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理不尽な涙

退院して約1週間後の水曜の夕方、大学の友人から表参道に来ないかという連絡が入り、僕はそこに向った。
退院後に彼と会うのは初めてで、6日ほどの入院生活のオモシロ話や大変だったことなど積もる話が山ほどあった。

出来事は帰りの電車で起こった。珍しく電車の先頭車両に乗った僕は、久々に会った友人との濃密な時間の余韻に浸っていた。ある駅を過ぎたあたりのこと。一人の女性の目にうっすらと滴る涙が確認できた。年齢は50代くらいで、両親よりも何歳か上くらいの風貌だった。声を出して泣きじゃくっていたわけではないので、周囲の視線がそこ一ヶ所に集まっていたわけではない。僕以外の周りの乗客で気付いていた人はいなかったように思えた。いや、もしかしたら気づいていたのかもしれないが、気を遣って見ないようにしていたのかもしれない。そんな僕も、彼女に気づかれないように様子を伺っていた。気づかれようと、気づかれまいと、気づかれる可能姓がある場所で涙を流すという行為は、その人にとってどんな心理状況の元で訪れる作用なのだろうか。そんなことを考えていた。少なからず、家で泣くのと、外で泣くのは勝手が違うように思う。帰路につく電車の中で涙を流す彼女は、何か泣いている自分をいわば作為的に演じているようにも思えた。よほど悲しいことや耐えられないような事が起きて無条件に涙がこぼれ声を上げている様子とは対極に位置しているような、静かな涙というのがふさわしい上品な涙のように感じた。上品さを纏っていることからもわかるように、そこには外界への配慮を意識しつつも、他者に対する自意識も垣間見れた。
それと同時に、ある自分の記憶が呼び起こされていた。無意識に、不意に、こちらの意志とは関係なく、不条理に滴り落ちる涙を流した記憶だ。河瀬直美監督の「光」という映画を劇場で観ていて、映画の3分の2を過ぎたあたりから涙が止まらなく出た。言葉で表現できない感情や記憶などが入り混じり、僕は声を出してしまうくらいの大量の涙を流した。身体が乾燥状態に陥るほどというと大袈裟かもしれないが、映画を観て涙を流したことは人生で2度しかない。もう1本は北野武監督の「あの夏、いちばん静かな海。」だ。どちらも男女に関わる話という点では共通している。しかし、どうして他の作品で涙を流すことがなく、この2作品で涙を流したのかは未だわかっていないし、この先もわかることはないのかもしれない。

僕がその2作品を観たときに出た涙は、理不尽に流れる涙だった。その一方では電車の彼女には「人前で泣く私は、それほど悲しいことがあったのよ。」というある種の作為も感じられた。まるで自分を正当化しているようにも思えたのだが、不思議とそこに嫌味は感じなかったし、涙を流しながらも佇まいに上品さもあった。

彼女の涙には少なからず他者への配慮がある。作為があったり、自分を正当化することは悪いことのように思うが、一番最悪なのは他者を貶めたり、自分を殺めることだと僕は思う。

上述した通り当初、僕が経験した理不尽な涙と電車の彼女が流した涙は異なるものだと考えていた。しかし、冷静になってみるとその見方は誤りだったのではないかという考えが脳裏に浮上した。彼女も実は理不尽な涙だったのではないかという見方だ。

そう。理不尽な涙を自分の持てる力を振り絞って他者の迷惑にならないように堪え、残りの乗車時間を過ごしていたのではないか。今にも溢れ出る、そして声を上げて赤ん坊のように涙を流したい自分を必死に堪えていたのではないか。

僕は乗換のためにその急行電車を降り各駅停車に乗った。その後の彼女の様子は今後決して知り得ることはない。降りる駅の前に堪え切れずに泣きじゃくれたかもしれないし、家に到着するまでその抑制された上品な佇まいの涙のままかもしれない。いずれにしても理不尽な涙はある地点を越えた瞬間、己の防波堤を越えて耐え切れず不条理に滴り落ちててしまう。その瞬間はいずれ彼女の元に訪れるであろう。
その瞬間がいつ訪れたとしても、彼女から感じ取れた他者への配慮は僕の記憶に強く焼きついたのであった。


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