入れることが大事な気がしている。教育業界に身を置くはしくれとして。
実はかくいう私も,こんなふうに言えるようになったのは割と最近だ。
高3のときなんて「どうなるかわからない」ことが許せな過ぎて受験勉強が手につかず浪人してしまったことがある。(もちろん,浪人経験は今となってはとてもためになった)
しかし,今思えば,人間の情報収集・処理の能力には限界があるので(サイモンという経済学者も昔言ってた),世の中どうなるかわからないことだらけなのだ。というか,予測できないと許せないなんてのは驕りである。
だからこそ,予測もつかないこと,自分の力でコントロールしようがないことにぶつかったときに,どう判断し,どう行動するか。このトレーニングこそ,教育に織り込んでしかるべきコンテンツではないだろうかと思う。
それが具体的にどういうハウツーによって実施されるものなのか,まだ自分でも明確にはなっていない。ただ,少なくともいくつかの要素はあると思う。
1)想定外のことが起こってもそうそう動じないようにする訓練。
2)想定外のことが起こったら,今までに積み上げてきたものをいかに活かし,足りないものをいかに集めてくるかを考える訓練。
3)2)のプロセスを踏むうえで,見失ってはいけない上位概念(大きな目標)。
1)は,為末さんの言われる「やってみようやってみようやってみなけりゃわからない」精神に近いかもしれない。
もちろん,知識を仕込むのも大事である。
AIがあるから知識が不要なんてのは甘ちゃんの考え方だ。
AIがしくじったとき,フォローするのは人間しかない。知識がなかったら話にならない。
しかし,知識を仕込んだことを確認する試験だけやって教育した気になったところで,今後の少子高齢化社会・ニッポンを担う若者を育てる教育としては微妙なようにも思う。
ゼミでも授業でも試験でも,今後ますます,不確実性を経験するような場を提供する必要があるように思う。もちろん,それは単に胆力を鍛えよということではなく,そこで今まで培ってきたものをどのように組み合わせればよいかを考える訓練の場とすることである。また,突然不確実性を経験させても混乱するだけなので,まずは確実性の中で(つまり定説的な知識をきちんと理解してもらったうえで)訓練を積んだ後に不確実性に入っていくということになるのだろう。
明日はこんなことを考えながら1・2限の大学基礎ゼミナールに臨みたいと思う。教科書は指定されているので,それをいかに味付けするかが各教員に問われているのであるが,その味付けをどのようにするかは話の流れで決めていきたいと思う。ただ,目標は一つ,「若者の,想定外を恐れない態度を支援する」ことである。間違っても,「大企業に入れなかったら終わりだ」とか「黙って先生の言う通りにだけしなさい」とか言わないことだ。
以上,出張帰りの中年男のたわごとである。