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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(14)

これは、400年前の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の仕掛けた謎を追って、美の迷宮をさまよう美術史ミステリーです。2019年に書いたものなので、新型コロナウイルスやウクライナ侵攻のない世界が舞台になっています。言うまでもなく、これはフィクションなので実在する人物、団体とはいっさい関係ないのですが、もはやパラレルワールドものとして楽しんでいただくのもアリです(転生はしませんが)。

第2章 3つめのスケッチ

ウクライナ ドネツク空港

「さっさとお帰りかい、いい気なもんだぜ」
 頭上をウクライナ軍の大型攻撃ヘリが通過していく。それを見上げていた地上の兵士はヘッドセットを苦々しくむしり取った。凄まじい騒音と電磁ノイズで何も聞こえない。迷彩服を着た重装備の歩兵たちが建物の陰から500メートルほど離れた空港ビルの様子を窺っていた。友軍機の空爆で半壊状態だが、親ロシア派武装勢力が一部まだ立てこもっているらしく、うかつに近寄ると射撃される。彼らと空港ビルのちょうど中間に、装甲車が一台擱座かくざしていた。スカイプはまだつながっているので装甲車に取り残された兵士たちとは話せるが、状況は膠着しており救出の目処は立っていなかった。このまま夜を待つのも一つの手だが、負傷者の状態に加えてロシア軍が空港に向かっているという情報もあり、時間の余裕はなかった。
「准尉、どうしますか」
「戦車はまだか」
「市庁舎付近で戦闘に巻き込まれたようです」
「くそッ!やっぱりアレしかないか」彼は後ろを振り返った。工事用のブルドーザーが一台放置されている。
「ブレードをあげて操縦者の弾よけにするぞ。そうだ、そうすれば大丈夫だよな、うん。それで、あとの者はブルドーザーの後ろに隠れて前進するんだ」
 それを聞いた兵士たちは顔を見合わせた。「嫌な予感がする…」
「運転は俺がやる」指揮官はブルドーザーの運転席によじ登った。
「あの機銃に向って一直線に進むぞ!」
 歩兵たちがブルドーザーの後ろに移動する中、大男が携帯用対空ミサイルを担ぎ上げた。
「イグラなんて、どうすんだよ」
「なに、お守りみたいなもんさ」大男はにやりと笑った。

「やめろレオシュ、死ぬぞ!」
 大男は、味方の装甲車まであと50メートルというところで動きを止められたブルドーザーの陰から飛び出し、膝をついてイグラを構えた。対空兵器だが熱反応型なので相手の機銃に当たるかもしれない。照準スコープを覗きこみながら彼はトリガーを引いた。
「これで終わりだ…」
 男の発射した対空ミサイルは空港ビルの機銃のある一角に命中し、爆発した。准尉以下3名の命を奪った機銃はようやく沈黙した。
「急げっ」
 ブルドーザーの陰から迷彩服の歩兵たちが飛び出し、擱座した装甲車に走り寄った。空港ビルからはまだ散発的にライフルを撃ってきている。レオシュはバックパック式の機関銃を連射して味方を援護した。跳弾したライフル弾が顎をかすめたが、彼はかまわず引き金を引き続けた。担架に乗せられた負傷者が後方に戻り、ようやく到着した応援部隊に引き渡される。
「レオシュ、やめろ。もういい、もう終わったんだ。終わったんだよ」
 肩に手をかけられたレオシュはビクッとして引き金から指を離した。
「すごい血だぞ。どこをやられた?」
 そう言われて彼は初めて自分が負傷していることに気づいた。手をやると確かに顎から胸のあたりにかけて大きく血に染まっているが、不思議と痛みは感じない。
「戻ってすぐに手当てしてやる。よくやったな」
 装甲車に乗っていた兵士のうち4名が死亡、2名が重症を負っていた。たった一日の戦闘で小隊から7名の死者と2名の重症者が出た。無事だったのは彼を含めて6名だけだ。勝利と呼ぶにはあまりに代償が大きすぎる。地面に座り込んだレオシュはうなだれて、夕陽が地上を赤く染めて沈んでいくのを何も言わずに見つめていた。

ブダペスト ヴァーツィ通り

「こっちだ」
 メフィスト・カフェでさり気なく店内を見張っていたレオシュは、チャーリーに呼び出されて店の裏手に回った。時刻は深夜0時を回っている。暗い路地の中ほどにサングラスをかけた痩身の男が立っていた。観光客は暗くなるとこの辺りには近寄らない。レオシュはミンスク合意を待たずにウクライナ軍の戦列を離れ、一時は民間企業に就職したが長続きはしなかった。デスクワークには現実感が伴わないと感じたからだが、ことはデスクワークに限らなかった。ガソリンスタンドやカフェで働いても、リアルな感覚はなかった。仕事だけではない。自分の部屋のベッドに潜り込んでも、現実世界とは薄皮一枚で隔てられている感覚はつきまとって離れなかった。かといって、医者に行く気はまったくなかった。行けば怪しげな薬で今よりひどい状態にさせられると信じていたのだ。安らかな眠りが失われ、次第に酒量は増えていった。鍛え上げたかつての肉体は、不健康な脂肪太りの体にとって代わられた。そんなときに声をかけられたのだ、あんたには戦場が必要だと。そのチャーリーと名乗る男は、戦場から戻った元兵士の大半は普通の仕事にはつけない、と言った。せっかく生きて帰ってきたのに自殺するやつも多い、とも。そいつらの中ではまだ戦争は終わっちゃいない、生きるか死ぬかの戦いの中で初めて生きてる実感が持てたんだな、そう言って男はグラスを傾けた。どうやら自分もそうらしい、レオシュは我が身を振り返って認めざるを得なかった。俺はそんな奴らがかわいそうでねえ、チャーリーはサングラス越しにレオシュを見つめた。何人かに仕事を世話してやったよ。仕事と言っても普通のじゃない、そいつらが満足できるような仕事だ。俺は別の戦場をそいつらに用意してやったんだ。わかるか?命を張った仕事だ。といっても場所は平和な街のど真ん中なんだが。そこにも戦場はあるのさ。興味あるかい?
「ここだ、メドヴェ」
 サングラスのチャーリーはしきりに手招きしている。そのたびにいくつもはめた指輪が光る。その足元には別の男がうつ伏せに倒れている。すでにかなり痛めつけられているらしく、あちこちから血が流れていた。
「た…助けてくれ、助けて…」男はチャーリーのズボンにすがるが、チャーリーは容赦なくその男の腹を蹴り上げる。
「メドヴェ」チャーリーは彼の肩を抱き、微笑みながら言った。「こいつは俺たちを裏切った。ああそうとも、ヤーノシュはいい奴だ。立派な戦友だよ。それは俺もよく知ってる。だがな、こいつは俺たちのブツをミハイルに流しやがったんだ、わずかなカネに目がくらんでな。バカなことをしたもんだ。よりによってロシア・マフィアと取引しようなんて、どうかしてるぜ、まったく。なあ、おまえもそう思うだろ、メドヴェ」
 そう言ってチャーリーはもう一度男を蹴った。その口から血があふれる。「俺たちは家族もみたいなもんだ、そうだろう、メドヴェ。家族だったらみんなで助け合うもんだ、いい時も悪い時もな。あたりまえのことだろう?そこでだメドヴェ、おまえならこいつをどうする?ああ?この薄汚い、俺たち家族のことなどこれっぽっちも考えない裏切り者を。俺たちが必死で守ってきたシマを売り渡そうとした、このヤーノシュをよ」
 チャーリーはまた男の頭を蹴った。もう低いうめき声しか聞こえてこない。その指先が痙攣しているのをレオシュは見て取った。
「どうするんだメドヴェ?おまえならどうすべきかわかるだろう。なにしろおまえは英雄だからな。おまえの顔の傷がその証だ。半年前まで軍人だったおまえのことは、この俺が一番わかってるさ、そうだろう?もともとこのあたりは俺たちマジャール人のシマだ。新興のロシア人なんかに荒らされてたまるかってんだ、なあ。メドヴェ、おまえはウクライナ人だが、もう俺たちマジャール人の家族も同然だ、そうとも。名前も俺がつけてやった。いいだろう、熊だ。メドヴェってのはな、マジャール語で熊って意味なんだぞ、でっかい熊だ。おまえが家族の一員なら、こいつをどう始末すればいいかわかるよな。こんなこと言いたかないが、おまえの実力をそろそろ見せてくれてもいいんじゃないか、ええ?」
「チャーリー、俺に選択権はあるんですか」
「選択権?なにふざけたこと言ってやがる。答えは決まってるだろうが。さっさとやっておまえも一人前になってみろ、って言ってんだよ」
「はい」
「わかったか。よおし、それでいいんだメドヴェ。じゃあな、あとは任せるぞ、いいな」
 チャーリーはレオシュの頬を叩くと店に戻っていった。瀕死の男と路地に残されたレオシュは自分の手に目を落とした。これが戦場なのか、こんなことが。

 ザンクト・ガレンからアッペンツェルに向かう曲がりくねった道を、レオシュはひとり車を走らせていた。両脇の山肌はすっかり雪に覆われていたが、道路にはたまに小雪がちらつく程度で走行に問題はない。彼は顎ひげで隠した傷跡にそっと触れた。戦場での詳しい話やブダペストにいた頃の話をウリエルにしたことはない。ウリエルに限らない、人前で話したことはほとんどなかった。これからも話すことはないだろう。後に第一次ドネツク空港の戦いと言われる戦闘から8年たつ。

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