ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(3)
第1章 運命の寓意
ベルリン-ワルシャワ急行
「おい、これはなんだ」
早々と食堂車に腰を落ち着けた二人はさっそくビールを飲み始めたのだが、一口飲んだサー・ジェフリーは手にしたグラスを睨みつけている。
「ビールですよ。ご所望のアイリッシュビール」
「こんなものがビールだと? 本気で言っとるんじゃないだろうな」
「お気に召しませんか」
「ああ、まったく召さんな。もっとマシなものはないのか」
「じゃあ、ポーランドのビールはいかがです? なかなかのもんですよ」
「ふん、ポーランドにビールが作れるのか」彼はさげすむように言った。
「まあ、ものは試しですよ」
「君がそこまで言うなら、ちょっとだけつきあってやってもいいが、さっきみたいな色付きのドブ水だったら、わしは帰るぞ」
「僕がいままで先生をだましたことがありますか。結構イケるんですよ」
ペルウァの黒が運ばれてくる。サー・ジェフリーはくんくん匂いを嗅いでからグラスに口をつけ、おっ、という顔でヴァーツラフを見た。
「どうです」
サー・ジェフリーは物も言わず一気に飲み干した。
「ふん、これっぽっちじゃわからん」
「お代わりを頼みましょうか」
ヴァーツラフはニヤニヤして巨匠を見たが、その大きな顔はあいかわらず無表情のままだ。他に客の姿はなく、食堂車は貸し切り状態だったので、ウエイターも頼むとすぐに持ってくる。
「ビールばっかりじゃつまらん。なにかつまみはないのか」
ソーセージとチーズ、お代わりのビールが運ばれてくると、狭いテーブルの上は皿やグラスでいっぱいになったが、マエストロはその様子を満足気に眺めている。
「ところで、今回の絵なんですけど」
「あわてるな。まだビールを飲み始めたばかりじゃないか。時間はいくらでもある。だいたい、誰かのせいで昼もろくに食べとらんのだぞ」
東に向かう列車からは晩秋の夕映えに暮れなずむ田園風景が望めたが、二人はメニューにある料理を注文するのに忙しく、車窓を眺める余裕もないほどだ。客車のシートは満席だったが、食堂車は意外にすいていたおかげで二人はゆっくり食事することができた。
「デザートはどうします?」
「いまはこれぐらいにしておくか。最近は食べ過ぎんように気をつけとるんでな」
ペルウァの黒を5杯お代わりしてグラーシュとピエロギとビゴスを山盛りいっぱい平らげた後でそう言われても、ヴァーツラフには答えようがない。やっと人心地がついたという顔で客車に戻るサー・ジェフリーは、舳先で波を左右に押し分けて進む帆船のようだった。決して狭くはない座席に、マエストロはむりやり体を押し込むと満足そうに一息ついた。
「これで締めくくりに本物のスコッチがあれば申し分ないんだが、まあ、これでも仕事中だからな」
「いいですか」
マエストロは返事をする代わりにちょっと手を振って大きな頭をシートに預け、胸の上で両手を組むと静かに目を閉じた。
「半年ほど前、ワルシャワ国立美術館でスプランヘルの絵を補修していた時に…」
ヴァーツラフはまわりの東洋人の団体客を振り向いてから小声で話しだした。
「ルドルフ二世のお抱え画家だな。ものは?」
サー・ジェフリーは目を開けずに尋ねたが、その声はつられて低くなっている。
「フォルトゥナ、『運命の寓意』です」
「ははあん、晩年のやつだな」
「赤外線を初めて使ったんです。そしたら」
「何か出てきたのか」
「それが、文章なんです。文章と工芸品のスケッチ」
「ほほう」
「で、さらに放射線炭素年代測定やら年輪年代分析やらを施して」
「ふん」マエストロは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「絵自体は確かなものですし、描かれたオーク板も時代的には符号しています。その下のテクストも絵と同時代のものと見て間違いないだろうと」
「では、わしの出番はないな」
「それが、別の問題が出てきて」ヴァーツラフはしきりに後ろを気にしている。
「どうした、さっさと言わんか」マエストロは片目を開けてヴァーツラフを見た。
「大きな声じゃ言えないんですけど、その文章の内容が…」そう言ってヴァーツラフは再び後ろを振り返った。
「ルドルフ2世の美術品蒐集室、クンストカマーについてのものらしいんです」
「ほうほう」
「ルドルフのクンストカマーと言えばプラハ城のスペインホールが有名ですけど、それとは別の、いままで知られていないものなんです」
「なんだと!」
思わず大声をあげた巨漢に車内中の目が注がれた。しかたなくヴァーツラフは身を乗り出してサー・ジェフリーの耳に囁いた。
「プラハ城内にある未発見のクンストカマーなんですよ」
巨匠の目が見開かれたが、車内は相変わらず東洋人の団体が食べものを持ったまま立ち歩いたり、通路で立ち話をしたりしてざわついている。これなら話を聞かれる心配はない。
「その文章だが、年代は確かなのか」
「はい、板に関しては。先生のお嫌いな科学分析によるとですが」
「嫌味を言いなさんな。インクはどうだ」
「そっちはあまり…」
「そりゃそうだな」
「今回は器材が足りなくて」
「ふん、だからわしを呼んだのか」
「まさかそんなことくらいで。違いますよ。もちろん、内容が内容だからに決まってるじゃないですか」
「だがなあ、今どきそんなものに興味を示す奴なんかおるのか。いくら未発見とはいえ400年前の皇帝の美術品蒐集室だぞ。クンストカマーという言葉すら忘れられて久しいというのに」
「そりゃあ美術商がこのことを知ったら大騒ぎになります。とんでもない美術品が出てきて、今までの価格体系がひっくり返ることだってあり得るんですから」
「ああ、そっちか。確かにな」
「ですから、先生もこの件はどうかご内密に」
「わかっとる」サー・ジェフリーは改まって真正面からヴァーツラフを見つめた「で、キミはそれをどうするつもりなんだ」
「どうするもこうするもありませんよ。調べるんです。そのために先生にお越しいただいてるんじゃないですか」
「それだけかね」
「他に何があるって言うんですか」
「調べてそれが本物かどうか確かめたら、その後どうするつもりかね」
「それはもちろん…」ヴァーツラフの口調はそれまでのどこか堅苦しいものから素直で柔らかなものに変わった。「もしそれが本当なら、ぜひともこの目で見てみたいですね、稀代の大変人の秘密の部屋を。先生だってそう思ってるんでしょう、あのルドルフ2世の未発見の美術陳列室ですよ。いったいどんなとんでもないものが出てくるのか」
「ふむ、よかろう」サー・ジェフリーは満足したように言った。「わしとて力を貸すのはやぶさかじゃない。いっこうに構わんよ。構わんが、ひとつ教えてくれんか。なぜその文章がいままで発見されなかったんだ」
「ああ、それはですね、あの絵の帰属問題があったからなんです。つまり、ワルシャワとプラハがお互いにあの絵は自分のところにあるべきだと主張していて、いまだに決着がついていないんですよ」
「ははあ、そういうことか」
「ええ、ですから今回の件があるまで、誰もちゃんとした調査をしてこなかったんです」
「それで君はわしを引っ張り出してプラハに持ち帰ろうと…」
「違いますよ。僕はそんなこと、思っちゃいません。絵の帰属がどこになろうとそんなことはどうでもいいんです。肝心なのは内容です」ヴァーツラフは真剣な眼差しで彼を見つめた。
「で、定期的なメンテ作業で調べてみたら、まさかのクンストカマーでしょう。僕も引っ張り出されたわけですけど、みんな妙に興奮しちゃって、ちょっと異様な雰囲気なんです」
ヴァーツラフは両手で顔をこすったが、サー・ジェフリーは顔色ひとつ変えずに耳を傾けている。
「そもそもワルシャワは、こんなこと言うとまた叱られそうですけど、科学調査だけで済まそうとしてたんです」
サー・ジェフリーが何か言う前にヴァーツラフはあわてて続けた。「でも、ことはクンストカマーに関わるんで、なんとか先方を説き伏せたんです。スケッチのこともありますし」
「ああ、そっちもあったな。それはどういうものだ」
「美術工芸品のスケッチが3つありました。そのうち2つはおそらく現存するものです」
「ほほう」
「シュヴァインベルガーの『セイシェル椰子の水差し』と、ヤムニッツァーの『勝利の水差し』です」
「有名なやつだな。確かウィーンにある」
「そうです。とてもよく似てるんです。たぶんあれらのスケッチでしょう。ですが」
「3つめが問題なのか」
「はい。ペンダントなんですけど初めて見る形で、ひょっとしたら未発見のルドルフ・プロデュースの品かと」
「たいへん面白い」
「で、ワルシャワなんですけど、僕が先生を推薦すると、向こうも張り合うように専門家を呼ぶと言い張って」
「なんだと」
「そのう、たいへん申し上げにくいんですが、その方と二人で鑑定していただくことになってしまったんです」
「そりゃまた…」
小さな女の子がサー・ジェフリーの目の前に歩いてきて、じっと美術界の老大家を見上げた。彼がとっておきの笑顔を見せると、その子は突然火がついたように泣き出した。不幸なことに彼の笑顔は、どう見ても人を食らう赤ら顔の悪鬼のようにしか見えなかったのだ。周りの目がいっせいにサー・ジェフリーに集まる。すぐに母親らしき女性がとんできて子供を抱き上げ、非難がましく老大家を睨みつけた。
「わしは…」
女性はあっという間に視界から消え去ってしまった。
「なあ君、わしはとても傷ついとるよ。なんだったんだ、いまのは」マエストロは憮然としてつぶやいた。
「無傷な魂など存在しないって言うじゃありませんか」
「わしはいつだって慈悲深くふるまっとるぞ。大いなる慈悲こそ、わしの人生そのものだというのに、いつも誤解されるのはどういうことだ」
サー・ジェフリーは駅で買い込んだビールをあおった。
「また飲むんですか」
「かまわんだろ。君は時々口うるさい母親みたいになるな。まあいい。それより、さっき気がかりなことを言っとったな」
「そうです。あのお、たいへん申し訳ないんですが、今回は共同調査でお願いしたいんです」
「ううむ、くだらん。くだらんことではあるが、まあ事情は事情だ。いたしかたあるまい。で、わしの相方は誰なんだね」
「それが、」ヴァーツラフはいったん開いた口を閉じ、ちょっと言い淀んだ。「プフィッツナー博士なんです」
「なんと!あのウィーンの雌ギツネめか!」
「そんな」
「何がそんな、だ。いいか、あいつがこのわしにどんな非道な仕打ちをしたか、おまえも知らんわけじゃあるまい」
「でも、もう一年も前のことです」
「まだたったの一年だ。そもそも、いったいどこのぼんくらがあんな極悪非道の雌ギツネを呼ぼうなどと、たわけたことを言い出したんだ」
「エミリア・プフィッツナー博士は美術品科学調査のエキスパートじゃないですか。僕とたいして歳は違いませんけど、華々しい実績をあげてます」
「あの女は浅学非才にして慇懃無礼、人を人とも思っとらんくせに、ひとたび名声の匂いをかぎつけると狡猾に立ち回って人の上前をはねる品性下劣なハゲタカなんだぞ、わかっとるのか」
顔を真っ赤にして大声でまくし立てているマエストロは再び車両中の注目を集めていた。その中には母親にしっかりと抱かれたさっきの女の子もいる。
「先生、落ち着いてください。周りが見てるじゃないですか」
「そもそもあの女はだな、」
ヴァーツラフは努めて冷静に話を続けた。
「ワルシャワは、より精密な科学分析を求めています。それでプフィッツナー博士が」
「なんの因果であの雌ギツネと…」
サー・ジェフリーはさらにもう一本ビールをあおった。
「プラハとワルシャワの綱引きの中で、ワルシャワ側が強引にねじ込んできたんです。もう政治的な案件になっちゃってるんですよ。わかってください」
「ふん、政治的か。便利な言葉だよ、まったく。ちょっと説明しにくいことがあると、すぐ政治的な問題で、とくる。だいたい誰かが政治的などという言葉を持ち出したときは決まって、聞かれると都合の悪いことが潜んどるもんだ。今回だってそうなんだろ」凶悪な目つきで睨みながら老大家はこれみよがしにゲップをした。
「すみません。僕の口からは」ヴァーツラフは申し訳なさそうに下を向く。
「そんなことにわしを巻き込みおって」
老大家の言葉とは裏腹にその声は驚くほど暖かみがあった。ヴァーツラフは安堵とともに車窓から広がる黄昏に目を向ける。二人を乗せた列車は前方の暗闇に向かってポーランドの広大な平原を驀進していった。
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