ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(2)
第1章 運命の寓意
プラハ マラーストラナ
彼が昼近くになってやっと目覚めた時、意識の半分はまだ夢の世界に留まったままで、祖父の酒臭い息が体中にまとわりついているような気がした。彼は古めかしい四柱式ベッドで身を起こすと頭を振り、両手で顔を覆って深いため息をついた。真昼の光は分厚いカーテンに遮られて薄暗い室内までは入ってこない。さっきから聞こえているのはノックの音か。
「ウリエル?動きがありました」
小柄で黒縁の眼鏡をかけた男がドアから顔をのぞかせた。「アカデミーはジェフリー・エドワーズを担ぎ出すつもりですよ」
ウリエルはゆっくり窓辺に近寄ってカーテンを少しだけ開けた。広く緩やかな流れの両岸には見渡す限り赤い屋根が広がって、そこかしこに大小様々な尖塔が立ち並んでいる。幅ひろい河には、両端に高い塔を持つ石造りの長い橋がかかり、欄干に数多くの彫像が立っているのも見てとれる。流れ込む冷たい外気のおかげで、彼はようやく現在に戻ってきたようだ。
「なにか因縁めいたものを感じないか。去年の写本の時以来だな。あれがきっかけで引退したと聞いていたが」
「面倒なことになるんじゃないですか。今回はハプスブルクがらみですし」男は落ち着きなく眼鏡の縁を触っている。
「面白い。今度はあのイギリスの老人にも会ってみたいな」
「ボス、」
「心配するな、ロベルト。それより、あの山はなんと言ったかな。昔、殺人事件があったスイスの山は」
ロベルトは虚を突かれて眼鏡の奥の細い目をしばたかせたが、気を取り直して話を戻した。
「知りません。そんなことより、エドワーズは幅広い人脈を持ってるって話ですよ。すぐバレますって」
「ふふん、いくら美術界に明るくても全員と顔見知りなんてことはないだろう」
「そりゃそうかもしれませんけど、やっぱり危険過ぎますよ」
「まあ、うまくやるさ。あそこは今ちょうど館長の交代時期なんだ。言うなれば、人事的空白期間というわけだ。君にも一役かってもらうぞ」
「えっ、無理です無理です、そんな。私はただの事務方なんですよ」ロベルトは青々とした剃りあとを一層青くして抗議した。
「その、ただの事務方ってやつをやってもらいたいんだ」ウリエルは人をとろかすような天使の微笑みを浮かべている。
「無茶だ…」
「大丈夫さ、ロベルト。うまくいくよ。あと、もうひとつ頼みがある」
「今度はなんです」
「そんなイヤな顔をするな。実は新市街に面白い物件がある。今は無人なんだが、できればそこを使いたいと思ってね。当たってくれるか」
「ここじゃダメなんですか」
「ここよりも人目につかないし、広いし、なにより興味があるんだ」
「何なんです」
「ファウストの家さ」
ベルリン中央駅
「先生、もうすぐ発車です。急がないと」
ヴァーツラフは駅の地下にあるスーパーでサー・ジェフリーを急かしたが、肝心のナイト勲保持者は悠然とお菓子を選んでいる。正確に言うと、巨体を売り場の狭い通路に無理やり押し込んだせいで身動きが取れなくなっているらしい。しかし態度だけはあくまでも泰然自若を装っていた。
「なあに、まだ時間はあるさ。これから何時間も列車に缶詰になるんだからな、いろいろ買い込んでおかんと」
彼は体も大きいが声も大きい。ヴァーツラフは周囲の買い物客を気にしながら巨体に歩み寄った。
「でも、もう時間が。ホームは最上階なんです」
「そもそもなんで列車なんだ。飛行機ならあっという間だというのに。君もしみったれの上司を持ったもんだな。わしは本当はベルリンにすら来たくなかったんだぞ。式典に呼ばれて仕方なく来たんだ、飛行機でな」
「確かに予算のこともそうですけど、最近は環境問題がうるさくて」
ヴァーツラフは場所ふさぎなマエストロの体をなんとか通路から引っ張り出した。その両手にはお菓子やらサンドイッチやらビールやらを山のようにかかえている。
「ふん、こんなところまで追ってくるとは、おまえも相当執念深い奴だ」やっと広い通路に出たサー・ジェフリーは凶悪な目つきで若者を睨んだ。
「で、食堂車はついとるんだろうな」
アルブレヒト・デューラーの生誕550年を記念して国際シンポジウムが開催されたベルリンには、サー・ジェフリーが基調講演のゲストとして招かれていた。彼を追ってプラハから派遣されたヴァーツラフは、我が身を呪いながら超人的な忍耐力で微笑を浮かべた。「大丈夫ですよ。ちゃんとついてますから」
「だいたい昼食も満足にとっとらんのだぞ、誰かさんのおかげでな」
「帰国の予定を変更してワルシャワ行きを承諾していただいたことには大変感謝してます。ゆっくり夕食をとっていただけるように食堂車つきの列車を手配してありますから」レジを通過した品物を手際よく袋に詰めながら、彼はしきりに時計を気にしている。
「食堂車なんぞでゆっくり食事ができるか」
老人の悪態を無視してヴァーツラフはエスカレーターに向かった。
「アルコールはたっぷり積んであるそうです」
「どうせ味も素っ気もないウォッカばかりだろう」
「アイリッシュビールもあるそうです」
「向こうに行ったって、まともなスコッチなんかあるはずないんだ」
「さあそれは。でもワルシャワのホテルならスコッチくらいあるでしょう。共産党時代じゃないんですから」
「さ、そこだ」
「何がです」
「だから、旧共産圏エリアというものはだな、君も知っとるように、壁の崩壊直後から西側の大資本が競うように進出して、あれよあれよという間にホテルやらレストランチェーンやらファストフードやらをはびこらせてしまいおった。そのあげく、いまや手に入るものといえば、画一化された大量生産の面白くもない品ばかりに成り果てたというわけだ。そんなところで本物のスコッチにお目にかかれると思っとるのか」
「そうですかねえ、それは別に旧共産圏に限った話ではないような気もしますが」
エスカレーターで最上階に上る間中、老人は壁崩壊後のヨーロッパについて悪態をつき続けていたが、ヴァーツラフはテレビで見たマインドフルネスのレッスンを思い出して自分の呼吸に意識を集中しようと努めた。最上階のホームは広大なガラス張りの天井に覆われ、全体に柔らかい光が降り注いでいる。
「よりによって最上階にホームを作るなどと…おい、どれだ」
「は?」
「わしらが乗り込む牢獄だよ」
「え、ああ、あれです」
「ふん、気に入らんな」
「何がですか」
「全然気に入らんぞ」
「何なんですか、今度は」ヴァーツラフの語気も自然に荒くなってくる。一夜漬けのマインドフルネスもあまり役に立たなかったようだ。
「見てみろ」
太い指がさした先の車両には東洋人の団体客が群がって、ちょっとした騒ぎになっている。制服を着た人間が彼らの間を飛び回っているが、旅行客たちは勝手に動きながら口々に何かを叫んでいる。
「ああ、ここ何年かはどこに行ってもあんな感じですよ。もう慣れましたが」
「そうじゃない。あれだ」
ヴァーツラフが目を凝らして見つめていると、サー・ジェフリーは苛立って買い物袋をさげた両手を振り回した。
「あの窓だ。なぜ大きく全開にならないんだ」
「なんだ、そこですか」
「なんだとはなんだ。最近の乗り物の窓は揃いも揃って嵌め殺しだ。でなければ上部が申し訳程度に開くだけだぞ。ガラス越しの風景などテレビだけでたくさんだ、まったく。今日び、失われたものは無数にあるが、旅情もまたそのひとつになってしまったようだな」
「まあ、安全のためなんでしょうけど」
「どいつもこいつも愚かな方へ突っ走りおる」
「責任を問われるのがイヤなんでしょうね」
「誰が窓ごときで文句をつけると言うんだ」
この老人は自分のことを棚に上げる天才だということを、青年は遅まきながらに思い出した。
「そりゃあ、小さな子供のいる親とか…」
「ふん、くだらん。長生きはするもんじゃないな」
吐き捨てるように悪態をつく老人にはとりあわず、ヴァーツラフは白地に紺色のラインが入った列車のステップにスーツケースを二つ運び上げた。二人が混雑する車内になんとか席を確保すると程なく、ワルシャワ行きの国際列車はしずしずとベルリン中央駅を発車した。
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