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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(5)

これは、400年前の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の仕掛けた謎を追って、美の迷宮をさまよう美術史ミステリーです。2019年に書いたものなので、新型コロナウイルスやウクライナ侵攻のない世界が舞台になっています。言うまでもなく、これはフィクションなので実在する人物、団体とはいっさい関係ないのですが、もはやパラレルワールドものとして楽しんでいただくのもアリです(転生はしませんが)。

第1章 運命の寓意

ワルシャワ国立美術館 1

 天井の高い検査室ではウイーン大学美術史研究所の分析チームが調査を終え、白衣のスタッフたちが黙々と機材を片付けている。その中でひとり黒いスーツを着こなした男性が物珍しそうに歩き回っていた。様々な機器を覗き込んでは指でつついたりキーボードを押してみたりしている。糊のきいたシャツに磨きこまれた靴。いかにも場違いな出で立ちだが、スタッフたちは気にもとめず自分の作業に専念していた。
「あ、気をつけて。それはちょっとした振動でも較正が狂うんだから」
「先生、これ、はずれてますけど」
「え、なんではずれてるの、誰かはずした?」
「いいえ、これには先生以外だれも触ってません」
「あら、そう。まあ、いいわ。それよりあたしのスマホ見なかった?」
「いえ」
 一人だけ白衣を着ていないショートヘアの女性は、場違いな男に不審な目を向けた。
「ちょっとあなた、何してるんです」
 彼女は胸の前で組んでいた腕をほどいて男に近づいた。だが男は悪びれもせずに彼女に笑顔を向けている。
「ここは部外者立ち入り禁止ですよ」
「ああ、わかってますわかってます」
「みだりに機材に触らないでください。精密機械なんです」
「そのようですね、いや素晴らしい。エミリア・プフィッツナー博士ですよね。わたくし、当美術館の館長をしておりますタデウシュ・カチンスキと申します」男はマジシャンのような手つきで名刺を差し出した。「先生、お手数をお掛けしております。いやいやいや、素晴らしいですな。実に素晴らしい。で、どんな感じで?」
 きれいに髪をなでつけ、ひげ剃りあともさわやかに柔らかな声をかける男を、彼女は疑わしそうに観察した。これからパーティにでも出かけるような出で立ちだが、測定機材があちこちに置かれ、床に無数のケーブルが這いまわり、白衣を着たスタッフが作業を続けている検査室の中では強烈な違和感があった。もっとも、当人はそんなことを露ほども気にする様子はない。
「あなたが…でも、ケーブルを踏まないでいただけますか」
「あっ、すいません」彼は慌ててピカピカの靴を持ち上げた。「で、検査の方は…」
「だいたいは終了しています、まだ細かなものがいくつか残ってはいますが。そっちは帰ってからの作業になります。もちろん、最終的な結論を出すためには、ご承知のように時間がかかりますけど、現時点では有望だと言っていいと思います」
「おお、やっぱり。我が『フォルトゥナ』はまさしく運命でしたな。いやあ、感謝しますよ」
彼は天使の微笑みを浮かべたが、彼女はそれを無視したように続ける。
「ですが、公表は最終報告が出てからにしていただきたいですね」
「それはもちろんですよ、先生。で、最終報告はいつごろ…」
 そこへドアが開いて職員が入ってきた。少し腹をたてているようだ。
「館長、さっきから内線にかけてるんですけど」
「え、本当か。全然鳴らなかったなあ」
「ああ、これじゃダメですよ」職員は部屋の隅にある受話器のはずれた内線電話を指さした。
「まったくなんのための内線電話なんだか。この部屋はシールドされててスマホが通じないからって設置したのに」彼はぶつぶつ言いながら受話器を戻した。
「まさかはずれてるとはな。いや、全然気がつかなかったよ」
「しかもスマホまでこんなところに置きっぱなしじゃないですか」
「あら、それ、あたしのです」エミリアはちょっと怪訝な顔をして自分のスマホを受け取った。
「とにかく、お願いしますよ、ほんとに。さっきからずっとお客さんがお待ちなんです。笑いごとじゃないですよ、館長」
「悪いが、いまちょっと手が放せないんだ。待っててもらってくれ」
「でも、IDG生命のお偉方ですよ。それに、かなりイライラしてるみたいですし」
「わかったわかった。すぐに行くから少し待っててもらってくれ」
「すぐですよ、お願いしますよ、大事なスポンサーなんですから」
「わかったよ、すぐ行くと伝えてくれ」
 不満げな表情を隠そうともしない職員は、部屋を出る前にもう一度室内を見回してからドアを閉めた。
「お忙しいそうですね。こちらは結構ですから、おいでになっては」
「いやあ、まあ大丈夫でしょう。そんなことよりこの結果のほうがよほど大事ですからね」
「そうですか。まあ、そうおっしゃるなら」
「そうですとも。これが確認されたら世界中の目が集まりますよ。先生の輝かしい実績にまたひとつ花が添えられるというものでしょうな」
「わたしはただ、正確な判定をするだけです。曖昧な前提を頼りに推論を重ねるだけの旧態依然の方法には、正直ちょっとうんざりしてますし」
「ごもっともです。21世紀の今日、科学技術を無視して鑑定はできませんからな。まったく先生のおっしゃるように…」
「いやあ、エミリア。こんなところで会おうとはな。まったく世界は狭くなる一方じゃないか」
 部屋に入ってくるなりサー・ジェフリーは胴間声を張り上げた。その後ろにはなぜか疲れきったヴァーツラフの姿も見える。二人を案内してきた黒縁眼鏡の小男はしきりに館長に向かって目配せしている。突然の老大家の登場に館長は一瞬虚をつかれたが、すぐに如才ない顔にもどってサー・ジェフリーにお得意の天使の微笑みを向ける。だが新来の巨漢は彼のことなど目に入らぬらしく、凶悪な顔をしたままエミリアにのしのしと歩み寄った。
「まあ、サー・ジェフリー。どういう風の吹き回しかしら、あなたがここにいらっしゃるなんて」エミリアは再び胸の前で腕を組んだ。
「なあお嬢さん、わしが来たくて来たと思っとるんじゃあるまいな。すべてはこいつのせいなんだ。こいつの口車にのせられてな」
 サー・ジェフリーに太い指を突きつけられたヴァーツラフはうんざりした顔をした。
「先生、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。僕がだましたみたいじゃないですか。あ、プフィッツナー博士、ご無沙汰してます」
 だが彼女はヴァーツラフなど目に入っていないようだ。
「引退されて、チューリッヒ郊外で悠々自適の毎日だと思ってましたけど。ここへはどんなご用で?」
「エミリア、あんたがそれを聞くのかね、他でもないあんたが。ふむ、まあいいだろう。じゃあ話してやるが、」
「サー・ジェフリー・エドワーズ、ワルシャワ国立美術館にようこそ。わざわざお越しいただいて恐縮です。高名な先生にご来館いただいてたいへん光栄です」
 むりやり話しに割り込んだ館長は、とびきりの天使の微笑みを浮かべて美術史の権威に一礼した。
「ほう、あんたは」
「わたくし、当美術館の館長を勤めておりますタデウシュ・カチンスキと申します。と言っても、まだ就任したばかりですが。それはともかく、当館といたしましては、これを機会にぜひとも先生と末永くおつきあいさせていただければと考えておりまして、のちほどいろいろお話しさせていただきたいと…」
「おい、」サー・ジェフリーは名刺を差し出したカチンスキをさえぎってヴァーツラフに冷たい一瞥を投げた。「おまえは何をたくらんどる?」
「たくらむなんて先生、やめてくださいよ。ただの社交辞令じゃないですか」
「社交辞令だなんてとんでもない。私は心から申し上げてるんですよ、マエストロ。おわかりでしょう?」
「わしもあらかじめ申し上げておくがな、ミスター・カチンスキ。わしという人間は政治だの商売だのにはいっさい興味がないんだ。ここに来たのは北方マニエリストの作品を鑑定するためだ。そのためだけに来たんでな」
「ええっ、どういうことですか」思わずエミリアが大きな声をあげた。
「おまえさん、聞いとらんかったのか」
「聞いてましたよ。だから驚いてるんです。それってつまり、」
「そうじゃない。わしが言ったのはだ、お嬢さん、あんたとわしで鑑定するってことなんだ」
「待って。ちょっと待ってください。あの『フォルトゥナ』をですか。本当に?」
「いま言った通りだよ。驚いたな、まったく聞いとらんのか」
「初耳です。そんな、そんなことが」
 エミリアは両手を中途半端に広げたまま眉間にしわを寄せている。まだサー・ジェフリーの言葉が真実かどうか疑っているようだ。黒縁の眼鏡をかけた小柄な男は神経質にネクタイを直しながら小声でヴァーツラフに自己紹介した。
「あの、すいません、こんな形で。コヴァルスキと申します。ここの事務局長をしております。しかし、なんですね、ちょっと整理が必要な状況のように見えますが」
「まったくです。だいたいなんでこんなことになったのか」
 ヴァーツラフも小声で答える。マエストロはエミリアにうなづいていた。
「ほんとうのことだ。そこにいる館長に聞いてみるといい」
 エミリアに見据えられてカチンスキは落ち着きなく左右に視線を泳がせた。
「わ、わたしは、その、隠すつもりはありませんでしたよ、最初からね。ええ、そうですとも。さきほどもプフィッツナー博士に申し上げたように…」
 ドアは閉まっているにもかかわらず、廊下をはしゃぎながら走る子供たちの声が室内まで響き渡り、サー・ジェフリーとエミリアは顔を見合わせた。
「なんです、あれは」
「あ、あれは見学ツアーの、ええ、館内見学ツアーの一行のようですね。当美術館でも当然、」コヴァルスキは青いひげ剃りあとをますます青くしながら平静を装おうとしたが、サー・ジェフリーにあっさりさえぎられた。
「だから、なんで研究棟にツアーの子供たちがおるんですかな」
「え、あ、それは…もしかしたらコースを外れたのかも」 
「大丈夫なんですか、そんな…」
 ヴァーツラフはちょっとあきれ顔で館長を見たが、カチンスキは落ち着き払っている。
「大きな問題ではありません。いまわれわれが取り組んでいる件に比べればですな」
 エミリアは改めてカチンスキに向き直って抗議した。
「館長、聞いてませんから。わたし、共同調査なんて聞いてません」
「でも、あらかじめ学部長さんにはきちんと、」
「どうしてそんな大事なことを直接言ってくれないんですか。そうと知ってたら、このお話は受けてません。ええ、そうです。まずお断りしてます。しかも、共同調査のお相手がよりにもよってこの方だなんて、100パーセントありえませんから」
「私は、ええと、確かにお話したはずなんですが…」カチンスキは額にうっすらと汗を光らせ、口もとには天使の微笑みの残骸を浮かべている。
「だから、私に言いました?館長」
「なあ、エミリア」サー・ジェフリーは穏やかな声で話しかけた。「長くこの仕事をしとるとな、いろいろなことがあるもんだ。わしなんかしょっちゅう不条理劇のど真ん中に放り込まれとるよ。特にこの、いつもでたらめな仕事を押しつけてくる若造にな」
「先生!でたらめって、」
「だからと言ってサー・ジェフリー、」
「それになお嬢さん、見たところ、あんたの仕事はもうあらかた終わっとるんじゃないかな」
「それはそうですけど」
「わしはかまわんよ。そうとも、この年になるとな、そんなちっぽけなことはたいしたこととは思えんのだよ」
「でもサー・ジェフリー」
「わしは自分の名前をいまさら売り込もうとは思っておらん。結果はあんたが好きにすればいい」
「そんな、それはできませんよ。そもそもそういう問題じゃ」
「ああ、わかっとるよ。あんたの言いたいことはな」
「だったら」
「うむ、そうだな。今回あんたはミスター・カンディンスキーに大きな貸しを作った、そういうことにしちゃどうだ。なあお嬢さん、過ぎたことはどうすることもできんが、その後のことはやりようがあるだろう。館長、もちろんあんたに異存はないと思うが?」サー・ジェフリーはエミリアにすばやくウィンクして見せた。
「え?そう、そうですね。もちろん、ああ、そのとおりです。そう、まったく問題ありませんな。ええ、その、サー・ジェフリーのおっしゃるとおりです、プフィッツナー博士」
 カチンスキはいまや額から汗をしたたらせているが、自分ではそのことにまったく気づいていないようだ。そんな彼を冷ややかに横目で見ながら、エミリアはサー・ジェフリーにうなづいた。
「そういうことなら、まあ仕方ありませんね」
「おお、納得してくれるか。これで交渉成立だ」
 その言葉を聞いてコヴァルスキは目をむいて口を開きかけたが、サー・ジェフリーはまったく意に介さず続けた。
「なに、よくあることでな。こんなことにいちいちかかずりあってたら仕事にならん」
「わかりました。では、私は撤収作業に戻ります。でもその前に、せっかくですから、みなさんに簡単にご説明しましょう。いかがです?」
 エミリアの機嫌がとりあえず直ったらしいのを見て、ヴァーツラフは小さくため息をついた。
「願ってもないことです、先生」
「わしはかまわんよ」
「ではあちらの分光蛍光光度計を見ていてくださいますか?」
 エミリアをその場に残して四人は部屋の隅に移動した。コヴァルスキはカチンスキになにやら小声で抗議しているようだが、館長はまったく意に介していない、というより、とりあえずこの場が収まってホッとしているように見える。サー・ジェフリーはヴァーツラフにだけ聞こえるように囁いた。
「わしは今非常に機嫌が悪い。わかっとるか」
「すいません、ホントに。でも、まさかの事態で。大丈夫なんですかね、ここ」
「声が大きい。いずれにせよ、これが終わったら、とっとと絵をプラハに運んじまうんだな」
「同感です。しかしあの館長って」
「しっ、始まるぞ」
 マエストロは眼鏡を取り出した。エミリアが部屋の反対側から四人に話しかける。
「そこにあるのが分光蛍光光度計です。煩雑な説明は省きますが、対象物にレーザーを当て、反射する光を分析して素材の組成や劣化の程度を測るものです」
 エミリアのそばにはまだいくつかの測定機器や作業台が置かれているが、スプランヘルの『運命の寓意(フォルトゥナ)』はすでにかたづけられていた。
「さきほど調査したデータをそこのモニタに出します。「運命の女神フォルトゥナの持っている布の端、まるで口を大きく開けて彼女を飲み込もうとする大蛇のように見える部分なんですが。その下にある文章のインクについての分析結果です」
 エミリアは彼らに背を向けてPCを操作している。四人は分光蛍光光度計のモニタを覗こうとしたが、巨大なサー・ジェフリーの背中で隠れてしまい、他の三人は仕方なくその後ろに立って苦笑いを交わした。
「どうですか、ちゃんと見えてます?」
 サー・ジェフリーは困ったようなうめき声をあげた。「なんだこれは。これの何を見ろと言うんだね」
「グラフが出てますよね。それがこの大蛇の絵の具の成分を表してます.そして右上に映し出されているのが、この部分の層の構成です。ご覧のように七層になっています。そして、問題のインクの層ですが…」
「あの、」
 ドアが恐る恐る開いて、若い女性が中を覗き込んだ。
「ちょっと、ここは関係者以外立入禁止ですよ」
 気づいた事務局長が声をかけた。女性は入ろうかどうしようか迷っていたが、意を決して中に一歩入った。
「すみません。ご迷惑なのは承知してますけど、道に迷ってしまって」
「コヴァルスキ君、私が」
 館長は事務局長を制して自分でドアの方に行きかけたが、床のケーブルに足を取られてよろけてしまった。思わず手を伸ばした先がサー・ジェフリーの背中だったのは不運としか言いようがない。背後から押されたマエストロは作業テーブルに手をついたが、運悪くテーブルのキャスターにはロックがかかっていなかった。サー・ジェフリーが動き出したテーブルを止めようと一歩前に出たことが、さらに事態を悪化させた。不幸にも彼の足はテーブルを思い切り蹴飛ばす形になってしまい、運命を無慈悲に加速させることになった。カチンスキは思わず、「いけません、サー・ジェフリー!」と叫んだが、その時にはもう光度計を載せたテーブルはかなりのスピードで走り出しており、部屋の反対側でこちらに背を向けているプフィッツナー博士に向かって突進していた。
「あ」サー・ジェフリーの声が漏れた。
「神よ」誰かがつぶやいた。

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