ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(12)
第1章 運命の寓意
プラハ 旧市街広場
二つの高い塔を持つ教会の前の広場には大きなツリーが立ち、その周りを色とりどりの光で飾った屋台がところ狭しと埋め尽くしている。まだ5時過ぎだというのにあたりはすでに真っ暗で、広場を取り囲む建物にもきらびやかなイルミネーションが映えている。人混みをかき分けるヴァーツラフの表情も自然とゆるんでいた。とりあえずクリスマスまでにプラハに戻れたのだ。
「Veselé Vánoce!!、ヴァシェク」
グリューワインの屋台の前でアンナが手を振っている。ラウラも一緒だ。ルドルフィーナもようやく印刷にまわり、研究所はクリスマス休暇に入っていた。
「久しぶり、元気そうだね」
「やっと解放されたんだもん、思いっきり楽しまないとね」
「あたしもさっき終わったばっかり。もうくたくたよ」
「僕もだ。今日チューリッヒから戻ってきたところで」
「今年はなんか忙しかったな」
「こっちは、今年も、だけどね」
「カミルも呼んでなんか食べに行こう」
「行こう行こう」
「あたし、今ならでっかいコレノ、一人で食べられそう」
「僕はまずビールだ」
「あたしも!」
彼らの歓声は周囲の喧騒に溶け込み、クリスマスの夜空に拡散していった。
クリスマスマーケットからさほど離れていない美術史研究所の二階に一つだけ明かりのついている部屋がある。所長室ではすでに一杯やっているクラーラが誰かと話しをしているようだ。部屋には普段の堅苦しい空気はなかった。
「そうでしたか」
彼女はワインの入ったグラスを客人に渡し、自分のグラスと合わせた。
「クラールカ、わしは今非常に機嫌が悪い」
斯界の大御所は巨体をソファに深く沈めておだやかに言った。
「おやおや、うちは結果に大満足ですよ。これで議会も予算を取らざるを得なくなるでしょうし」
「そのことだがな、どうも釈然とせんのだよ、わしは」
クラーラは目で尋ねてからタバコに火をつけた。
「あの文章は確かにまがい物ではなかった。それを疑う理由はない。しかし、あのカチンスキ自身が偽物だったからな。あいつが『フォルトゥナ』を再調査させたというのが、わしにはどうも気にくわんのだ」
「サー・ジェフリー?」
「いいか、ポイントがあの文章ではなくて、スケッチの方だとしたらどうなる」
「なんですって?」
クラーラは、何を言い出すんだという表情で無意識に腰を浮かせた。窓の外のクリスマスの喧騒は室内にまでは入ってこない。部屋の中は暖かかったが、クラーラは寒気を感じた。
「いいから座ってくれ、クラールカ。確かに、あの文章が本物と判明した時点でクンストカマーの可能性は高くなった。だが、それを狙ってこっそり掘り出すことなど誰にもできんぞ。プラハ城管理局の連中が目を光らせとるからな。現実的に考えれば未知のスケッチを狙うのが筋だろう。あくまでもスケッチに描かれたものが実在すれば、だがな」
「それは、そのはずですが…」
「誰かがアーカイブで、あのペンダントの記述を捏造したのかもしれん」
「まさか、そんなことが」
「モラヴェツ君の意見だがね。わしはまったく、そんなこと思っとらんが」マエストロはゆっくり葉巻を取り出して火をつけた。「だがわしも興味が湧いてきたのは事実だ。1607年の目録の記述はおそらくあのペンダントだろう。とすると、都合が良すぎるとは思わんか。今回は材料も内容も文句のつけようがない、できすぎとる。まるで誰かがあのペンダントに誘導しとるようじゃないかね」
マエストロはグラスを干すと自分でもう一杯ワインをついだ。クラーラはとっくに消えていたタバコを捨て、もう一本火をつけた。
「マエストロ、今日はどうしたんです。我々の仕事は、疑いだしたらきりがないことくらい、よくご存知じですのに」
「確かにな。あんたの言う通りなんだろう、クラールカ。この仕事はもともと曖昧な手探りの積み重ねだ。400年以上も前のことにはっきりした答えが出るわけでもない」
「そうですよ。わたしが学生たちにいつも言っているのは、合理的に疑い得ないものは現時点での真として扱うべき、ということです。疑いだしたら無限に疑えてしまいますからね。今回の報告書もその前提でお作りになったと思ってますけど?」
「もちろんだよ、クラールカ。ただ、わしはあのペンダントは追いかけてみる価値があるかもしれんと思っとるんだよ」
「マエストロ」所長はあらためて斯界の重鎮を見つめた。「実際、何をお考えなんです?」
「君にはかなわんな。実はちょっと頼みがある」
「なんでしょう」
「あの1607年の目録だ。もし可能なら、あれの素材分析をやってみてくれんか」
「マエストロ、ご承知だと思いますが、あの目録の原本はウィーンにあるんですよ」
「ああ、知っとる。好都合なことにな」
「それが好都合なんですか」
「そうとも。エミリアに頼めるからな」
「おやおや、いつの間に仲直りされたんです」
「端っからケンカなぞしちゃおらんよ」
「あら、そうですか」
「何を笑っとるんだ。いや、だから今回の補足的な調査ということにでもしてもらえると、わしとしてもたいへんありがたいんだが」
クラーラはタバコに火をつけてちょっと考え込むように横を向き、ミネルヴァの複製を眺めた。
「考えてもらえんかね、クラーラ・ベネショヴァ」
マエストロは凶悪な目つきで所長を見つめている。彼女は煙を深く吐きだし、少し笑った。
「サー・ジェフリー、本気なんですか」
「実を言うとな、わしも常軌を逸しとると思うよ。だがなあ、クラールカ。ことはあのペンダントだけに留まらんのだ」
「どういうことです」
「ウリエルさ」
「智天使ですか?」
「わしが言っとるのは四大天使じゃない。生身の人間だよ」
クラーラはちょっと眉をひそめ、ソファを占領している、この美術界の権威をあらためて眺めた。彼はあいかわらず彼女を睨んだまま葉巻をふかしている。部屋の空気は葉巻とタバコでだいぶ濁ってきていた。窓の外からは近くのベツレヘム教会の鐘の音が聞こえている。
「去年、ザルツブルクの聖ペーター聖句集を偽造してまだ捕まっていない、あの?」
「そうだ。あの装飾写本でわしをコケにしおった大馬鹿者だ」
「それがあのペンダントとどういう関係が……まさか、これもウリエルの仕業だと、」
「いや、そういうわけではないんだがな。バカなことを言うと思うかもしれんが、万一あのペンダントが嘘っぱちだとしたら、『フォルトゥナ』自体が偽物ということになってしまうんだ」
クラーラは黙って虚空を見つめていたが、タバコをもみ消すと立ち上がった。
「プラハ議会は次の調査としてクンストカマーの位置確認を行うことになるでしょう。ですが、その予備調査として予算計上できるかもしれません」
「そうしてくれるか。ペンダント自体の存在も確認する必要があるが」
「そうですね。確かに両面から調査する必要はあると思われます。それも予備調査の項目に入れておきましょう」
「ありがたい。これで一安心だ」
その言葉とは裏腹に、葉巻の煙を深く吐きだしたマエストロはテーブルに目を落としたままうつむいている。クラーラは腰を下ろして体を背もたれに預けた。
「これで年内の仕事はすべて終わりましたね」
「だがなクラールカ、それでも疑問は残るんだ」
「なんです?」
「奴はなぜカチンスキになりすましてわしらの前に現れたんだ。奴が『フォルトゥナ』を偽造してもしなくても、姿を現す必要などないだろう」
「少なくとも、表敬訪問ではないでしょうね」
「まったくだ。危険を犯してまであんなことをする動機がさっぱりわからん。まるで奴がクンストカマーの発掘を望んでおるみたいじゃないか。そんなことがあるのか」
彼は葉巻を灰皿に押しつけて胸に落ちた灰をはらった。
「マエストロ、考え過ぎじゃ…」
「うむ、そうだな。そろそろおいとまするよ、コートはどこかな」
所長は立ち上がって部屋の隅に行った。
「あらためて礼を言うよ、クラールカ」
「いいんですよ、私の仕事ですから」
「すまんな」苦労してソファから脱出したサー・ジェフリーはコートと帽子を受け取りながらつぶやいた。
「明日はもうイヴか。早いもんだな、年々早くなる」
クラーラはそれには答えずやさしく言った。「メリークリスマス、サー・ジェフリー」
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