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ゴースト・リンク①

あらすじ
富士見医大の学生、白倉東子は落水事故をきっかけに、自らが自在に幽体離脱できる体質であること知る。そんな時、親友の麻里絵から深刻なストーカー被害を相談されるが、それは生身の人間が薬剤の力で幽霊化した「赤い悪霊」の仕業なのだった。幽霊化を促す薬は、亡き父親が命懸けで開発した麻酔薬の一種でもあった。幽体離脱して親友を苦しめる悪霊を追い詰める東子だったが、やがて国家機関を巻き込んだ薬の争奪戦に翻弄されていく。

 第一章  臨死体験

 大学病院に幽霊が出るという噂は、数年前から囁かれていました。なのに身近な人から幽霊を見たという話は聞いたことがなく、誰かが創作した都市伝説なのだろう、結局はそういうことになっていました。
 わたし個人としましては、ちょっぴり期待していたのですけれど。

 

 隅田川の両岸を行き来する傘の群れが、慌ただしく動きはじめた。
 スタートする頃に降り出した雨は、今ではゴール地点の桜橋さえ霞んで見えるほど。
 海へと流されていく競技艇をオールで留めなかったのは、ゴール前のスパートで痙攣した右足がそれを許さなかったから。ただ、『白倉東子』と書かれたオールの上を、大粒の雹が流れていくのを見送るしかなかった。
 横波が舷側を叩きはじめる。下流に、審判員を乗せたモーターボートが横っ腹を見せていた。太股の痛みに耐えるだけで精一杯のわたしに、ひび割れた拡声器の声が追い打ちをかけてきた。
「早くスタート地点に戻りなさい。次のレースの邪魔だ」
 春の大学親善レガッタ──エキシビションレースとはいえ最下位に終わった悔しさを込めて、足の蹴りをオールに伝える。
「痛っ!」
 思わずオールから離した手は、悲鳴を上げつづける太股に添えられていた。次の瞬間、両岸の風景が、ゆっくりと横倒しになっていく。絵に描いたような転覆。水に落ちた瞬間は、少しだけ笑っていられた。痙攣した右足が言うことをきかないことを思い出すまでは。
 水温が足の筋力を奪っていく。顔が水面上にある時間はひと呼吸ぶんも許されない。焦りで飲み込んだ水を吐き出すと、貴重な空気も一緒に出ていってしまう。
 苦しい。激しく水を掻いているはずなのに、その音さえ聞こえない。見えていたのは肺に蓄えていた最後の気泡が列になって昇っていく様子。

 時間がなくなった。

 暗い。なにも聞こえない。
 なにも感じない。

 違う。
 光も音もないと感じる意識があった。
 暗い空間を、意識だけが猛スピードで突き抜けていく。この闇はいつまでつづくのだろう、そう思いはじめた途端、行く手にポツリと明かりが見えた。やがて、その光が大きく、輝きを増すにつれて、ここがトンネルのような空間らしいことがわかった。
 正面からの光がわたしを包み込む。陽の光の何十倍ものまぶしさに変わった次の瞬間、視界が開けた。
 目に飛び込んできたのは、雨雲の底を突いて、すっくと立つ尖塔──東京スカイツリー。他に見間違いようのない建造物を、わたしは高い視点から遠望しているのだった。足元には、アルファベットの“X”の形をした桜橋。その東詰めには、名物の団子屋の屋根が雨に濡れている。
 不安はない。痙攣していた右足に痛みはなく、むしろ気分は清々しい。すべては健常の状態と変わりはない。ただ、自分の身体が淡く輝いていたことをのぞいては。
 ぼうっとした足の輪郭の下、一人乗りの競技艇──シングルスカルが、濡れた船底を上にして下流の言問橋へと流されていく。その傍らには、トリコロールのユニフォームを着た女子選手が、うつ伏せに漂っている。ゼッケンに『富士見大 白倉東子』と記されているのを確かめるまでもなく、それが自分の脱け殻だということにも気づいていた。
 夢ではない。思考は冴え、五感のすべてに現実味がある。わたしは十九年間をともに過ごした身体を見つめた。だけど、いつまでも空中に浮かんでいられない予感がしていた。まもなくパパが天国から迎えにやって来る、そんな予感が。
 水面を漂うわたしの身体に、シングルスカルが近づいていく。
 長い手足、肩から二の腕にかけて盛り上がる筋肉で、男子選手であることはわかる。わたしのと同じトリコロールのユニフォーム。ゼッケンをつけていない。つまりオープン参加。
 思い当たる部員はひとりしかいなかった。
 彼はオールでわたしの身体を引き寄せると、競技艇を操って言問橋の下へと消えていく。もはや上空からはうかがい知れない。でも、わたしの身体がどうなったのか、わたしはどのように人生を閉じるのか確かめずにはおれない──そう念じた、ただそれだけで、わたしの意識は言問橋へと近づいていった。
 動こうと念じるだけで移動できるらしい。だけど、ひとたび勢いがついたら加減ができない。橋の往来は、目と鼻の先に迫っていた。軽自動車の赤い屋根が目の前をかすめ、つづいてやってきた宅配便のクロネコマークに激突──はしなかった。
 わたしの意識は道路を突き抜けて、橋の下の狭い空間にとどまっていた。
 思ったとおりだった。四年生の黒澤良介──部内では褐色のダビデと呼ばれている変わり者──緩くウエーヴした髪、日本人離れした彫りの深い表情、日焼けした肌の下から適度に盛り上がる筋肉が、ミケランジェロ作の彫像を彷彿とさせるからだ。黙々と練習はするくせに、公式レースには一度も出たことがない。そんな彼が、脱力しきったわたしの身体を、護岸に引き上げようとしていた。
 ダビデの耳が、わたしの胸に押し当てられる。
 顔面に火照りを覚えた。肉体は護岸に横たわっているのに、意識はたしかに感じていた。
 黒澤良介は、指を開いた両手を濡れたユニフォームの胸に押し当て、掛け声とともに圧迫しはじめた。
 なにをしているのかは承知しているつもりだった。だけど、すぐに心マッサージの手が止まる。ふう、と一息ついた黒澤良介は、額の汗をぬぐった左手を、わたしの後頸部にあてがった。こうすることで喉が開くのだ。医学部の学生でもある彼が、次になにをしようとしているかは想像がつく。
 やめて!──
 たしかに叫んだ。なのに黒澤良介は反応しない。
 わたしは念じた。もっと彼に近づきたい、と。
 今度はうまく距離を保って移動できた。わたしに覆い被さろうとする肩ごしに、濡れたユニフォームの胸がゆっくり、そして大きく膨らんでいくのが見えた。
 キスではないことは承知している。
 悲しかった。頬に熱く湿ったものが流れるような感覚はない。だけど、わたしは大粒の涙をしたたらせて泣いていた。

 急に寒々とした感覚が頭のてっぺんから突き抜けていく。両手両足は、氷水に突っ込んだようにしびれ痛い。息苦しさが襲ってきた。この感覚は、溺れかけていた時と同じ──そう理解できた瞬間、わたしの意識は再び凍りついた。

 2

 痛みだけがあった。
 目の奥から首筋にかけて、糸でツンと引っ張られるような痛み。
 そして金属がきしむ音──たぶん、くたびれたパイプ椅子の背もたれからだろう。
 かすかにクレゾールの臭いがする。細菌実習でてんてこ舞いの四年生がまとっていた臭いだ。
 顔の横に、誰かが立っているようだった。閉じたまぶたを通して影が横切るのがわかる。
 ゆっくりと呼吸を整える。
 誰かが盛大なくしゃみをした。
 それをとがめる声。
 大声は勘弁してほしかった。
 声や音がするたびに、最初に感じていた目の奥の痛みが強さを増していくんだもの。
 最初に見えたのは、麻里絵の泣き顔。見るまに、顔のパーツが中心によっていく。胸元には、指が白くなるほどに固く握られたハンカチも。
「東子、信じていたよ。きっと目を覚ましてくれるって」去年のミス・富士見大の頬に涙が伝う。「麻里絵、わたし……」
 仰向けの視界の四方八方から顔が突き出される。三木主将とコックスの伊藤先輩は当然として、エイト二艇分ほどの部員がユニフォーム姿のままでベッドを取り囲んでいた。だけど、そのなかに私の唇を奪ったあいつはいない。
“大丈夫”か“よかった”的な言葉を口する面々の中から、麻里絵の泣き顔を選び出す。
「ここは、どこ?」
 嗚咽に埋もれて答えられない親友を押し退けて、体育会系を絵に描いたような体格の三木主将が立ちはだかった。
「ウチの附属病院だ。あんな冷たい水に落ちて、溺れなかったのが不思議なくらいだよ」
「じゃあ、わたし……」
「気を失っていただけだそうだ」
 違う。わたしは心肺停止状態だったはず──反論しようとする唇を薄い毛布で覆い隠し、主将の問わず語りを促した。どうしても確かめておきたいことがあった。
「あとでドクターから説明があると思うけど、立てるようだったら帰ってもいいってさ」
「溺れたのに?」
「だから東子、おまえは溺れてなんかいない。気絶していただけなんだってさ。ドクターの話じゃあ、ここへ運ばれてきた時は呼吸も脈も正常だったらしいぜ。CTでも異常所見はなかったし、血酸も正常。身体のどこも傷ついちゃあいない」
「じゃあなんで、わたしは気を失っていたんですか?」
「そんなの……。そんなの、俺にもわかんねえけどよ」三木の唇が尖る。「転覆して、どうにかこうにか岸に這い上がったものの、体温が低下していたんじゃないのか?」
 低体温が意識低下を招くことは内科学で習った。でも、そんなのは冬山遭難の時なんかに起こる極端な状態じゃなかったっけ? 隅田川の水は、そこまでは冷たくなかった。
 あれは夢なんかじゃない。現実感があった。東京スカイツリー、桜橋のエックス型、言問団子のお店、転覆したシングルスカル、そこに近づいていくのは褐色のダビデこと黒澤良介──頭が真っ白になる。
「おまえ熱があるんじゃないか?」
 私は、自分のおでこへ向かう主将の手の払いのけてしまった。
「すみません!」
 毛布を引っかぶったのは、主将の悲しげな眼差しを見ないためではなく、火照った頬の理由を悟られたくなかったからだった。
 意識が肉体を抜け出して、黒澤良介の救命処置を傍観していたのだと思いたいけれど、いちおうは医療系の学部に所属している自負が異を唱える。感情と脈絡のない夢を見ない──大脳生理学の教授はそうレクチュアした。だとしたら私は、あの黒澤良介という変わり者に気があるというのだろうか──
「あの……ここに黒澤先輩はいないんですか?」
 誰にともなく毛布の下から尋ねると、入れ代わりに三木の尖った声が突き抜けてきた。
「なんで、あんな野郎のことを」
「だって、救急車を呼んでくれたの、彼なんですよね?」
 舌打ちが聞こえた。
「んなわきゃねえだろう。あいつ、東子が溺れたって知らせが入った時、てめえの車に艇をくくりつけて帰り支度してたんだぜ。ま、オープン参加だから、俺たちと行動をともにする義理はねえんだけどよ」
「じゃあ、わたしはひとりぼっちで運ばれてきたんですね」
「いんや、審判員の方が付き添ってくれたんだ。あとで、お礼に行かなくっちゃな」
 つまり、私が溺れたところを他のクルーは目撃していない。黒澤良介が隅田川にいたという事実だけで十分。あの時のリアルな感覚は、夢のなかの体験ではありえない。
 だけど、どうせわかってもらえないよね──毛布の下で眠ったふりを決め込む。するとベッドの周囲から複数の足音が遠ざかり、代わりに覚えのある気配が簡単な礼を述べながら近づいてきた。そして、いきなり毛布の上から抱きしめられた。
「東子!」
 毛布がはぎ取られると同時に、熱い液体が顔に滴ってきた。
「やめてよママ。別に泣くようなことじゃない。わたしは平気、気絶しただけなの。そうよね、みんな」
 誰も応じてくれない。気まずい沈黙を引き取ったのは、毛嫌いしている三木主将だった。
「では、お母様。わたしどもは、これで失礼いたします。大学側には、わたくしの方から報告しておきますので。あとは、ごゆっくりどうぞ」
 べらんめえ調を封印した三木は、
「自分の判断で大丈夫だと思ったら、いつでも練習に出てこい。ただし、焦んなくていいぜ。来月アタマの東京市民レガッタまでに復帰してくれりゃあいいからさ」
 と告げて背を向けた。
 ママが、病室を出て行く部員ひとりひとりに頭を垂れてから向き直った時には、わたしはベッドに腰かけていた。溺れたのは確かだけれど、以前よりずっと爽快な気分だ。
 五感が鋭くなった気がする。特に聴覚はすごい。カーテンがこすれあう繊細な音が鼓膜を震わせる。その代償として、金属質の騒音──例えばナースたちのピンセットが消毒瓶のふちを引っかく音なんかが、ひどく耳障りだ。
「東子……、寝てなくて大丈夫なの?」
 肩に触れようとしたママの指を、両手でそっと包み込んでやる。
「ねえ、幽体離脱……っていうのかな。魂が身体を抜け出して、自由に飛び回るってこと、本当にあると思う?」
 鋭くなった聴覚は、ママが声を詰まらせたことを捉えていた。
 ママは痩せた肩を上げて息を吸い込むと、そのまま顔を窓に向けた。そこには皇居の緑と武道館のタマネギ屋根が間近に見えていたから、ここが以前、パパが麻酔科医として勤務していた病院──私立・富士見大学医学部附属病院なんだって、あらためて実感できた。
 ママの背中に告げる。
「わたしね、溺れた自分を空中に浮かんで見ていてたんだ。本当だよ」
「なに寝ぼけたこと言ってんの。夢を見たのよ、ゆーめっ」
 振り向いたママは、眉根にしわを寄せ、さらにまぶたを指で柔らかく押さえていた。まぶしかったのだろうか。だけど、窓の外はゲリラ豪雨の名残の曇天。日差しは強くない。
 私は、ベッドから降りてしまった。
「ううん。夢なんかじゃない。わたしね、たしかに自分の身体を抜け出して、いろんなものを実際に感じたの」
 ママはベッドに腰かけると、私を見上げてきた。
「東子……。その様子じゃあ、思い過ごしよって言っても聞きわけないわよね」
「うん」
「だよね」かすかな笑い声のあとに、ため息を付け足し、「わかった。信じるかどうかは別として、東子が感じたことを詳しく話してごらん」
 持病のぜんそく発作を起こしたのだろうか、ママの顔色は、普段よりずっと白く見える。
 競技艇が転覆したシーンから話しはじめる。苦しさは一瞬で、すぐにトンネル状の闇の中に放り込まれた。出口から漏れる光に向かって飛んでいくと、それが太陽の何千倍もの明るさになった直後に、意識が隅田川の上空に浮かんでいた。東京スカイツリー、裏返しになった競技艇、うつ伏せで水面を漂うわたしの肉体、別の競技艇に乗った誰かが助けに来てくれた──つづきは言えなかった。
「うん、わかった」ママは薄く頷いた。
「って……。なにが、わかったの?」
「やっぱり夢よ。ほら、溺れる人は、自分の生涯を一瞬にして見るっていうじゃない。あれと同じように、周囲の景色が……」
「違う、違う!」
 言葉を遮られはしたけれど、ママは、すぐに冷めた視線を投げてきた。
「だって、なんの証拠もないんでしょう?」
 言葉につまる。
 変わり者扱いされている先輩、黒澤良介に確かめてみるのが最速最良の証明なんだろうけど、それはできそうになかった。彼が他の部員と口をきいているところを見たことがない。ましてや私も。
 思い出せ。ママを納得させられるなにかを╶──
 記憶を読み返す。あの時、最初に見えたのは、雨雲の底を突き刺す東京スカイツリー。足元にはエックス型をした桜橋。その東詰めには、名物の言問団子の店。屋根が折からの雨に濡れて輝いていた──雨樋になにかが引っかかっている──ボールだ。大きさはバレーボールか、バスケットボール──いや、きっとサッカーボールだ。ワールドカップの中継で見た時の配色にそっくり。ミミズが這ったような黒い線は、誰かのサインなのだろうか──

 目の前が闇に閉ざされる。
 まただ。あの時と同じ感覚──
 両足で立っている感覚が無くなりかけたその時、ママの細い指が、わたしの肩口を揺り動かす。
「東子しっかり! 大丈夫?」
「あ、うん……」心配げに見つめる瞳に告げてから、大きく深呼吸した。「桜橋の東詰めにお団子屋さんがあるんだけど、そこの屋根にサイン入りのサッカーボールが転がっていると思うの」
「見たのね」
「うん」
「はっきりと?」
「うん」
 ママの口が次第に大きく開いていく。それが閉じたかと思うと、鼻から息を大きく吐き出して、うつむいた顔を左右に振った。ぜんそくの具合でも悪くなったか、と声をかけようとした瞬間、ママは短いフレンチ袖をたくし上げながら立ち上がった。
「行くよ、東子」
「って、どこへ?」
「退院すんのよ。あんた、歩けるようだったら帰っていいそうじゃない」
 ママがわたしの腕をつかんだ時にはすでに、彼女の爪先は病室のドアへと向かっていた。

 富士見大附属病院は、エントランスホールからJR飯田橋駅のホームが見通せるほどの好立地にある。なのにママが、神楽坂を下ってきたタクシーに手を上げたのは、わたしの身体を案じてのことではないくらい承知していた。彼女の目が、リアウインドー越しに病院のたたずまいを追いつづけている理由も。
 両親が学生時代を過ごした馴れ初めの地。そしてパパが命を落とした悲しみが残る地。ママにしてみれば、もう二度と訪れることはないと思っていたはず。
 彼女が居住まいを正した時には、タクシーは靖国通りを東へ向けて走っていた。ママが告げた行き先は聞き逃してしまったけれど、薄々わかってはいた。
 ママは正面を見据えている。私も沈黙の理由を訊かなかった。わたしが富士見大を受験したことを、ママは未だに快く思ってはいないことだけは確かなことだった。
 秋葉原を過ぎるあたり、低いガードの真下で信号につかまる。暗くなった車内では、ママの顔色がいちだんと白く見えた、と感じた次の瞬間、彼女はこぶしのなかに強い咳を吹き込んだ。
 ぜんそくの症状がひどくなったのは、パパの一周忌のあと。その頃から彼女は人前で涙を見せなくなった。私と弟を育て上げなきゃならない使命感がそう決意させたのかもしれない。
 やがて両国橋を渡り、国技館の脇をすり抜けてからの数分間、隅田川の右岸から差し込んでくる夕日が、ママの頬に伝う涙の筋を金色に染めていた。見てはいけないものを見てしまった気分になった。
 涙の理由を考えるうちに、タクシーは川沿いに停車していた。ママは料金を支払ったあと、どこへ行くとも告げず、さっさと川沿いの歩道を上流へと向かう。私は距離を詰めるために慌てて追いかけた。
 追いついてきたわたしには目もくれず、ママは歩調を緩めずに言った。
「どこなのよ」
 私は強引にママの手を取り、肩を上下させながらやっと告げた。
「……どこって」
「決まってるじゃない。屋根にサッカーボールが乗っかっているっていう団子屋さん」
「すぐそこ。この辺りで団子で有名なお店って言ったら、この先にしかないもの」
 言い終わらないうちに、ママはまた先に立って歩きはじめた。だけど今度はゆっくりと、私に歩調に合わせて。
「東子。もし本当に、お団子屋の屋根にサッカーボールがあったらの話なんだけど、わたしたちの秘密をちょっとだけ話してあげるわ」
「たちって……もしかして、ママとパパのってこと?」
「そう……よ……」
 言葉尻が湿っていた。ママの足が速まる。きっと泣き顔を見せたくなかったんだろうな。

「くださいな」
 団子屋の暖簾を押し上げる頃には、ママは笑みを取り繕っていた。応対に出てきた年配の女性店員に団子の包みを三つ注文してから、ママはおもむろに交渉に臨んだ。近くの隅田公園を散歩していたら、突風にお気に入りの帽子を飛ばされ、この店の屋根に舞い落ちたらしい。だから屋根に登らせてはもらえないか、と。
「帽子が飛ぶような風なんて、吹いてたかねえ」
 首を傾げる女性店員を尻目に、作り話を真に受けた店主らしき老人が奥から出てきて、
「なんなら物干しにあがってみますか。お帽子に手が届かないまでも、大屋根を見通すくらいはできるでしょうから」
 と好々爺の笑みを浮かべて、レジ横の沓脱ぎを指さす。
 店主から譲歩を引き出すことに成功したママは、なんの臆面もなくわたしにウインクを送ると、店内のイートインコーナーに目をやり、
「まだ気分がすぐれないようだったら、そこでお茶でもご馳走になりながら待ってなさい」
 そう告げて、買ったばかりの団子の包みをわたしに押しつけたけど、できない相談だった。沓脱ぎにスニーカーを放り出した時には、ママの背中は階上へ消えようとしていた。
 狭く急な階段の終点は、金色の光に満ちていた。西日をもろに浴びる物干し台は、向島界隈のビル群が見渡せた。老店主の白い作業衣が、対岸の浅草へ沈んでいく夕陽を遮ってくれるおかげで、彼の心配げな視線の先を追うのに苦労はなかった。大屋根の甍ごしに、フレンチ袖の肩口が見え隠れしている。
「どうです、ありましたかな」
 店主の問いかけに、かなり間を置いて、
「ええ」
 と答えたきり、ママはこちらから見通せない大屋根の反対側へと消えていく。そして、しばらくして中腰の姿勢で戻ってきた彼女は、例のサッカーボールを手にしていた。
 驚きはなかった。ボールは必ずあると確信していた。
「帽子はありませんでした。代わりに、こんなものが」
 店主の眉間に深いしわが寄ったのは、古希前後の年齢のせいだけではなかったはずだ。そのおずおずと差し出された手のひらに、ママは半ば強引にボールを乗せてしまった。
 ママは、あっけないほどサッパリした笑顔を店主、そしてわたしの順に向けてから、大きなため息を汗に濡れた前髪へ吹き上げた。血色もいい。西日にあぶられていることを割り引いても、タクシーの中で見せたような白い顔ではなく、生命力あふれる完熟した桃色。
 わたしの背後から、足音が階段を登ってきた。
「あ、それ」最初に応対に出た女性店員だった。「FC東京のゴールキーパーだった、ほれ、ワールドカップで活躍した、なんとかって選手のサインボール……。孫が探していたんですよ。どこにあったんです?」
 ママは、スカートについた埃を払いながら言った。
「雨樋のすみっこに引っかかっていました」
「そうですか……。で、お客さんのお帽子は?」
 ママは竹箒のように骨が浮いた手で、額に浮きでた汗をぬぐう。
「いいんです、もう。よーく、わかりましたから」
 きょとんとした表情で見交わす老夫婦のあいだで、私だけがうなずいていた。


 ママは爪先を投げ出すようにして、桜橋を渡っていった。
 うしろ手に組んだ指には、水ようかんを入れた紙のバッグが絡みついている。孫の宝物を見つけてくれたお礼にと、団子屋の主人が渡してくれたものだ。それを振り回すようにしてママが下流側の欄干に頬杖をついたのは、対岸へあと数メートルに迫った時だった。
「ねえ東子」ママは、両の手のひらに挟まれた唇で言った。「わたし学生時代ね、この橋の上からパパのタイムを計っていたのよ」
 わたしが駆け寄る。
「じゃあ、ママもボート部員だったの?」
「ううん。部員でもマネージャーでもなかった。タイムを計ったのは隅田川のレースの時だけ、観客にまじってこっそりとね」
「……びっくり。パパが競技艇を漕いでいたなんて、はじめて聞いたし」
 ママが学生時代の思い出を語りたがらないのは承知していた。パパと大学をセットで語るのは、御法度なのかもしれないと勝手に思っていた。
 ママは、下流に向けて唇を尖らせる。
「だけどさ、私に内緒で富士見大を受けるなんてさ。薬学部だったのはギリ許せるとして、よりによってパパと同じボート部に入るなんて……。どういうこと?」
 夕景を背に訝るママと並んで欄干に頬杖を突く。
「ボート部に入ったのは偶然。でもさ、パパのことが大好きだったのだけは確かね。ママにとって大学には辛い思い出しかないかもしれない。だけど、わたしにはパパが生きていた場所で呼吸できるだけで幸せなの」
「じゃあ東子はパパの……」ママは一瞬ためらい、そして一気につづけた。「パパの悪い噂、大学で聞いたことある?」
「うん……まあ。そのものズバリではないけれど……」
 考えただけで胃袋がぶら下がっている辺りが熱くなる。キャンパス内で、ママが言うところの黒い噂を耳にしないのは、パパが引き起こしたとされる不祥事がグレーゾーンにあるから。罪を立証する証拠もない代わりに、逆もまた真なりなのだった。
 ママはきっぱりと顔を上げた。
「でもね東子、わたしは信じてる。パパは学生時代から、まっすぐな人だった。あの若さで教授になれたぐらいだから、ものすごく優秀だったし、なにより家族を心から大切にしていた……。ね、そうでしょ?」
 ママの目がこんなにも輝いたのは、あの日を境に見たことがない。愛するパパ、家族思いのパパ、この世でただ一人のパパが、附属病院の屋上から身を投げたあの日以来。
 ママの問わず語りは、滑らかに回転を上げていった。ユニバーシアードにおけるパパの戦績、アイドル同士みたいにこっそりデートしていたこと、大学の教員になってからはパパのゼミは女子学生ばかりになったこと等々。そんなママの瞳が輝きを失ったのは、日没のせいだけではなかった。
「帰ろ、東子。遅くなったら、お腹をすかせた朝日がうるさいから」
「パパとママの秘密って、それだけ?」
「だったら、どうなのよ」
「つまんない。のろけ話ってさ、自慢話のなかでも一番タチが悪いものよ。ひとりで勝手に盛り上がっちゃってさ」
 ママは、藤色へと変わった空を映す川面を見つめた。
「じつは、わたしもなの」
「……え?」
「わたしも、意識が身体から抜け出すことがあるの」
「……じゃ、じゃあママも、ゆ、ゆ、ゆ、ゆう、ゆう、ゆうたい……」
「幽体離脱。これも遺伝ってわけなのかしらね。あなたには、そんな能力はないと思ってたけど」
 ママの目をまともに見たのは、今日はじめただったかもしれない。
「だけど東子、肉体から抜け出るのは幽霊じゃなくて意識なんだから、幽体離脱って言い方は間違っているわ。正しくは、体外離脱と呼ぶべきだって教わったの」
「って誰に?」
「信頼のおける霊能者によ。そのうち、東子にも紹介するわね」
「そのうちじゃなくて、今すぐ紹介してよ」
「だーめ。幽霊方面の話は、今日はこれくらいでおしまい」
「なんでよ。秘密を話してくれるって言ったくせに。もったいつけてさ」
 ママは、水ようかんの袋を下げた手をうしろに組むと、マイムマイムのようなステップで浅草側の橋詰へと歩きだし、対岸へピョンと飛び乗ったところで振り向いた。
「小学一年生には、まだ掛け算は教えないものよ」
「話が違うわ」
「ききわけなさい。来月には二十歳になるのよ、東子は」
「だけど」
 なおも食い下がるわたしの目の前で、向き直った唇がツンと上を向く。
「これだけは覚えといて」グッと近づけてきたママの目が真剣な色を放っていた。「東子は今後も、体外離脱することがあるかもしれない。何回か肉体を抜け出して意識だけの存在になった時に、いろんなことができることに気づくと思う。例えば……」
「壁を通り抜けたりとか」
 ママの目が丸くなる。
「すでに体験済みってわけね。東子が女の子でよかった」
「え、どういうこと?」
 ママはわたしを上目づかいに一瞥してから、岸辺を浅草方向へ歩きだした。
「もしも自分が同じ年頃の男の子で、壁を自由に通り抜けられる透明人間だったとしたら、まず何をすると思う?」
 すぐに気づいた。親友の麻里絵に相談を受けていたのだった。彼女は四六時中、誰かにのぞかれている気がしてならないと言う。女性専用車両にしか乗らない麻里絵の杞憂、萌えキャラのような容姿につきまとう必要経費だと思っていたけれど、三木主将からのストーカー的な愛情を被ってからというもの、彼女のことを笑えなくなっていた。
「東子もわかったみたいね」
 私は強張った顔の筋肉を両の手のひらで揉みほぐす。その様子に、ママはひとしきり苦笑した。
「いい? 相手に見えないからといって、いたずらに他人のプライバシーをのぞいちゃあダメ。意識だけになって得た情報を口外してもいけない」
「わかった」
「それと……」言い淀んだママの表情から血の気が引いていく。「体外離脱すると、いろんな霊の姿が見えるようになるの。だけど、向こうから話しかけてくる霊がいても無視するのよ」
「って、それは悪霊ってこと?」
「詳しくは知らないわ。だけど、医者や弁護士のように人助けを商売にしている人たちにだって、悪い連中はいるじゃない。霊も同じなの。いろんなやつがいる。ほとんどは無害で他人に干渉はしないんだけど、積極的に話しかけてくる霊は、まず悪いと思っていい」
「なにがなんでも無視するのね」
「そう。特にタチが悪いのが、赤い色をした霊なの。輪郭がぼやけた気味の悪い姿に見えるから、初心者の東子にもすぐにわかるわ」
「もし、悪い霊と話をしたり、あとをついていったりしたら?」
「それだけは絶対にやめて。おかげでパパは……」
 ママの目が大きく見開かれる。言ってから悔いた様子なのは明らかだった。
「詳しく教えてよ。パパがどうしたの? ねえ……」
 ママは輝き始めた星を見つめ、
「もっと時間をちょうだいな。そのうちに、話せるようになると思うから」
 震える唇で吐き出し、
「たぶん」
 と付け加えた。

ゴースト・リンク②
ゴースト・リンク③
ゴースト・リンク④
ゴースト・リンク⑤
ゴースト・リンク⑥
ゴースト・リンク⑦
ゴースト・リンク⑧

#創作大賞2023
#ファンタジー小説部門

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