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介護とわたしと心身のこと



正解もなく、ひとりひとりにとっての状況や答えみたいなものが違うであろうことなので、

わたし自身の思いや体験をどう書けばよいものかと、ずっと書きそびれていたので、

思いつくままに誰かに話すように書いてみようと思う。


家族を自宅や近くで介護や看病する人、遠距離で頻繁には会えないけど介護や看病が必要な家族がいる人、

家族の方に、心身のケアや、ほんの少しでも自分でできるケアできることがあると実感できる機会が必要だと

ずっと思っていた。まだ形にはできていないけど、何かできないかなとずっと考えていた。


わたしは数年前に母が要介護となり、4年前に他界した。

実家から車で1時間ちょっとくらい離れているのと、仕事もしていたので

いわゆる遠距離介護というのにあたる。


もちろん公的な介護サービスを母は受けていたので、ケアマネージャーさんやヘルパーさん、介護施設の方には

本当にお世話になった。この方々がいなかったらどうなっていたことか。


今から思い返せば、その予兆はあったのだと思うけど、

なんとなくそれを気づかないようにしていたのだと思うし、両親も認めたくなかったのもあるだろうしで、

介護が必要になる日は予告なくやってきた。


そこからは怒涛のように手続きに走り回り、やること考えること山盛りとなり、

心身ともによろよろに疲弊する日々のはじまり。

両親ができるかぎり大きな変化がなく、サポートを受けながら暮らしていけるために、

わたしの心身を削る日々となる。自分の家の片づけをする時間も心余裕もなくて、家がえらいことに!(笑)


ここからの数年間、現在もだけど、

やるせなさ、かなしさ、さみしさ、イライラ、怒り、罪悪感、絶望、希望、

人間ってこんなに感情あるんやというくらい、ありとあらゆる感情があふれてきた。

これが本当にしんどかった。


母が自分のことをできなくなったことへのかなしさと、腹立たしさが怒りになって、

母にきつい言葉をぶつけることもあったし(近い関係だと余計に歯止めがきかない)、

そんなやさしくない自分にも腹が立つし、落ち込む。

怒っていると辛いものを食べたくなるので、「おっこれはまさにピッタ(火)の要素があがっている」

と自己分析も忘れない(笑)


仕事もできなくなるんじゃないかという不安と、

朝起きたときに「あぁ今までのようにはいかないんだな」と思う朝イチの絶望と、

ずっとお腹のなかに心配と不安と絶望のかたまりを持って生きているような感じが

まだ残っている。

そして母と父がどうにかすこやかに楽に暮らしていけるようにできることはやりたいという思いもあり、

自分の中の感情が忙しい忙しい。


楽しい予定に行くことにもすごい罪悪感を持っていたし、極端なことだけど

楽しいな、うれしいなって思っちゃいけないくらいに思っていた。(今のわたしからそんなことないよって言ってあげたい)


そして親が介護が必要になる世代というのは、自分自身も更年期という世代に入っていたので、

今日元気だけど、明日はめまいがしてるかもしれない、どうかわからんという状況だったのだけど、

病院への付き添いや、手続きや、呼び出しなどで、自分自身の健康状態は誰も気にしてはくれない。

これもなかなかのしんどさだった。

わたしは子供がいないけど、同じ世代で親が介護が必要になってる方の中には、子供さんの学校や受験なども

重なっている方が多いのではないかなと思う。



そして、周りからの

「娘さんいてよかったね」(きっと「お嫁さんいてよかったね」バージョンもあるのでは)

「ひろみちゃん、頼んどくね」(年に1回も会わない親族より)

「仕方ないやん」

「わたしやったらそんなことできへんわ~」(介護サービスを受けると話したときに)

という、「娘」という属性に対しての「こうあるべきだろう」という言葉に、モヤモヤしたものだ。

このモヤモヤはわたし自身の中にも、そうあるべきというものが潜んでいて、そうしていないことへの罪悪感もあったのだと思う。

ありがたいことに、両親が今まで「娘だから、女だから」ということをわたしに一切言うことなく育ってきたので、この年になって周囲からこんなに言われるとはな!とすごい反発心で確実に人相が悪くなってたと思う(笑)



「いろいろな感情や体験も学び」なんて言えるのは、ずっと後になってからのことで、その渦中にいたら、この湧き上がる感情をどうしたらええんや!なのだ。


いろいろな感情や経験をしながら、それを俯瞰しながら「今わたしはどう感じているか」とみている自分もいて、

わたしこういうところあるよなとも思った。

介護の話や、家族に対しての感情の話は、あまり話されることがなかったし、どちらかと言えば愛を持ってやさしくケアするものというテレビCMのようなイメージも勝手に持っていて、

どうしたらいいかなと、なかなか人には話せずに孤独になっていたときに、ネットでたまたま見つけた遠距離介護をされている女性のブログで、わたしと同じような葛藤や苛立ちが綴られていたことにとても救われたのを覚えている。



そして、母を担当してくれたケアマネージャーさんが

「仕事はやめたらダメ。あなたはこれからも生きていかないといけないんだから、自分の生活を守ってください。」と何度も何度も言ってくれたことに助けられた。



そして、ヨガがセルフケアが役に立ちました☆(キラン☆)みたいなどこかの宣伝みたいな言い方はしないけど、

トイレやお風呂でハァァァァァァと息を吐きだすことで本当に気分がすっきりしたし、

ヨガをしているときは、いつも一緒になってた不安や心配ごとから意識を離して、自分に意識を戻すことができて正気に戻れたし、

ヨガや瞑想や心のはなしやアーユルヴェーダや好きな世界に触れている時間があることに本当に助けられた。

自分のいろいろな感情を角度を変え、視点を変え、観察できていったのはいい体験だったと後になって思う。


SNSも、自分と外の世界を繋いで好きなものの世界に出かけられてる気分になって「ありがとうやで!」と思った。


そして何より、

「親の介護をしている人」

「誰かの娘さん」

とかいろいろな属性から離れた、わたし一個人で過ごせる場所と時間の存在が本当にありがたかった!



それもあって、わたし自身の感じたことや体験したことをきれいな言葉ではなくて

まさに思いつくまま書くことで、自分自身の整理にもなり、誰かのひと息になればと思っている。



楽していい、楽しいこともうれしいこともやっていい、

自分の人生を生きていい、

しんどいときは休んで、

離れる時間持って、

人の手をかりて、

自分のからだもこころもいたわっていいからね!

いろいろな感情にギューっとなっても、わたしもあなたも健やかさのひかりはいつも内側にあるからね!

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