見出し画像

【第11話】3年秋、箱根の遠さを知る

どうも、川瀬です。今回は3年の箱根駅伝予選会についてです。

前回、全日本大学駅伝予選会に14年ぶりに出場した話を書きました。ちなみにハードスケジュールだった森田さんと航央はその次の週には日本選手権で1500mを走っています。すごい。。。

さて、全日本大学駅伝予選会を18位で終えた筑波大は夏の記録会を経て、合宿に突入します。(今回はチームのことばかりの内容です)

絶好調の相馬、池田。安定して強い4年生。その脇を固める3年生、怪我から復帰した金丸、勢いのある1年生。昨年とは比べものにならないほどのAチームの人数での練習だったが、その中でも相馬と池田は群を抜いて強かった。

夏が明け、9月末筑波大競技会。調整しない中で大人数が自己ベスト、30’30切りで走った。今年こそ戦えるのでは、そんな雰囲気があった。(川瀬は30'45と23秒自己ベストだが周りにかなり置いていかれた)

画像1

そして始まった箱根駅伝予選会。この年の作戦はスピードエースの森田さんと距離走エースの相馬を自由に走らせ、他が集団走の予定だった。
絶好調池田は最初から飛び出し、逆にロードレースに不安のあった藤田が集団から離れたが残りのメンバーは固まって駐屯地を出た。しかし8km手前、集団から川瀬、村上、小林が離れかける。揃いも揃って3年生だった。この時、駅伝主将だった誉さんが起点を利かせ、2チームに分け各チームを4年生が引っ張ってくれたことでなんとか大崩れをしないで済んだが、この時点で筑波大は戦いの舞台から下されていた。

画像2

結果は19位。前年に比べ15分タイムを伸ばし、順位は5つ上がった。しかし箱根駅伝までのボーダーラインは遥かに遠かった。個人としても20km:62'38。猛暑の中走った前年から26秒しかタイムを伸ばせなかった。
チームの中でも満足して走れたというのも相馬と池田、西の3人だけだった。

そして1年生の相馬が学生連合に選ばれた。
例年筑波大から学生連合に選ばれていたが補欠だった。しかしこの年相馬は学生連合の5番手、相馬が10人いれば箱根駅伝に行けるのであった。

そしてこの年相馬と池田以外でまとまって出来ていたというAチームは他大学には圧倒的に及ばないものだと知った。

相馬により見えた箱根駅伝のボーダーライン、遥か遥か遠くにあった。

---------------------
・振り返り
おそらく10000m30分台ランナーだけでメンバーを揃えられた初めての年だったと思います。(児玉はこの時31分台だが、秋にすぐ30'05を出す)
そして箱根駅伝予選会のタイムは15分伸ばしました。これは例年大崩れしてしまう6番手以降のタイムを抑えられたことによるものでした。
駅伝主将の誉さんがずっと訴えてきたチームワーク。それがAチームでの練習人数に、そして本番の集団走に発揮された年でした。

が、集団走を最初に崩したのは当時3年生の僕たちでした。そしてそこに翻弄させられた4年生は満足いく走りができなかったと思います。(当日も夏合宿も後輩たちの走りを支える走りばかりしてもらった)
ほんの少し、ほんの少し駅伝校と同じことができるようになってようやく自分たちが圧倒的に弱いことを知らされました。

そしてその弱さは相馬が10人いれば箱根駅伝に行けることを知って尚のこと痛感させられました。

全日本大学駅伝予選会に出場できるようになり、箱根駅伝予選会でも当時、15分もタイムを縮めた。ついにチームとしての戦い方も身につけました。しかしやっぱり自分も、チームも弱いとしか言いようがなかった。
周りのみんながどういう風に考えていたか分かりませんが、僕は考えすぎて少しパニックでした。それでもチーム内では練習に比べ試合には強いと言われ、今の筑波の問題を考え抜いて体現できるのは自分だと思って駅伝主将に立候補することにしました。

ということで、次回から駅伝主将編に突入です。
めちゃくちゃ苦しむので何話に別れてしまうのか分かりませんがゆるりとお付き合いください笑
今回はチームのことばかりで個人的なことが抜けたので次回以降はなるべく散りばめます(あくまでも引退アルバムなので笑)

画像3



よろしければサポートよろしくお願いします!!