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「対象喪失 悲しむということ」を読みました

初版は1979年。私が生まれる前。
2024年のいま読んでも、おもしろい。

悲しむことは、簡単のようで、奥が深い。

悲しむこと。
自分の内側にある感情に気づき、味わい、受け入れること。

自分の内側にある感情。それは、見たくないもの、気づきたくないもの、受け入れたくないもの。いろいろある。

誰にだって、ある。私にも、ある。

内側(感情)を見なくても、外側(生活、仕事、健康など)に問題がなければ、生きていけるかもしれない。外側に問題が出た時、内側を見ることになる。それは、問題のようで、チャンスなのだ。

病気はきっかけになるけれど、その病気(病名)だけに理由を求めると、視野が狭まる。自分の内側にある思いが、不調や病気を生み出す。そう考えることで、新たな視点で物事を捉えなおす。それが、心を見つめることの魅力とおもしろさだ。

病気や、自分を苦しめる呪いは、自分が作り出している。外側の行動もそうだし、自分の内側にある思いが、呪いを作り出す。でも、その呪いは、実は自分の願いを叶えていたり、助けていたりもする。滑稽だけど、単純でもある。

自分を救えるのは、自分だけ。

それは、他者は信頼できないということではないし、自分の問題は自分ひとりで解決できるという傲慢さでもなくて、自分の内側が変わらなければ、外側は変わらないというシンプルな事実。そして、自分で自分をコントロールできるし、幸せにもできるという事実は、自信と安心を回復させる。

自信と安心が回復して、やっと悲しめるのかもしれない。

安心できる場があることで、悲しめる。悲しむための仕組み(お葬式、宗教、カウンセリングなど)は、そのためにある。実態や生死に関係なく、自分を支えてくれるイメージ(大切な人、神さま等)が、支えてくれることもある。同じような体験をした人との交流や、悲しみや葛藤を共に見つめる人の存在によっても、人は回復していく。誰かの存在が、力になることはある。

だけど、その誰かが居なければ、自分は救われないと依存し、執着してしまうと、自分の力は奪われる。誰かとひとつになって安心したいという願望は、分離する不安を強めるし、相手を思い通りにしたいという支配欲も出たりして、相手の力も奪う。

悲しむことは、自分を取り戻すこと。

悲しみを感じても、自分は大丈夫と思えたら、力になる。

失ったことを受け入れるのは、自分の存在が否定された事を認めるようで、悲しめない事もある。失恋や解雇など、相手から拒否されたように感じる出来事の場合は、特にそうかもしれない。

それは、自分の死を感じるからだろうか。
自分を殺されたように感じるからだろうか。

いつか訪れる死からは逃れられないけれど、生きているうちに死にたくはない。それが、悲しむことを避けさせる。でも、それは、生きながら死んでいるようでもある。表裏一体だ。

生きていれば、失う。何度も、失う。そして、必ず失う。
死から逃れた人類は、ひとりもいない。

生きている間、喪失は、何度も起こる。動揺や不安に襲われ、生きていけなくなると困る。心と体を守るために、悲しみから目を背けることは、生き延びる知恵でもある。

悲しみも、怒りも、喜びも。人間にはたくさんの感情がある。その感情は、私たちが生きるために必要なヒントだ。どの感情も、大切だ。感情に押し潰されそうになる時、感じないようにすることは、自分を守る手段でもある。それでも、自分の感情と向き合うことは、生きる醍醐味でもある。

感じることは、生きること。

悲しむこと。それは、生きること。

蟻塚先生の本「悲しむことは生きること」も、読みたい。

「対象喪失(小此木啓吾:著/中央公論新社/1979年)」

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