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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(13)

第2章 3つめのスケッチ

チューリッヒ オペラハウス

「気をつけろ。気をつけねえと首根っこ折っちまうぞ。
 崖っぷちをおりて、甲板へ行け。
 道具はわしが投げてやる。ほれ!
 さあ、目をつぶって、おりて行け。」

歌劇「ピーター・グライムズ」第2幕 第2場
作曲:ベンジャミン・ブリテン
歌詞:モンタギュー・スレイター
訳;佐藤 章
ユニバーサル・ミュージック UCCD-3635/6

 舞台上では雨合羽を着た男が少年の襟首を掴んでいる。暗い客席にいるのは中央に置かれたコンソールの前に座った演出家と照明家だけで、あとはがらんとしていた。上のバルコニー席を見上げても観客はひとりもいない。
「すごいね」
 客席後方に座っているヴァーツラフは隣のエミリアに囁いた。
「しっ」
 エミリアは舞台に集中していた。群衆とともに登場した三人の歌手が漁師小屋で歌っている。彼らが去ると最初の男が少年の体を引きずって来て、彼の顔に上着をかぶせた。音楽が止むと、舞台袖からインカムを着けた演出助手が飛び出してきて、雨合羽を着た歌手と何やら早口で話し始めた。他の歌手たちは黙々と舞台セットの裏に引きあげる。
「音楽家は30分休憩。照明チームは残ってくれ。演出助手はこっちに」
 演出家がマイクで告げると、舞台照明が消えてホール全体が明るくなり、オーケストラピットに入っていた団員が続々と出てきた。
「ステラは?」
「どうも」
 ヴィオラケースを持ったステラが二人に近づいて手を振った。
「ステラ、今日は本当にありがとう。リハーサルまで見せてもらっちゃって」
「どうだった?」
「いや、素晴らしかったです。オペラのリハーサルなんて、貴重な体験させてもらいました」
「ごめん、ほんとはもっと観ていたいけど、この人が仕事で」
「ううん、来月演るから、二人で観に来て」
「必ず来ますよ。あの、よくわからなかったんですけど、さっきの少年は死んだんですか」
「え?ああ、そうよ。崖から落ちてね」

プラハ ストラホフ修道院

「何度も言わせないで。あたしはハッカーじゃない、リサーチャー。知ってるでしょ」
「あ…すまない」
 電話の向こうからは少しいらだった空気が伝わってくる。ヴァーツラフは遅まきながら、前回のことを思い出していた。
「お願いだ、君だけが頼りなんだよ」
「まさか、あたしに丸投げして仕事した気になってるんじゃないでしょうね」
「そんな。ちゃんと資料集めしてますよ」
「揃ったらすぐよこしてよ。こっちは時間切られてるんだから」
「もちろん、準備ができたらすぐ届けるよ。今は70年代の美術展図録を集めてるところで」
「2000年代も抜けてるんだけど」
「そっちも今やってる」
「頼むわよ、ホントに」
「オークションカタログの方が難航してて」
「それ、キリがないよ。本気でやったら何百冊にもなるし。効率悪すぎるんじゃない。あたしはどっちでもいいんだけどさ」
「がんばります」
「お好きにどうぞ」
 ヴァーツラフはスケッチにあったペンダントの確認作業のため、年明けから知り合いのエキスパートに仕事を依頼していたのだが、気がつくと彼女のアシスタントと化していた。ディアナ・ハーイェクはプラハの歴史的建造物クレメンティヌム内にある国立図書館で司書を務めるかたわら、個人で様々な資料のリサーチを請け負っている。2年前の聖ペーター聖句集贋作事件の時、ヴァーツラフから依頼されてその装飾写本の異本を多数探し出した腕を買われたのだが、前回同様イニシアチブは彼女が握っていた。彼は通りに出ると、ちょうど来たトラムに飛び乗って大きくため息をついた。スマホの画面には彼女から送られてきた必要な資料の膨大なリストが映し出されている。トラムは大きな河を渡り、丘の上の修道院めざして登っていく。そこの礼拝堂の地下には未整理の古い資料が山のように残されており、その中から関係しそうな資料をピックアップしようというのだ。だがそれは海図なしではるか彼方の小島をめざすような、無謀で望みの薄い作業だった。
 小高い丘の上でトラムを降りたヴァーツラフは、ティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラーの銅像を背に赤い屋根の修道院に向かって坂を上って行った。普段は図書館めあての観光客であふれているが、今日は珍しく人影がない。アポはとれているものの、彼の希望がかなうとは限らなった。なにしろ門外不出の資料を借りだそうというのだ。胸ポケットに入っている国立科学アカデミーの紹介状にどれだけ威力があるかもわからなかった。空はいつものようにどんよりと曇り、白いものがちらついていないのが不思議なくらいの天気だ。
「すいません神父さん、お忙しい所を」
 司祭館の玄関ホールでヴァーツラフを出迎えたのは長身の若い司祭だった。彼も背が低いほうではなかったが、さらに頭一つ分高い。手にしたスマホに目をやり、司祭は無表情にヴァーツラフを見下ろした。目の色が異常に薄く、とても血の通った人間のものとは思えない。
「できる限り協力するようにと言われております」
 その声は感情を押し殺しているのか、それとも最初から感情など持ち合わせていないのか、あくまでもなめらかで冷たかった。
「あつかましいお願いで恐縮です」
「どんなものにも意味はあるらしいですからね。とはいえ、私どもには想像もつきませんが」そう言って彼は皮肉っぽく薄い唇の端を上げたが、ヴァーツラフはそれを無視してこう答えただけだった。
「ご協力感謝します」
「ではこちらへ」
 修道司祭のトマシュは無表情のままヴァーツラフをうながして司祭館をあとにした。雪片が舞い落ちる中、二人は無言で歩き続けて暗い礼拝堂に入った。奥の扉まで来ると、司祭は鍵束から大きな鍵を選び出し、いかめしい鍵を開けた。その金属音が幾多の柱や祭壇に飾られた無言の彫像たち以外誰ひとりいない礼拝堂に響く。扉の中は狭い階段になっており、暗闇が大きく口を開けていた。
「こちらへ」
 トマシュが先に立って暗い階段を降りていくと、その姿は闇の中に溶け込んでしまった。ヴァーツラフも覚悟を決めて後に従い、満足な照明もない階段を手探りで降りていった。かなり降りたはずだが実際にはよくわからない。奈落の底へでも通じているかのような暗闇を、彼は果てしなく降りるほかなかった。ようやく前方に立つ修道司祭の姿が見えた時には正直ほっとした。
「ここが当修道院の地下聖堂クリプトです。以前は納骨堂として使われていましたが」
 地下空間は意外と広く天井も思ったほど低くはなかったが、林立する柱と乏しい照明のもとではすべてを見通すことはできなかった。どうやらかなり奥行きがありそうで、両側の壁は背の高い棚で埋め尽くされ、そこに膨大な資料が並べられている。ヴァーツラフはランタンを持ってこなかったことを悔やんだ。
「すいません、なかなか整理がつきませんで」
 トマシュが示したのは木製の大きな箱にしまわれた大量の書類や手紙の束だった。薄暗い照明の下、同じような箱が二十個以上積み上げられているのが見て取れる。
「あ、はあ…」ヴァーツラフは力なく笑った。
「ご存知とは思いますが、ここにある資料の中には大変希少で価値のあるものも含まれております。取り扱いにはくれぐれもご注意ください」
「扱い方は承知しています。貸し出しはできますか」
「ここにある資料すべては当修道院からの持ち出しをお断りしております。これは例外なき規則ですので」
「そうなんですか。アカデミーからの依頼でもダメですかね」
 ヴァーツラフは、無駄とは知りつつ胸ポケットから紹介状を取り出して見せた。トマシュは紙切れにはまったく関心を示さず、言い慣れた事務的口調も崩さなかった。
「はい。たとえ当局からの命令だとしても拒否いたします。そのようにして守ってきたからこそ、今もここにあるわけですので」
 その表情にはあざけりも誇りも浮かんではいない。良くできた仮面のようにしか見えなかった。
「ここで閲覧するのは構いません。見終わったら元の箱に戻しておいてください。クリプトは日没まで開いております。お帰りになる時には司祭館に声をかけてください」
 ヴァーツラフは司祭の話しを聞きながら、この膨大な資料の中から短時間で必要なものを選別するのは不可能だと悟った。
「では私はこれで。御用がありましたら司祭館におりますので。あ、そうそう。お帰りの際には簡単なボディチェックがありますのであしからず」
 そう言い残してトマシュは階段を登っていってしまった。一人取り残されたヴァーツラフは途方に暮れると同時に、人を人とも思わない冷血な修道司祭に対する怒りを抑えきれなかったようだ。
「うあああああっ!なんなんだあの野郎ぉ!おまえは出来損ないのロボットかよ!」
 悪態はクリプトの高くはない天井に反響し、幾多の柱に反射してから余韻を残して消えた。落ち着いたところでまず思ったのは、なきに等しいセキュリティについてだ。
「いいのか、こんなことで。もし僕がこれを破ったり燃やしちゃったりしたらどうするつもりだろう」
 目の前の箱には、古いものでは千年以上前と思われるような、いわゆる古文書が未整理のまま無造作に箱に放り込まれている。貴重なものも含まれているだろうに、長いこと放置されているようだ。この膨大な古文献の山から必要なものを選び出さなくてはならない。ヴァーツラフは薄暗いクリプトの中でめまいを覚えた。

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