なにかあったらどうするんだ症候群とその対処法
私たちの国は「なにかあったらどうするんだ症候群」にかかっています。この症候群は社会に安定と秩序をもたらしますが、その副作用として社会の停滞を招き個人の可能性を制限します。この症候群には「未来は予測できるものであり、物事はコントロールできるものである」という前提があります。
「なにかあったらどうするんだ症候群」に罹った社会では未来は予測できることを前提としているために、何か起きた時にはどうしてきちんと予測しておかなかったのかと批判されることになります。だから何が起きるかを事前に予測して対処しなければなりません。この症候群に罹った人は、暗黙の前提として物事を未来からの逆算で考えています。
しかし、実際のところいくら調べても未来がどうなるかはわかりませんし、何が起きるかもわかりません。考えれば未来はわかる、ちゃんとやればコントロールできると人類は何度も勘違いしてきましたが、毎回覆されてきました。今回の新型コロナ騒動のようにです。仮にコントロールしているように見えるならば、それはそう見せている可能性が高く、いずれは破綻します。
何が起きるかはやってみなければわかりません。言い換えればやってみるならば必ず予想もしないことが起きるということです。挑戦は一定の確率で失敗する行動のことを言います。予想してその通りいくことが決まっているならそれは挑戦ではなくただの実行です。予想もしないことが起きることをイノベーションという国もありますが、私たちの国では同じことを「危ない」とか「予想外」という言葉を使います。
「何かあったらどうするんだ症候群」は個人でかかるものではありません。社会でかかるものです。その罹患者も、自ら望んだわけではなく生まれて育つ間にたくさんの「何かあったらどうするんだ」という言葉にさらされいつの間にか罹患していきました。そういう意味では加害者も被害者もいません。
この症候群から抜け出るには、未来は予測できず物事はコントロールできないという前提を腑に落ちるまで受け入れることです。そして国民全員が「やってみよう、やってみよう、やってみなけりゃわからない」を合言葉にすることだと思います。「わからない」を「恐い」から「だから面白い」に書き換える必要があります。
一人一人の心配が社会を停滞させています。一人一人の恐怖心が誰かの可能性を奪っています。過去は戻ってこない。未来はどうなるかわからない。考えても答えなんて出てこない。やってみるしかないわけですし、やってみたら違う風景が見えてきます。山頂から何が見えるのかをのぼる前に考えて予想することほど意味がないことはありません。風景を見るには、行ってみるしかないわけです。
私たちは十分心配性ですし、十分抑制的です。あとはちょっと浅はかになって「やってみようやってみようやってみなけりゃわからない」精神でいけば社会は良くなっていくと思います。なによりいくら心配したって、実際に人生はなるようにしかなりません。
追記 やってみよう精神では安全が保たれないのではないかと思われる方へ