見出し画像

ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(15)

第2章 3つめのスケッチ

プラハ デイヴィツェ

「こんなにバカみたいに大量だなんて聞いてなかったし」
 プラハ北部の丘陵地帯にあるディアナのモノトーンなプライベートオフィスには余計なものが一切なく、唯一の例外は入り口近くに積んであるダンボールの山だった。彼女はディスプレイとキーボード以外何も置いていない広々としたデスクに肘をついたまま、あきれたように来訪者を見た。ヴァーツラフは持ってきたお菓子の包みをテーブルに置くとあいまいに笑って、かたわらの自分で集めた資料の山に目をやった。
「いやマジで。僕もこんなになるとは全然思ってなかった」
「しかも手紙とか手書きのメモの類いがやたらとあって、判読がもう大変だったし」
「すいませんでした。でも見事にやってもらって」
「そりゃ仕事ですから」ディアナは眼鏡を外して椅子から立ち上がるとテーブルに歩み寄り、お菓子の包みを開け始めた。「で?これからあのデータをどうするつもり?」
「あのスケッチと似た画像をネットからピックアップしてもらったでしょ。それとこの出来上がったリストを突き合わせてみようかなと」
 ディアナはクッキーをほおばりながらヴァーツラフに言った。「これ美味しい。ヴァシェク、お茶入れて。キッチンの場所、わかるよね」
「あ、うん」
「しっかし、これがそんなに重大な問題なわけ?そこまで徹底してやるってさあ」
 やかんをコンロにかけながらヴァーツラフは小声でつぶやく。「僕だって好きでやってるわけじゃ…」
「え、なんか言った?」
「お茶はどこ?」
「ああ、あたしやる」ディアナはクッキーをもう一つ口に入れてからキッチンに来た。「ハーブティーでいい?」
 彼女がゆるやかなカーリーヘアを手早くまとめた時、ヴァーツラフの知らない花の香りが広がった。
「あんたも少し仕事選んだほうがいいよ。疲れた顔しちゃって。かつてのクラスメートとして忠告するけどさ」
「仕事は面白いと言えば面白いんだけどね」ソファに座った彼は、改めてオフィス内を見回した。
「そうなの?ヴァシェクって昔っから気が弱くて、こう言っちゃなんだけど、ちゃんと社会に適応できるか疑わしかったから」
「おかげさまで」
「ふーん。まあいいや。あたしには関係ないし」
「ディアンカはさあ、なんでハッカー、じゃない、リサーチャーをやろうと思ったの」
「あたし?そうだなあ、特に理由はないけど、しいて言うなら簡単だから、かな」
「簡単?」
「そ、今やってる仕事は、図書館の仕事もそうなんだけど、あたしには全然簡単なことなの。でも世間はどうもそうじゃないらしいって気づいて、それでかな。たいした理由なんてないよ。はい、お茶」ディアナはカップを手渡すとソファに腰を降ろした。「じゃなんであんたは今の仕事についたの?」
「僕は……そうだな、難しいからかな」
「はい?」
「美術の世界って閉鎖的で、それでいて評価基準はあいまいで、なんか素人は引っ込んでろって言われてるような気がしてさ。じゃあやってやろうじゃないかって気になっちゃったんだよね」
「マジ?あんたってそんなに無謀な奴だったっけ」
「はは、確かにね。入ってみて無謀だと思ったよ」
「じゃなんで続けてるのよ」
「面白くなってきたのかな」
「でも大変なんでしょ」
 熱いお茶を吹いて冷まそうとしていたヴァーツラフは、あきらめてカップをテーブルに置いた。
「大変は大変だけど。うーんと、美術品てやっぱり人類の宝だしさ、それを後世に伝えるのは、すごい大事だと思うんだよね。……いや、違うな。人類がどうのとか、そういうのは本当は関係なくて…。あのさ、ディアンカにはない?美術品に限らず音楽でも詩でもなんでもいいんだけど、一つの作品に深く入り込むとさ、本当になんかこう、底の底に触れるっていうか、もう少しで届きそうになるんだけど、どうしても触れられない感覚っていうか、もどかしくて身を焦がすみたいな、そういう言葉に絶対できないような感情が湧き上がってくることがあるんだ。ほんとに、たまにだけどね。でも、その美というか本質というか真理というか、とにかく絶対到達できないその何かが、自分でもわかんないけど、なんか体が震えるほど愛おしくて、懐かしくて、哀しくてしょうがないんだ」
 ディアナはソファでお茶を飲んでいたが、何も言わずに急に立ち上がり、カップを両手で持ったままデスクの方に歩いていった。
「バカみたいだね。僕は…」
 振り向いた彼女はちょっと困ったような顔を見せた。
「ううん、ヴァシェク。やっぱりあんたってどうかしてる。あんたの言ってることは美しいけど、でも、それってヤバいよ。それがあんたを滅ぼすかもしれない」
「滅ぼすって…」
「ああ、ゴメン、変なこと言っちゃって。なんでもないんだ、気にしないで」
「え…」
 ディアナはカップを置くと彼の元に駆け寄り、その手を取ってヴァーツラフの目を見つめた。
「ともかく、またなにかあったら協力するから!」
「あ、ありがとうディアンカ」
「でも、この荷物は、とっとと持って帰ってよ」
「すぐ手配する」
「請求書は研究所宛に送っとくから」
「ああ、わかった」
「帰って少し休みなさい。体こわしたら元も子もないでしょ」
「君も、ディアンカ」
 ヴァーツラフが出ていくとディアナはまたソファに座り込んだ。
「まいったなあ、あいつ。あれじゃ長生きできそうもないじゃない…」

ウィーン大学美術史研究所

「こないだエミリアがステラ・尹の話をしてくれたじゃない、代々伝わるペンダントがあるってさ」
 エミリアの研究室は整頓する意志は感じられるものの、あまりにも資料や機材が多すぎて絶望的な混沌に飲み込まれていた。ヴァーツラフはどこかで見た似たような部屋を思い浮かべて内心苦笑した。
「しかも殺されたレナ・ハースはアッペンツェルの人だし、ペンダントを持ってたメレンドルフ家がいたザンクト・ガレンにも近いし、僕は可能性があると思ってるんだ。だから、」
「ちょっと、そんなこと言いにわざわざここまで来たの」
 二人の距離が以前より近づいたと思っていた彼にエミリアは容赦なく冷水を浴びせた。
「え、そんなことって…」
「まあ、あんたは初めて会った時から気が利くタイプには見えなかったけど。それにしてもよ」
「あの、何か気に触るようなこと、言ったかな」
「別に」エミリアは横を向いてしまった。
「じゃあどうしてそんなに」
「だから別に」
「あとさ、例の目録の検査なんだけど、依頼状、届いてる?」
 ヴァーツラフはなにか様子が変だと思いつつ、努めて冷静に話し続ける。
「ああ、あれ」
 気のない返事。彼女は相変わらず横を向いたままだ。
「あれって、実はサー・ジェフリーがうちの所長に頼んできたんだ」
「え?」
 エミリアが向き直った。
「だからあれはマエストロが…」
 彼女は手にしていたファイルをいきなりデスクに放り投げ、肩を怒らせて部屋を出て行ってしまった。ヴァーツラフは慌てて後を追う。
「エミリア…」
「なんなの、あのジジイ。あたしはあいつの部下でもなんでもないって言ってるでしょ」
 二人はウィーン大学美術史研究所の長いホワイエを歩いていた。片方の壁が全面ガラスのせいか、大聖堂のように話し声がいつまでも響く。
「すいません。サー・ジェフリーはあなたをとても信頼してるんです」ヴァーツラフの口調はいつの間にかオフィシャルなものに変わっている。
「素材の放射性検査なんて誰でもできるのに、わざわざ指名してくることないでしょ」
「なんか、お気に入りみたいですよ」
 エミリアは急に立ち止まり、ヴァーツラフをにらみつけた。「ナイン、ダンケ」
「えっ、でも検査はやってくれるんですよね」
「それは、やると返事したからやりますけどね。でもあのジジイのためじゃない。あなたが頼んだからやるの、わかる?」
「はあ」
「あたしはあんなジジイと関わり合いたくないの、わかる?」
「……」
 エミリアは苛立っているようだ。
「誰か別の人から頼まれたら断ってる、わかる?」
「……」
「もういい!」
 彼女は白衣をひるがえしてホワイエを歩み去ってしまった。取り残されたヴァーツラフにはなにがなんだかわからない。
「待って、エミリア」
 彼女はさっさと中庭に出て、二つの半円を組み合わせたテーブルのようなモニュメントの横を通り過ぎ、植え込みの間をやみくもに歩き回っている。立ち止まってタバコに火をつけようとするが、何度やってもうまくいかない。小走りに追いついたヴァーツラフは声をかけようと中途半端に手を伸ばしたが、この場にふさわしいような言葉は何一つ浮かんでこなかった。口を開けたまま突っ立っていると、エミリアはタバコを投げ捨ててヴァーツラフを上目使いで睨んだ。鼻の頭が赤くなっているのは寒さのせいばかりではないようだ。
「エミリア…」
「あたしはね、やること自体に文句言ってるんじゃない。やり口が気に入らないの」
「そうなの?」
「そうでしょ?チェコ科学アカデミーの美術史研究所からウィーン美術史美術館の史料研究室とウィーン大学美術史研究所の収集史センターに正式に依頼が来てるのよ。それも特定の個人を指定して。しかもそのダメ押しであんたまで寄こして。これじゃ最初から逃げようがない。選択肢がないの。こんなやり方、フェアじゃない」
「え、それって普通じゃないの?」
「ありえないでしょ。プフィッツナー博士に強く依頼する、プフィッツナー博士が検査するものとする、以上は決定事項であるって、あたしは指名手配の犯人かっての。あたし、なんか悪いことした?」
「そうだったんだ…」
「だいたいあんたもあんたよ。友達だったら前もって教えてくれたっていいじゃない」
「友達って…」
「別にあんたと付き合ってるわけじゃないから文句言えた義理じゃないけど、でもこれから付き合うかもしれないでしょ」
「えっ…」
「どうなの」
「ええ?」
「あたしと付き合う気、あるの?」
「それは…」
「ないの?」
「だから…」
「どっちよ、はっきりしなさい!」
「えーと…」
「どうなの?」
「…はい」
「よろしい」
「あの…」
「なにか」
「いえ、いいです…」
 エミリアは植え込みの陰から中庭の中央を横切る歩道に戻ると、さっさと建物に向かっている。相変らず肩を怒らせてはいるが、その表情はゆるみ、笑みが浮かんでいた。そんなことを知る由もないヴァーツラフは呆けたようにその後を追った。

←目次             (16)→

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?