ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(4)
第1章 運命の寓意
京都 嵯峨野
「いやあ、助かりましたわ。普段はいっぱいでよう止められんのです」
男は歩きながらパトリツィアに笑って見せた。車の中は冷房が効いていたが、一歩外に出るとサウナのような熱気と湿気が襲ってくる。駐車場から境内に入ると、周囲にはセミの声が満ち、敷石の照り返しがまぶしい。
「すぐそこですわ」
彼はしきりに扇子を使っている。頭髪は薄く、下っ腹だけが突き出たその姿は、見るからに暑さに弱そうだった。パトリツィアは日本で初めてセミの声を聞いたときには恐怖を感じたが、今はもう大丈夫だ。うるさいことはうるさいが恐ろしくはない。彼女を案内しているのはサイトーという大学の非常勤講師で、今日は京都一の仏像を見せると言って車で洛西の嵯峨野までやって来たところだ。目の前に黒く巨大な屋根が見えてきた。日本の寺院はみな屋根が大きく、そのすべてが黒い瓦で覆われているせいか重量感に溢れている。寺院だけでない。小さな民家もまた同様の屋根を持ち、こっちに来てから彼女は軽やかな建築をあまり目にしていない。
「あの中にお釈迦さんがいてはります。国宝になっとります。今日は見られへんけど、毎年春と秋に公開してるんで、見る機会もあるやろう」サイトーはそう言いながら、本堂の脇の霊宝館に向かう。
「あたしはこっちの阿弥陀さんの方が好きでね。日本一や思っとります。こっちも国宝です。ここも普段は閉まっとるんやけど、今年は特別公開しとるんですわ」
真っ白い光の中から薄暗い館内に入ると一瞬何も見えなくなる。目が慣れてくると狭いエントランスのすぐ左手、手が届くほどの近さに大きな仏像があった。両脇にひとまわり小さな仏像を従えて、手狭な展示スペースが窮屈そうに見える。その向かいにも青いライオンのような動物や白象に乗った大きな仏像が展示されていたが、サイトーは真っ先にパトリツィアの目に入った左側の三体の仏像の前で立ち止まった。
「どうです。見事なもんでしょ。9世紀に作られたいうことです」
かつては全身に金箔が貼られていただろう坐像は三体とも黒ずんではいるが、千年以上前のものとはとても思えない美しさだ。サイトーが自慢するのも無理はない。
「源氏物語、知ってはりますやろ。その光源氏のモデルになった、言われてます」
サイトーが扇子でさした中央の仏像の顔は、確かに端正で凛々しかった。だが、パトリツィアは両脇の仏像の方に目がいく。冠をかぶり、冠からは長いリボンが垂れ、胸に豪華なネックレスを着けて、両腕には腕輪までしているのに、その派手な装いを裏切るように目を伏せ、目立たないように控えているのが不思議だ。
「なぜ彼らはこんなにアクセサリーを着けているのですか。なぜ真ん中の仏像は何も着けていないのです」
サイトーは手に持った扇子をもう一方の手にぴしゃりと打ちつけてにんまりした。
「ええところに気がつきました、ハースはん。仏さんにはいくつか種類がありましてな。真ん中の阿弥陀如来はすでに悟りを開いてはるんで、物欲とか一切の欲から解放されとるんです。せやさかい、ファッションなんかにももう興味がないんですな。それを表しとるわけです。両脇の勢至菩薩とか観音菩薩はまだ修行中で悟りを開いとらんよって、豪華に着飾っとるちゅうわけです。ヒエラルキーでもないんやろうけど、仏さんの段階ちゅうかね」
サイトーの言葉を聞きながら、パトリツィアは目の前の三尊像を改めて眺めた。確かに中央の仏像はシンプルな薄物をまとうだけで他には何も身に着けていない。ある意味究極のファッションだ。それを見ていると急に胸の奥が波立ち、渦巻き、大波となって彼女を襲った。パトリツィアは訳がわからずに棒立ちになっていたが、気づくと涙がこぼれ、その涙をぬぐう指先も震えている。
「それにしても、仏像を勉強しにわざわざスイスから留学するとは、あんたも奇特なお人やなあ」
遠くでサイトーの声がするが、彼女の頭の中には蝉しぐれが染み渡り、様々な光景が目まぐるしく現れては消えていく。その光景を高速で見せられながら、彼女はただ立ち尽くすしかない。この瞬間、彼女は2021年にも京都にもいなかった。自分の意志とは無関係にまったく別の流れの中に身を任すほか、彼女にはなす術がなかった。外ではあいかわらずセミたちが鳴きほこり、熱気が陽炎を立ちのぼらせている。8月も終わりの嵯峨野は静かに燃えていた。
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