ゴースト・リンク⑥

○ 第六章  汚 名

 パパは横領の発覚を苦にして、附属病院の屋上から身を投げたことになっています。だから私も普通じゃあない目で見られることがあります。朝日がパパを毛嫌いするようになったのは、きっと周囲から何か言われたせいなんでしょう。
 だけど最近、わたしは信じられるようになりました。パパが最期の力を振り絞ってこの世に残した、“おまえたちが大人になったら、パパは必ず帰ってくるからね”という言葉を。だって、石戸さんは断言してくれたんです。姿は見えないけど、パパはいまだに私たち家族を守っている、と。



 明け方の惰眠を苛んでいるのは、食器がぶつかりあう音だった。
 ママはいつから、あんなふうに荒っぽく食器を扱うようになったんだろう。とてもじゃないけど寝てなんかいられない。
 文句のひとつも言ってやるつもりで階段を降りる。暖簾の下にエプロンの裾が揺れていた。
「どうなの、麻里絵の容体は」
 エプロン姿がゆっくりと振り返り、暖簾を押し上げる。あくびに誘発された涙目で見たものは、フライパンを片手に微笑む弟だった。
「朝日、なんであんたが……」
「ここにいるかってえとだね」
「待った。みなまで言うな」わたしは開いた手のひらを弟に向けた。「あんたの学校、昨日から夏休みなんだよね」
「知ってんなら聞くんじゃねえっつーの」
 唇を尖らせた朝日は、フライパンの中身を、ダイニングテーブルへと運ぶ。大皿、小皿、ナイフにフォーク、それぞれ二人分が用意されていた。
「あんたが作ったの?」
「だったらどうした。食わねえんなら、俺がみんな食っちまうぜ」
 朝日は椅子を鳴らして食卓についた。
「食べないなんて言ってないし」
 否応のなさが癪だったけど、私もフォークを手にとる。
 ハムエッグは合格。トーストの上にナメタケが乗っかっているのには目をつぶる。問題なのは、コップに注がれた朱色の液体。わたしの大嫌いなトマトジュースだ。
 こいつ、どういう風の吹き回しか──
 意外なほど違和感のないナメタケトーストを頬張りながら、エプロン姿の弟をしげしげと眺めた。目を合わせない。昨日、ビンタしてやったのを根に持っているんだろうか。それとも非を認めて謝罪の言葉を練っているんだろうか。
 ふたりとも、黙々と食事を口に運ぶ。弟は朝食をあらかた平らげたところで、
「姉貴、これ」
 テーブルになにかを投げ出した。輪ゴムでとめられた封書の束だった。そのなかから、一番上にある封筒を抜き出し裏返してみる。
『白倉達男さま、ご遺族さま』宛ての封書の束を指ではじく。
「どういうこと?」
「レシピエントからの手紙」
「わかってるよ。わたしが聞いてんのは、捨てたはずの手紙が、どうしてここにあるのかってこと」
「隠していたんだよ。本当に捨てるつもりでいたけど、できなかった」弟の肩がすぼまる。「姉貴に引っぱたかれてさ、まあその、言いにくいんだけど目が覚めたつーか、反省したつーか。はじめてだったじゃね、姉貴のビンタ食らったの。涙を見たのも、ずいぶん久しぶりだったし。こりゃあ、ただごとじゃあねえなって思ったわけ。ごめんなさい!」
 額をテーブルにこすりつける弟を睥睨して、長いため息を吐き出した。
「ところでさ、箱はどうしたのよ」
「箱?」朝日の眉根にしわがよる。「ああ、鎌倉彫のことね……。あれ、おふくろの勘違いなんだ。手紙が親父の机の引き出しにしまってあったのは本当だけど、箱になんか入ってなかったし」
「じゃあさ、この手紙の束は裸で?」弟がうなずくのを見て、質問を重ねる。「他に箱はなかったかな」
「昨日も言ったと思うけど、箱があったかどうかも覚えてねえな」
 朝日は嘘を言っていないと思う。昨日、あんなに激昂していた自分を、冷静に見つめなおす理性を持っているんだもの。
 ママの話では鎌倉彫の木箱はぜんぶで四つ。『バラ』は書斎の机の中にあった。残るは『アジサイ』、『ユリ』、『ボタン』。牟田口の部屋でみつけたのは、そのうちのどれかひとつだ。残りのふたつも、やはり新都心の高層マンションにあるのだろうか。
 私は、あと片づけを朝日に任せて、手紙の文面を確かめることにした。
 最初の手紙は、角膜をもらった患者から。次のが膵臓と腎臓。さらに次が肝臓。心臓をもらったらしき文面は、一番最後に開かれた。文中に“僕”とある。
 良介は、自分のことを“僕”と言っていた──
 わたしは、手紙の束を引っつかんで立ち上がった。まずは良介に手紙を見てもらおう。だけど、どうすれば連絡がつくのだろうか。ケータイは持っているようだけど、ナンバーもLINEアカウントも交換していない。
 戸田のオリンピックコースなら会えるかも──それしか、考えられなかった。キッチンで洗い物をしている朝日に声をかける。
「私、部活に行ってくる。ママにはそう言っといて」
 できれば風呂に入りたいけど、希望の光をみつけた心に急かされる。良介に会えたなら艇庫でシャワーを浴びる──牟田口が半径三百メートル以内にいないことが条件だけど──ことにして、玄関でスニーカーを突っかける。ハチローが千切れんばかりに尾を振りながら駆け寄ってきた。ふたたび、キッチンへ向けて声を張り上げる。
「あと、ハチローの散歩も頼んだわよ」



 艇庫の前に立った瞬間、しまった、と胸の内に叫んでいた。時刻は七時半。炊事当番以外は全員、まだ眠りの中にいる。
 駅前のコンビニで時間をつぶそう──
 そう決めて背を向けた途端、千鶴さんの声がわたしを呼び止めた。
「あれえ、杉崎はどうした?」
 ジャージにウィンドブレーカー姿で、ママチャリに跨がっている。
 ほっとした反面、どう答えていいか戸惑う。
「彼女はちょっと、事情がありまして……」
「やっぱ、のぞきの一件が堪えたのかな」
「まあ、そんなところです」
「心の病気とかじゃなきゃ、いいんだけどねえ」
 千鶴さんの呟くような言葉が心に引っかかった。彼女がそんな心配をするほど、麻里絵は鬱々としていたんだろうか。
 自転車の前カゴに、エコバッグが乗っていた。
「こんな朝早くに買い物ですか?」
「そうなんだよ。今年の一年さあ、大メシ食らいがそろっててさ、特に男子。早くもお米がなくなりそうなんだよ」千鶴さんはペダルを踏み込んだ。「だから、近くのイオンまで買い出しってわけ」
 たぶん美女木の大型店のことを言ってるんだろう。近いといっても数キロは先だ。わたしは、千鶴さんに付き合うつもりで走りながら言った。
「黒澤さんの連絡先なんて、知りませんよね?」
 鋭いブレーキ鳴りとともに、千鶴さんが視界のすみっこから消える。振り向けば、砂煙のなかで千鶴さんが頭を下げていた。                       「ごめん。急に停まって」
「いえ、わたしこそ変なことを聞いてしまって」
 千鶴さんの手には、すでにケータイが握られていた。驚いたことに、『黒澤良介』と表示されている。
「持ってんだろ、ケータイ。さっさと出しな」
 彼女がなにを画策しているのかは、承知しているつもりだった。わたしもトートバッグからケータイを取り出し、先端同士をくっつけあう。赤外線通信の完了を告げる電子音を合図に、千鶴さんは閉じて言った。
「私さあ、ボート部の会計もやらされているだろう。だから全員の連絡先は、帰省先を含めてケータイの電話帳に入れてるよ。部費を滞納されでもしたら困るからね」
「もしかして黒澤さん、部費滞納の常習犯だとか」
「ないよ、良ちゃんが滞納したことは一度もない」
「……良ちゃん」
 千鶴先輩の目が、いたずらっぽく歪む。
「あいつに言われなかった? 自分のこと『良介』って呼べって。さすがにわたしは、年上の男を呼び捨てにできないから、良ちゃん、で勘弁してもらってる。この前、デートしたんだから、そこんとこはわかってるんだろ?」
「べ、べつに、あれは、デ、デートなんかじゃあ……」
 千鶴さんの肘が、わたしの肩を小突いた。
「今さら遅いよ。わがボート部では、白黒コンビの噂で話題沸騰中だよ」
「白黒コンビ?」
「そう、白倉東子に黒澤良介で、白黒。わかった?」
 千鶴さんは、ひとしきり笑い声を上げると、手のひらで自転車の荷台を叩いていた。乗れ、ということらしい。横ざまに腰かける。
「白黒コンビの誕生は、男子たちのあいだでも話題になってるよ。悔しがってるやつ筆頭が三木の他一名……かな」
 吹き出してしまった。他一名、が誰のことなのか想像がつく。
 おまわりさんの目を避けてのことだろう、自転車は人気の少ない路地ばかりを選んで北へ駆け上がっていく。
 やがて、何車線もある道路との交差点にさしかかる。道の対岸はもう、大型スーパーの一角だった。自転車を降りた千鶴さんは、赤に変わった歩行者用信号を背に言った。
「他に聞きたいこと、あるんじゃない? そんな顔してるよ」
 図星だ。ここはひとつ、ご好意に甘えることにした。
「富士見大の七不思議って知ってますよね」
「うん。あのくだらない都市伝説ね」
「じゃあ、口にするが御法度みたいな七つ目の不思議は?」
 千鶴さんは間髪を入れなかった。
「知ってるよ。毎年、女子学生や職員が自殺してるって噂だろ。しかも、似たような雰囲気の子ばかりが死んじゃうって」
 わたしは深く息を吸い込んだ。ここからは、ちょいと気合が必要だった。
「生理学の比嘉先生って、知ってますよね」
「ああ、沖縄出身の美人講師」
 わたしは、千鶴さんの表情に影がさすのを見逃さなかった。
「もしかして、亡くなられたとか」
「彼女、生きてるよ」
 思わず頬が緩む。比嘉先生については、石戸の推測が当てはまってほしくなかった。
「と言っても、死んだも同然だけどね」
「え?」
「植物状態……ってわかるかな。脳の新皮質から辺縁系までがオートリーシス(自己融解)を起こしていて、脳幹と延髄だけが辛うじて生きている……。自発的に呼吸はするし、口に食べ物を入れれば、ちゃんと飲み下す。髪の毛や爪は伸びる。汗はかくし、ウンチもする。だけど、生きているかって言われたら私にはわからない」
 信号が青に変わり、踏み出した千鶴さんを呼び止める。
「彼女、今どこに?」
「飯田橋駅前」彼女は附属病院の地名を平板に告げた。「脳外科病棟のナースステーションを過ぎ、靖国神社の方へ伸びる廊下の突き当たりにリネン室がある。その内側さ。通称、ゼロ号室……。立入禁止の札がかかっている。もちろん鍵もだけどね」
 口の渇きを感じた。
「ひょっとして彼女、自殺したんじゃあ」
「そんなこと、めったに言うもんじゃないよ」千鶴さんは顔を近づけてきた。「噂だから、どんな事情かは知らない。だけど、脳に重い障害を負ったことだけはたしかだね。白倉が言うとおり、自殺かもしれない」
 鼻の奥がツンと痛くなる。比嘉先生のことを思うと、感情が理性を乗り越えてしまう。
「牟田口監督が……」
 いつのまにか、両の拳に汗を握しめていた。奥歯がこすれあう音が耳に届く。
「ん? 監督がどうしたって」
「……いえ。いいんです。わたしの勘違いです」
 勢いよく頭を下げる。
「変な子……。ま、いっか」
 苦笑を浮かべる千鶴さんの背後を、見覚えのある青い小型車が通過していく。次の瞬間、私は交差点に千鶴さんを置き去りにして、全力で走り出していた。
「急用を思い出したので、ここで失礼します」
 彼女が信用したどうかは疑わしいけれど、走りながらケータイに覚えさせたばかりのナンバーを呼び出す。
 良介、お願い。電話に出て──
 激しく揺れる視界は、良介の車が荒川を渡る橋の手前の赤信号で停まっているのを捉えていた。いちばん左側、歩道寄りのレーンだ。あと十メートル、車数台分の距離にまで迫ったその時、無情にも青い小型車は交差点を左へ曲がっていった。
 諦めて、ケータイを耳から離そうとした、まさにその時、
《……もしもし》
 恐る恐るの声が聞こえてきた。



「たしかに僕が書いたものだ」
 レシピエントからの礼状──すっかり、しわだらけになったそれを広げて良介は言った。
「じゃあ僕に移植された心臓は……」
「そうなの。パパの身体から取り出されたものだと思う」
 オリンピックコースへと至る競艇場前のゆるいカーブ。良介は運転席からまっすぐ前を向いていたけれど、スタンドの陰から近づいてくる警備員を見てはいないようだった。
「時々、変な夢を見るんだ。いつのまにか僕は川越のパッシオーネにいて、目の前には東子のお祖母さんが座っている。で彼女、涙ながらに言うんだ。誰かと仲直りしたいらしいんだけど、なかなか言い出せない。そこで僕に両手を合わせて頼むんだ。『手伝ってほしい』って」
 パパの記憶だとしか考えられなかった。グランメが仲直りしたい相手、それはママをおいて他にはいない。
「グランメに、なにか声をかけたの?」
 良介の眉がつり上がる。
「仕事が落ち着き次第、必ず長瀞の診療所は継ぐから。裏山でハーブや野菜を作りながら一緒に暮らそうって……。まるで僕の言葉じゃないんだ」
「どうして、そうだってわかるの?」
「埼玉に住んでいながら、長瀞ってとこ、行ったことないんだ。生まれ育ったのは、群馬の下仁田って町なんでね。知ってる? ネギとコンニャクで有名なんだけど……」
 良介の目が、ふたたび前方にはりついた。ようやく、こちらに近づいてくる警備員に気づいたみたいだ。
「他にも知らない固有名詞がいっぱい出てくるんだ。秩父夜祭だとか、上尾の水上公園だとか、三峰山だとか。夢って忘れちまうものなのに、一度も行ったことのない土地の名を今でも不思議と覚えているんだ」
 例の警備員が、フロントウィンドーの前に立ちはだかった。往来の迷惑だから、さっさと移動しろ、そんな目つきだった。
 良介は笑顔で片手を上げ、わたしは舌を出して走り去る。競艇のスタンドを過ぎた辺りから、車のスピードが落ちてくる。同時に、良介の左手が胸に添えられた。
「そのせいなのかな。東子の家、ずいぶん前に行ったことがあるんだ」
「……本当なの?それ」
 良介が真顔でうなずく。
「今から五年ほど前のことだ。話せば長くなるけど」良介は目尻に浮かぶ涙を指で拭った。「移植手術が終わって退院する時、両親と三人で、これから本格的に通うことになるキャンパスをぐるっと見てまわったんだ。そのうち、両親とはぐれちまってね、気がつくと目の前には焼却炉の煙突が立っていた」
 たぶん看護学部の裏、病棟北側のジメッとした一角だ。
「煙突の横に、背の低い建物があってね、仔犬の鳴き声が聞こえるんだ。中をのぞくと、檻と檻のあいだに通路があって、そこに段ボール箱が置いてある」
 間違いない。良介が回想しているのは、動物舎と呼ばれる実験動物たちの監獄だ。生理学や解剖学の実習で、ラットやマウス、アフリカツメガエルを取りにいった。ビーグルやシェパードたちの悲しげな目を見るのが辛かったのを覚えている。
「箱の中身は、なんだったの?」わたしは問うた。
「仔犬だった。ビーグル犬が十匹くらい」
「ビーグル……」
 わたしの驚きをよそに、良介は淡々とつづける。
「たぶん実験用の動物だったんだろうけど、首から札が下がっていてね、番号がふってあるんだ。気がつくと僕は、そのなかの一匹を抱き上げて、バッグに詰め込んでいたよ。そいつの首には『№8』の札が下がっていたっけな」
「『№8』を選んだ理由は?」
 良介はしばらく、まぶたの裏側を見上げていた。
「さあ。箱から首を出していたのは、そいつだけだったからかな。なぜかわからないけど、連れて帰らなきゃって思った。両親には黙っていたし、そのまま電車にも乗ったよ」
「電車、大丈夫だったの?」
「それがね、仔犬が鳴かないんだ。身動きもしないから、もしかしたら窒息しちまったのかと思って、大宮駅のトイレでバッグを開いてみたら、うれしそうに尻尾を振ってやがる。こっちの心配も知らずにさ」
「ちょっと待って。良介の家があるところって、たしか……」
「今は春日部に住んでる」
「だったら東武野田線か伊勢崎線よね。大宮駅で降りるのはおかしいわ」
 ついに車が路肩に停止した。
「高校時代の恩師に、手術の成功を報告しに行こうと思ってね」ハンドブレーキを引き上げながら、良介は白い歯を見せた。「ところが、循環バスに乗ってしばらくしたら、仔犬が鳴きだすんだ。慌てて降りたそこは『庚申塚』のバス停、つまり東子の家の真ん前だったってわけさ」
 あとは聞かなくてもわかる。それでも私は沈黙を守りつづけた。
「バッグを開けてやったら、仔犬は東子の家の軒下へまっしぐらさ。それっきり、呼んでも出てきやしない。こっちをじっと見つめて、尻尾をふっていやがる」
「で、連れて帰るのを諦めたってわけ」
 良介は静かに首を横に振った。
「諦めたんじゃない。あいつ、なんだかうれしそうだった。『命を助けてくれてありがとう。僕はこの家に厄介になるよ』って言われた気がしたんだ」
 ハチローがわが家にやってきた経緯、ママがつけた名前の由来、そのすべてが氷解した。
 私は運転席に向けて、居住まいを正した。
「信じるかどうかは良介、あなた次第だけど」
 真摯な眼差しで見つめる良介に、わたしはすべてを告げた。すると、
「信じるもなにも」良介は胸に手のひらを添えた。「この胸の鼓動、ただごとじゃあないと思ってた。だけど、そんな因縁だけじゃあないんだぜ。僕は東子、きみのことを……」
 良介の言葉尻は、急発進する車のエンジン音にかき消された。



 大学の図書館は閑散と、そして寒々としていた。
 今は夏休み。大学に通っているのは、臨床実習中の六年生だけ。なのに、誰も冷房を緩めようなどとは発想しないらしい。ここら辺りが、私立医大の愛すべき呑気さなのだろうか。
 私、良介の順で司書に会釈し二階へと向かう。目指すは、学生と職員の名簿を収めた一角。
 憎むべきは女の敵、牟田口。あいつは必ず、犯行の痕跡を残しているはず。わたしは書棚から一昨年度の、良介は昨年度の職員名簿を取り出し、閲覧席に隣り合うかたちで、それぞれ目を走らせる。
「あった。これだ」
 先に見つけたのは、良介だった。彼の指先に並ぶ文字を追う。
【比嘉由美子(ひが ゆみこ)   所属・学内 住所・東京都昭島市緑町○○ 】
 わたしも見つけた。
【牟田口敬央(むたぐち たかお) 所属・学内 住所・東京都福生市熊川×× 】
 愕然とした。
 まぶたを強くこすり、目を凝らす。昭島と福生。見間違いなんかじゃあなかった。試しにもう一度見返すが、書かれている事実はくつがえらない。
 ため息を吐き出すわたしの横で、
「簡単に諦めんなよ。福生と昭島って、たしか隣町同士じゃなかったっけか」
 そう言って良介は席を立ったけど、わたしは脱力しきっていた。冷や汗が背中に噴き出す。なんだか息苦しい。ママみたいに、わたしにもぜん息の症状が現れたのだろうか。硬い椅子に背をあずけ、浅い呼吸を刻む。ほどなくして良介は、A3版ほどの地図を手に戻ってきた。
「ここを見ろよ」
 すこしだけ呼吸が楽になった。牟田口敬央と比嘉由美子。ふたりはJR拝島駅をはさんで、ほぼ等距離にある場所で生活していたらしい。目で縮尺を探す。が、良介はすでに計算を終えていた。
「直線距離で二百五十メートルってところかな」
 牟田口にとっては射程距離の内側だった。
「ねえ、牟田口に餌食にされたと思われる女性の名前、他に知ってる?」
「さあ……」良介は、地図を繰り返し見つめながら首を傾げた。指先が、かつて比嘉先生が住んでいた付近を小突く。「彼女のことだって、東子に言われるまで、寿退職したぐらいにしか思ってなかったし」
 わたしも、そんなところだ。これ以上、牟田口の転居履歴をさかのぼる必要はないように思える。学内で毎年のように自殺者が出ていることを、大学側がひた隠しにしているフシがあるから、なおさらだ。
「ところで良介、脳外科病棟のゼロ号室って知ってる?」
「いや」
 今頃になって気づいた。私はまだ、良介にすべてを話したわけではなかった。比嘉先生が今も細々と息をつないでいることを。生きているとは言い難い肉体に宿る思念、つまり魂や意識みたいなものは、どうなっているのだろう。少なくとも、救われているとはどうしても思えなかった。
 窓の外へ、遠い視線を送る。学部と附属病院とは、中庭を挟んで百メートルほど離れている。思いはすでに、ゼロ号室へ飛んでいた。
 私は良介に向き直った。
「ちょっとのあいだだけ、私を守っててくれる?」
「意味、わかんないんだけど」
「これから気絶するの。そうね、三十分経ったら目を覚ますわ。それでも起きなかったら、救急車を呼んで」
「ウチのERじゃなくて?」
「そうよ」良介の肩に上体をあずけて目を閉じる。「救急隊には、大宮赤十字の救命救急へ向かうよう言ってね。必ずよ」



 千鶴さんは言った。脳外科病棟のナースステーションの前を過ぎ、靖国方面へ伸びる廊下の突き当たり──。そこは東病棟の北側、№8の番号札を首からぶら下げたハチローが、良介によって救出された現場の、ほぼ真上にあたる。
 わたしは最初、焼却炉の煙突を目指して飛び、動物舎の低い屋根をなめ、黒いシミのついた壁に沿って五階へと這い上がり、転落防止の鉄格子がはまる小窓へと飛び込んだ。
 リネン室だった。洗濯機と乾燥機がフル稼働しているせいで、熱気と湿気、そして騒音の三重苦の奥に目指すドアがあった。千鶴さんからの情報どおり“関係者以外立入禁止”の札が下がっている。ドアの上に掲げられた『用具室』の表示、そしてノブの横には安っぽい南京錠。この中には、つまらないものしか入ってないですよ──そう言っているみたいで、かえってあざとく感じる。
 確信を胸に秘め、ドアを通過する。
 淀んだ空気。かすかに漂う糞便の臭気。ちいさな窓にカーテンが引かれたほの暗い部屋。コンクリートむき出しの壁に囲まれたベッドに、その人は身体を横たえていた。
 足元から這い上がるようにして、顔をのぞきこむ。
 額を真一文字に横切る傷痕があった。まるで赤黒いチャックが貼りついているように見える。術後の見た目より、救命を優先した切開のように思えた。削げ落ちた頬、落ちくぼんだ眼窩。そしてなにより、短く刈られた髪──きっと傷跡を消毒するためだ──が、かつての面影どころか性別すらもわからなくしていた。
 本当に、比嘉先生なのだろうか──
 ベッドの左側へまわる。側頭部が大きく陥没していた。頭蓋骨が失われたそこが、損傷箇所なのだろう。ということは、頭の左側を下にして転落したのだろうか。
 横顔に見覚えのあるパーツを見つけた。
 唇の横におおきなホクロ。そこを手がかりに、無惨な表情にイメージを肉付けしていく。落ちくぼんだまぶたを盛り上げ、目ヤニを消し、睫毛を控えめにエクステし、そげ落ちた頬を鼻筋にみあうよう膨らませ、よだれがこびりついた唇にはグロスのきいたルージュを引く。仕上げは、緩くウェーブした黒髪で陥没した頭部をおおう──
 たまらなくなった。
(先生……、どうしてこんな姿に……)
 抱きしめていた。
 もちろん触れることは叶わない。
 それでも抱きしめずにはおれなかった。

 どのくら経っただろう。わたしの背後から、
(誰?)
 かすかだが、たしかに聞こえた。
(あなたは誰? どうしてここにいるの?)
 声に振り向く。
 部屋の隅に何かがうずくまっていた。ひと目で霊だとわかったけど、怖くはなかった。赤い色をしていなかったからだ。輪郭もしっかりしている。
 ゆっくりと近づいてみる。途端、悲鳴が聞こえた、いや、伝わってきた。膝を抱え、怯えた目で見つめる姿は、まさしく生前の比嘉先生。エキゾチックな美貌が、悲しみの底に沈んでいた。
(覚えていますか? 生理学実習でお世話になった、白倉東子です)
 比嘉先生──の思念なんだろう──は答えない。
 わたしは、小刻みにふるえる肩に、そっと手をさしのべてみる。思ったとおりだった。手のひらに、彼女の感触が伝わってくる。
(いっしょに、高尾山に登りましたよね)                      変化があった。黒目勝ちの目が、いっそう大きく見開かれる。
(飼っているワンちゃんの名前、たしかマックスでしたっけ)
 彼女の口が、おずおずと開かれる。
(マックス……)
(そうです。ラブラドール・レトリバーのマックス君)
(マックス……。マックスに会いたい)
(会えますよ、きっと。あの頃のように、いっしょに公園へ行くんです)
(あの頃?)
(楽しかったですね、あの頃は……、と言っても、去年のことですけど)
(去年……。去年わたしは、わたしは……)
 突然、彼女の姿が視界から消えた。代わりに見えたのは、雨漏り跡がのたうつ天井だった。わたしは突き飛ばされたらしい。
 もう一度、比嘉先生の意識に接近を試みる。
(あなたを脅かしていたのは、いったい誰なんです?)
 彼女は、長い髪を掻きむしりはじめた。食いしばった歯のすきまから、金属質の悲鳴が吐き出されてしまうと、大きく肩を上下させて声を震わせた。
(わたしはどうなったの? どうして、わたしはそこに寝ているの? どうして、目が覚めないの? どうして……)
 ようやく気づいた。比嘉先生の意識は、植物状態に陥った肉体のそばを離れないんじゃない、離れられないんだ、と。
 孤独と絶望の底で、自分の身になにが起きているかさえも知らずに、ゼロ号室の片隅で意識のない自分の肉体を見つめながら、ずっとうずくまっていたんだ。
 可哀相な先生。せめて抱きしめてやりたいけれど──
(さようなら先生。あなたを救う方法が見つかるまで、しばらくお別れです。わたし、どんな手段を使ってでも、あの男の存在を社会から消し去ってみせますから)
 暗い部屋の隅っこで、絶望と悲しみを携えうずくまる意識に誓って、私はゼロ号室をあとにした。



「富士見大学における連続自殺事件について、お話ししたいことがあります」
 警察への電話で、真っ先に告げた言葉がそれだった。
 連続自殺事件──そう銘打ったのは、ちょっと行き過ぎだったかもしれない。
 昼下がりの学食。都内の大学では珍しいオープンテラス。良介は夏の木漏れ日の中から私を頬杖を突きながら見つめている。彼の苦笑いを裏打ちするかのように、麹町警察署へつながったケータイは一言も発しない。
「もしもし、聞こえてます? 富士見大の自殺事件、事件なんですよ」
 ダメを押せば、返答は女性の声で、
《はあ?》
 だった。おもいっきり凹んだ。
 ちょっと待たされて、電話口の担当が代わる。また同じことを告げるはめになった。そして同じ対応。次もその繰り返し。ついに私は、
「一連の自殺は、他殺かもしれないんです。証拠だってあるんだから」
 ハッタリをかましていた。それがよかったのかもしれない。ぞんざいな口調が突然、慇懃なものへ変わる。
《ちょっと、お時間をいただいてもよろしいですか?》
 だけど“ちょっとのお時間”じゃあなかった。『グリーンスリーブス』の保留メロディーを散々聞かされた末に、
《上の者が詳しくお訊きたいとのことでして、折り返し、お手持ちの番号へご連絡を差し上げたいと存じます》
 これ以上ないってくらいの腰の低い対応が飛び出してきた。
 始業五分前を告げるチャイムが鳴る。席をまばらに埋めていた病院実習生がいなくなってしまうと、学食には私と良介だけが残された。
「よかったじゃないか。とりえあず、警察が話をきいてくれるようだし」良介は、飲み干したばかりのアイスコーヒーのグラスを私に向けた。「だけど、いいのか? たとえ警察が興味を持ったとしても、いずれ幽霊を持ち出さなきゃ説明できなくなる」
 心外だった。膨らんだ頬のあいだから唇を突き出す。
「どうせ、状況証拠だけだって言いたいでしょうけど、あいつのパソコンに画像データがあるわ。データは、消去しても復元できるんだよね」
「けどなあ、あいつが、どうやって被害者を強請っていたか説明できない。具体的に言えば、なにを強請のネタにして、裸の画像を送らせていたかが説明できない」
「そんなの簡単じゃない」わたしは息を吸い込んで胸を反らした。「たとえば教員と学生、上司と部下の立場を悪用した、パワーハラスメントってことよ」
「弱いな、それじゃあ。牟田口監督の常套手段は、のぞき見た被害者の身体的特徴なんだろう?」
「それだけで十分じゃないの。警察には女性の警官もいるわよね。女同士なら、たとえ裸になって調べてもら……」
 良介の指が、目の前で振られた。
「わかってないな。問題なのは、のぞきは親告罪といってね……」
「知ってるわよ」今度は私がさえぎった。「被害者が訴え出ないがぎり、罪に問えない。なのに被害者のほとんどがこの世にいない……でしょ?」
「よくご存じで」良介は満足げな笑みを浮かべた。
 そうなのだ。麻里絵には絶対に回復してもらわなければならない。彼女は、牟田口を告発できる、ただひとりの被害者かもしれないんだ。

 ケータイに警察からの着信があってから、どれほどの時間が経っただろう。待つのは苦手だ。初対面の人に会うのなら、なおのこと待ち時間を長く感じる。
 所在無くなったわたしはアイスミルクティーを、良介はサービスのほうじ茶をテーブルへ運んできた、その時だった。
《薬学部二年、白倉東子。至急、本館、学生課まで来なさい。繰り返す……》
 たぶん、警察がらみの呼び出しだ。立ち上がったはいいものの、爪先から体温が流れ落ちていくような気がした。小刻みにふるえる膝小僧を叱りつける。
 すると、
「僕も一緒に行こう」
 良介の右手が、ごく自然に伸びてきた。私もそれが当然であるかのように握る。
 あたたかい──
 わたしと良介。白黒コンビ、と千鶴さんは言ったけど、ずっと違和感があった。そんな、おちゃらけたもんじゃないって。
 部活の先輩と後輩、とも違う。
 では、ドナーの娘とレシピエント───覆せない重い事実。
 本来ならば言葉を交わすことすら禁じられている彼の手を、私は今しっかり握りしめていた。
 パパの心臓を移植された良介。彼が、リハビリと体力維持にボートを選び、グランメの店にたどりつき、ハチローを寂しいママの元へ送り込んだ。麻酔の学術部にも所属しているとも聞いた。偶然にしては、あまりにも多すぎやしないか。
 あたまのなかを、でっかい文字が横切っていく。
 運命──
 本館へつづく渡り廊下を歩きながら、かぶりを振る。
 違う。互いの意思と感情で、わたしたちは行動をともにしている。でなきゃ良介が私に手をさしのべるはずがない。私が彼の手を握り返さはずがない。
 少しだけ足どりが軽くなった。
 頭に浮かんでいた運命という言葉はもう、別の言葉に書き換えられていた。



「すみません、白倉です。呼び出しを受けてまいりました」
 学生課のちいさな窓から室内に呼びかける。
 答えたのは、パソコンとエアコンの低い唸り声だけ。窓口に近い机に、食べかけの弁当があった。飲みかけのコーヒーもある。床に書類が落ちていた。楽しく食事をしているところへ、いきなり賊が侵入してきて学生課の職員全員を拉致していった──そんな雰囲気だった。
「おまえ、いったい何をやらかしたんだあ?」
 背後から、いきなりの怒声。
 牟田口だった。カウンターに背中が食い込むのもかまわずに、できうるかぎりのけ反り、さらに顔を横に背けた。
 汗ばんだ額にはりつく薄い前髪。白い眼鏡フレームのなかのちいさな瞳。てかった頬。青黒い割れ顎。そのすべてから生臭いものが漂ってくる気がしてならなかった。
「私ただ、呼び出しを受けたんで来てみただけです」
「呼び出される心当たりがあるんじゃないのか?」
 酷薄な視線を突き刺しながら、牟田口の顔が迫ってくる。
 良介が割って入ってくれなきゃ、危うく牟田口の股間を蹴り上げるところだった。
「どけよ黒澤。おまえに聞いているんじゃない」
 良介は動じなかった。
「そうかい、そうかい。おまえらは、そういう仲ってわけかい」牟田口の薄い唇から、あからさまに舌打ちが漏れる。「じゃあ白倉、あの状況をどう説明するんだ?」
 牟田口は、突き出した親指を、自分の背後へと向けた。
 ロビーを挟んだ壁際。観葉植物に囲まれた一角に人だかりがあった。ほぼ全員が学生課の職員だ。顔に見覚えがある。異質だったのは、人だかりの中心、黒っぽいスーツに身を包んだ男ふたり。ひとりは茶色に染めた長髪。もうひとりは角刈り。いずれも、均整がとれた身体つきをしている。
 牟田口は腕組みをすると、首を斜に構えた。
「さっき、事務長から連絡があってな、『ウチの学生がなにかやらかして、警察に連れて行かれる』って言うんだ。慌てて来てみたら白倉、お前だそうじゃないか」
 黒澤の背中越しに、憎しみを込めて反論してやる。
「べつに、わたし、やましいことなんかしてませんから。誰かさんと違って」
 鎌をかけたつもりだったけど、女の敵の顔色に変化はない。その時だった。
「白倉東子さん……ですね? 住所はさいたま市大宮区天沼町」
 黒いスーツ姿の男がふたり、こちらを見据えていた。そのうちの長髪のほうが進み出て会釈する。歳の頃は三十代前半だろうか。髪は栗色。長い手足。彫りの深い目鼻だち。精悍な着こなし。ホストかミュージシャンといったほうがお似合いだ。
「わたくし、警視庁からまいりました瀬島と申します。こちら、部下の落合刑事」
 角刈りの刑事が頭を上げるのを待って、茶髪の刑事に疑問をぶつける。
「あのお、刑事さんたちは麹町警察署からじゃなくて?」
「本庁からです。白倉さんが言うところの富士見大連続自殺事件に、以前から並々ならぬ興味をいだいておりました。この件は、所轄署の手には負えないと判断いたしました」
 涙が出そうだった。これで麻里絵は苦しみから解放される。比嘉先生の魂が救われる日も近い。彼女らのことを思うと、鼻の奥がどんどん痛くなる。
 グスリ、とすすり上げるわたしに、瀬島は笑顔を浮かべて言った。
「ここじゃあ、なんでしょうから、われわれといっしょに署までご足労願えますかな」
 無言でうなずく。そのほうがいい。牟田口は邪魔だ。クスリで幽霊化されでもしたら、事情聴取の一部始終が筒抜けになってしまう。
 案の定だった。牟田口は本館の出入り口に先回りして両手を広げる。
「お待ちください、応接室を用意しております。どんな事情かは存じませんが、白倉はまだ未成年ですし、ひとつ穏便にお取り計らいくださることを希望いたします。どうか事情聴取ならば、警察ではなくて本学でお願いできませんでしょうか」
 エレベーターホールへ手を差し上げる牟田口に、瀬島は視線を周囲に投げた。
「せっかくですが、聴取は署のほうが無難なようです」
 ロビー、そして中二階のテラスからも白衣姿の実習生が取り巻いている。長髪の刑事は胸を反らし、牟田口の額に浮いた汗を睥睨した。
「ここに患者さんの目が加わったら、もはや収拾がつきませんよね。玄関にいつまでもパトカーが停まってるのも、評判を重んじる大学としては、まずいんじゃないのですか?」
 物腰は柔らかだが、明らかな恫喝だった。
 完全に沈黙した牟田口を置き去りにして、瀬島は私に向き直る。
「ということなので、白倉さん、まいりましょう」
 私は良介と手をつないだまま歩きだしていた。車寄せではすでに、角刈りの刑事が後部座席のドアを開けて待っている。私につづいて良介も乗り込もうとする。
「おっと黒澤、おまえはダメだ」駆け寄ってきた牟田口が、良介の肩をつかむ。「わたくしも同行させてもらいます。なにせ白倉は未成年ですので」
 刑事の返答も聞かずにステップに足をかけたその瞬間、女の敵は悲鳴とともにアスファルトの上に放り出されていた。
 なにがどうなったのかもわからずに、天を仰ぐ牟田口。その激しく揺れ動く視線に向けて、角刈りの刑事が凄んだ。
「あんたに用はねえんだよ」



 靖国神社の大鳥居が見える交差点で、ケータイが短く着信を告げた。ポーチに手を伸ばしてはみたが、すぐに引っ込める。
 すると、助手席にいた瀬島刑事が、
「どうぞ。ケータイでしたら、わたくしどもに気兼ねなくお使いください」
 と、武道館のタマネギ屋根を見つめたまま穏やかに言った。
 ならば、とばかりにケータイを取り出す。
 良介からだった。
《そばにいてやれなくて残念だ。タクシーで追いかけるけど、お金の持ち合わせが少ない。それでも何かあったら連絡してくれ。必ず駆けつけるから。たとえ公権力が相手でも》
 涙が出そうだった。
 もしも警察で良介との関係を聞かれたら、臆面もなく言ってのけるつもりだった。そうでも言わなければ、ドナーの娘とレシピエント──決して触れ合ってはならない禁断の間柄を指摘されかねない。
 待ち受け画面に戻って気づいた。LEDが明滅を繰り返している。未読のメッセージが残っている。
 千鶴さんからだ。
《おかしな別れ方をしたから、あんたのことが気になってね。あれから、OBやOGも含めて先輩たちに七不思議のことを聞いてみたよ。いろんなことがわかったけど、白倉の役に立ちそうな情報がひとつだけみつかったから教えるね》
 画面をスクロールさせる指がふるえる。
《はっきりしたのは最初に自殺した女性の名前。宮城恵子っていう大脳生理学の助教なんだって。わたし、苗字が違っていたから気づかなかったけど、彼女は自殺する何カ月か前に結婚したばかりだったらしい。旧姓は比嘉。つまりゼロ号室に幽閉されているの比嘉先生のお姉さん。どう、役に立った?》
 もちろんです、先輩──
 画面に向かって頭を下げ、さらにスクロールを加える。
《いろいろと調べまわっているみたいだけど、くれぐれも気をつけて。白倉までおかしなことになったら、わたし嫌だからね》
 私は、涙がにじむ目で本文の一点を見つめていた。
 大脳生理学の助教。つまり、牟田口が所属する講座の一員──
 もはや、いてもたってもいられなかった。車窓から周囲を見渡す。半蔵門を過ぎ、右前方から国立劇場が迫っていた。赤い幽霊の“射程距離”は三百メートル。ここまでくれば、牟田口がクスリで幽霊化しても追撃はできない。   私はシートから身を乗り出した。
「あの、瀬島さん……でしたっけ」
 あくびをかみ殺しながら、茶髪の刑事は涙目で振り返る。
「気分でも悪いのですか? 深刻そうな顔してますが」
「いえ、そんなんじゃないんですけど」かぶりをふり、さらに首を突き出す。「富士見大で最初に自殺した人のこと、教えてはもらえませんでしょうか?」
「……まあ、秘匿義務はあるんですが」瀬島は、スーツのポケットから角の塗りが剥げた手帳を取り出した。「えー、五年前ですね。名前はいちおう伏せておきますが……」
 感情が理性を越える。
「教えてください。宮城恵子さんの自殺の動機を」
 瀬島は一瞬、呆気にとられたように私を見つめ、
「そこまでご存じなら、今さら隠してもしようがないですね」にっこりと口元を持ち上げた。「宮城恵子さん、死亡当時二十六歳。自殺の動機は、こうなっています。『主に、ご主人との不仲を苦にして』です」
「主にって……、他にも理由があるってことですよね」
「まいったなあ」苦笑しながら、刑事は手帳のページめくる。「彼女のご主人は同じ学部の准教授であり、次期教授候補の筆頭だった、と書かれておりますねえ。研究者だった恵子さんと結婚し、幸せの絶頂にあったはずの彼は、結婚から一カ月後には大学に辞表を提出するはめになった。その理由は研究費の不正使用、つまり横領だそうです」
 ヒーローは遅れて登場するのがお約束。パパの事件には間に合わなかったけど、麻里絵はなんとかなる。私は性急に口走っていた。
「宮城恵子さんの妹も、その何年か後に自殺を図っているんです。ご存じですよね?」
「いえ」瀬島刑事は、ヘッドレストを抱くようにして振り向いた。「初耳です。詳しくお教え願えますか」
 私は可哀相な比嘉先生のことを瀬島にぶちまけた。たぶん、最初に自殺した彼女の姉を含め、みな似たような顔だちだったであろうことも。話すうちに、所轄警察への怒りが湧いてくる。
「警視庁の瀬島さんが知らないってことは、麹町署の怠慢なんですよね」
「いえ、所轄署には、富士見大で自殺者が出たら必ず報告を上げてくれるよう言ってあります。考えられるのは、ご遺族が自殺として扱わないよう大学側に頼み込んだか」
「どうして……、なんで、そんなことを?」
「世間体ですよ。有名人だって、自殺を単なる事故ということにして騒ぎを鎮静化させるケースは珍しくない。いずれにせよ不審死の場合は、警察に届け出なければならんのですが、きっと、正式な死亡検案書が提出されていたんでしょうな」
「ケンアンショ?」
「不審な死体が発見された場合に、医師が死因を特定して書く書類です。富士見大といえば、医療の権威が勢ぞろいした最高学府なわけですよ。そこの教授が書いた死亡検案書に、われわれだってケチのつけようがありませんからねえ」
「大学側が、故意に隠したってことは」
「可能性としては、大いに考えられます。ま、隠蔽体質については、われわれ警察も、よそ様のことを悪しざまには言えませんけどね」
 瀬島は長髪を揺らしてひとしきり笑い声を上げると、私をじっと見据えた。
「で、白倉東子さん、あなたまだ、何か話した足りないって顔してますよ」
 まさに渡りに舟──迷わず乗り込む。
「牟田口っていう大脳生理学の教授のことなんですけど」
「ロビーにいた先生ですね。たしか、お名刺を頂戴いたしました」うなずいた瀬島は胸ポケットを探り「大脳生理学……ですか?」
「そうです。宮城さんが所属していたのと同じ」私は噛みしめるように言った。「あいつはストーカーです。それも反吐が出そうなくらい悪質な」
 牟田口の悪事を漏れなく伝えるために、言葉をひとつひとつ吟味して、順序だって話すことに努める。被害者はみな、似たような顔だちをしていること。のぞきによって知り得た身体的特徴をネタに、被害者みずからが撮影した猥褻写真を送るよう要求したこと。その画像データが、牟田口のパソコンに蓄えられていること。そしてなにより強調したのが、食い物にされた女性が耐えきれずに自殺してしまうと、新たに狙い定めたターゲットの近所へ転居して、同じような犯行を繰り返していたこと。
 瀬島は終始うなずきもせず、ただじっと私の話に聞き入っていた。
「疑問があるのですが」手帳をめくりながら瀬島は言った。「自殺した女性の何人かは、麹町署にのぞき被害を訴え出ているようですが、捜査記録によると、そのような事実は確認できなかったことになっております」
 私が張った論陣で、もっとも弱い部分。のぞきについては、クスリの能力をもってして可能なのだから。
 瀬島はつづける。
「あまりにも訴えが多いので、所轄署も被害者の周辺を監視しつづけたそうです。最低でもひと月、長い場合は二カ月近く被害者を見守りつづけました……が、それでものぞきの事実は確認できなかったとのことです」
「たった二カ月ですか?」
「ええ。お亡くなりになられたので」
 トドメを刺しておいて、瀬島は表情をいっそう和らげた。
「もしも現在進行形で事件が起こりつつあるのなら、われわれとしても手の打ちようがあるのですがね」
 現在進行形の事件──
「あの……」
 ためらった。だけど語ろうとする唇を理性が抑えきれない。
「先日、私の親友が同じような被害に遭って、リストカットしてしまったんです」
「お亡くなりになられたのですか?」
「いえ、辛うじて命はとりとめたようです」
「どちらへ行けば、お会いできますかな」
 再びためらった。この案件は親告罪なのだから。
「大宮の赤十字病院……。話せるかどうかは、わかりませんけど」
 言ってしまった。どんなに頑丈な石橋だって、しつこく叩かれたら壊れちゃうかもしれないのだから。
「では警部」瀬島とは異質の、凄味のある声が響く。
 ルームミラーのなかに、角刈り刑事の鋭い眼光があった。
「うん、先に大宮へ行こうか」
 そう告げて、ゆったりとシートに身を任せた瀬島。その横顔を、まじまじと見つる。
 警部──見た目だけから判断すれば、瀬島の年齢は三十代前半。茶に染めた長髪が若く見せていることを割り引いても、不惑には届かないはず。彼には、一連の自殺が事件であることを見抜く洞察力が備わっている。でなければ、こんなに若くして警部に昇進はできないだろう。
 いつのまにか私は、茶髪の刑事の横顔に、うっとりとした視線を送っていた。
 霞が関の官庁街を走り抜け、高速道路へ進入したところで、いきなり渋滞の最後尾に出くわした。パトカーのスピードが歩くほどになったところで、瀬島は助手席から振り向いた。
「ひとつ確かめたいことがあるのですが。もしかして、あなたは白倉達男教授の娘さん?」
 突然のことに答えあぐねてしまう。だけど、それで伝わったようだった。
「やはりなあ。正義感の塊のようなお人だったからなあ、白倉先生は」
「パパを知っているんですか?」
 薄くうなずく瀬島。
「一度だけお会いしたことがあります。と申しましても、取調室ででしたけど」
 期待から落胆。今日はこの繰り返しだ。肩を落とすわたしに、瀬島は顔を近づけた。
「白倉先生の死、あれは自殺なんかじゃありませんよ。私は屋上から突き落とされたんだとにらんでおります」
 他殺を仄めかされたのは、これがはじめてじゃない。だけど、具体的に“突き落とされた”と言い切る瀬島の眼光には、迫力と真実味を感じる。
「はじめてです……。警察の方に、そんなありがたいことを言われたのは」
「所轄がマヌケなんです。状況証拠だけで白倉先生を長期間拘留し、過酷な聴取で追い詰めた挙げ句、容疑を固められないまま彼は釈放にはなりましたけど、大学へマスコミが連日のように押しかけたのは言うまでもありません」
 言葉を切った瀬島は、大きく息を吸い込んだかと思うと、突然、長身を折りダッシュボードに額をこすりつけた。
「ごめんなさい。私が謝っても、ご遺族の気持ちが晴れることはない。そんなことはわかっています。だけど、全警察を代表して言わずにはおれない」
 瀬島の声は、心なしか嗚咽を含んでいるように聞こえた。
「顔を上げてください。瀬島さんのせいなんかじゃない」
 瀬島はくぐもった声を漏らした。
「お父上のケースと、最初に自殺した宮城恵子さんのケース……。研究費の横領という点では共通するものがあります」
 同感だった。ようやく頭を上げた瀬島の目を真っ直ぐに見つめる。
「白倉先生の死が、一連の自殺と深く結びついているとしか思えないのです。協力していただけますね、お父上の無念、そして汚名を返上するためにも」
 瀬島が取り繕った笑みは、涙でにじんで、はっきりとは見えなかった。



 高速道路を降りれば、赤十字病院は目と鼻の先。腕時計は午後二時に数分足りない時を刻んでいる。
 パトカーを降り、刑事たちといっしょにエントランスを目指す。巨大な病院が日差しをさえぎってくれるおかげで、さほど暑いとは思わない。なのに、嫌な感じのする汗が全身に噴き出してきたのは、忘れかけていた不安と恐怖がのしかかってきたせいだ。
 パトランプで気づいていていたか、ロビーへ足を踏み入れた途端、警備員と事務員が駆け寄ってきて瀬島刑事と言葉を交わす。やがて、うやうやしい揉み手をしたおじさんに案内されて、救急病棟へと案内されていく。
 
 閑散とした廊下を進んでいくと、
「東子」
 だしぬけに名前を呼ばれた。
「こっちよ」
 ナースステーションのもっとも奥まったところにいた看護師が立ち上がる。ママだった。彼女が私に目を置いたまま足早に近づいてくより早く、瀬島が私に向かって深々とこうべを垂れた。
「あなたへの聴取は、すでに済んでおります。また後日、あらためてお聞きすることがあるかもしれませんので、長期のご旅行だけは避けてくださいね」
 もう用済みだ、と言われた気がした。
 ママがやって来て、
「誰なの?」
 尋ねながら、ナースステーションの窓口へと歩みを進める瀬島に視線を向けた。
「刑事さん。警視庁の」
 ママの表情が険しくなる。
「東子、あんたって子は……」
「言いたいことは、わかるよ」ママと刑事たちを交互に見比べながら声をひそめる。「パパは公権力に殺されたのかもしれない。だからって、警察が悪の手先ってことにはならないじゃない」
「わかんないよ、そんなこと」
「だけど、あの人たちは違う。パパは自殺したんじゃない。殺されたんだって断言してくれた」
「研究費の横領についても、否定してくれた?」
 言葉につまる。瀬島は、五年前の横領事件とパパのケースが似ている、とは言った。だけど、パパが横領に関与していないとは、ひとことも言ってなかった気がする。話題をそらす。
「それよりママ、麻里絵を苦しめたハレンチ野郎が誰なのか、わかったのよ。警察に通報するのって悪いことなの?」
 ママは唇に一本指を当てると、「それとこれとは話が別」いっそう声をひそめた。「麻里絵ちゃんのママが来ているの。今、このタイミングで刑事さんが来たら……」
 彼女の不安は即座に的中した。ナースステーションの陰から、か細い泣き声が流れてくる。それが誰のものかは尋ねてみるまでもない。
「ちょっと、こっちへいらっしゃい」
 ママは、わたしの肘をつかんで、強引に歩きだした。タタラを踏みながらナースステーションの角を曲がる。廊下に据えられたソファに女性がふたり、互いに肩を抱き合いながらうずくまっている。それを、ふたりの刑事が見下ろしている様子が目に飛び込んできた。
 思ったとおりだ。麻里絵ママと家政婦さん。
 気まずい。彼女らを悲しみのどん底にたたき込んだのは、牟田口をおいて他にない。だけど、その片棒を担いだ気がして顔を上げられなかった。
 謝らなきゃ。ママもそのつもりなんだろう──と思いきや、わたしの覚悟は肩すかしを食らった。ママはわたしの手を引いたまま、彼女らと彼らの傍らを足早に過ぎていく。瀬島の声で、「どうか、お気をたしかに」と、聞こえた。
 トイレを過ぎ、その奥の談話室も通りすぎ、さらに廊下を左に折れる。ちょうど、ナースステーションの真裏に回りこんだそこには、人工的な光に満ちあふれていた。
「ICU……」
 頭上に掲げられた文字を、声に出して読んでいた。ママの手を振りほどいて、廊下と集中治療室とを隔てるガラス窓へ走り寄る。モニター類に見守られて横たわる麻里絵は、今にも起き出してきそうなほど平穏な表情をしていた。
「麻里絵はまだ、危ない状態なの?」振り向きざまに問いかける。
 ママは黙したまま、首を縦にも横にも振らなかった。
「気管切開って知ってる? 喉に穴をあけて、呼吸を機械でコントロールするの。意識が戻っても、当分は声を出せないわ」
 その言葉どおり、麻里絵の喉にはジャバラのチューブが突き刺さっている。
 ママはため息まじりに言った。
「ドクターはね、やることはやったっておっしゃったわ。画像診断では、脳へのダメージは見られないそうよ。だけど血圧が安定しないの。このままじゃあ、後遺障害が残るかもしれないんだって。そればかりか、心臓が弱っていったら麻里絵ちゃん、目を覚まさない可能性だってある」
「そんな……」冷淡に突きつけられる現実にかぶり振る。「ママは、わたしに約束してくれたじゃない。自分がついているから大丈夫だ、心配ないって」
 食ってかかられても、ママは目を背けなかった。
「そうね。ドクターも、麻里絵ちゃんが運ばれてきた時は、そう思っていたの。出血は多いけど致命的ってほどでもない」
「じゃあ、なんで目を覚まさないのよ!」
 大声に気づいたナースが、ガラス越しに厳しい視線を送ってくる。それに黙礼で応じてから、ママは私に向き直った。
「麻里絵ちゃんに必要なのは生きる気力よ。なのに彼女、これからの人生を楽しむことより、静かな死の世界に魅力を感じているわ。それほど心を痛めつけられていたのね」
「なにか方法はないの? 薬とか、手術とか……」
「あるわ。東子、私の言うとおりにしてみて」ママは、わたしの身体をICUへと向けさせた。「耳から入ってくる音、臭い、いま自分が立っているっていう感覚、すべてを消し去ってごらん。麻里絵ちゃんを見つめることだけに意識を集中させて、他の感覚を全部を遮断するの」
 うなずいてはみたが、これから自分になにが起こるのか想像もできない。わかっているのは、これが体外離脱とは似て非なる手法だということだけ。「瞬きはしていいわ。そのかわり麻里絵ちゃんから視線をはずさないで」
 無言でうなずく。何度目かの瞬きのあと、視野の中心だけが仄かに明るくなってきた。治療台を中心にした半径数メートルほどの範囲に、なにかが浮かんでいる。
 さらに意識を集中する。
 見間違いなんかじゃあない。
 麻里絵だった。ICUで立ち働くナースの目線くらいの高さを、うつ伏せの姿勢でゆっくり上下しながら漂っている。自分の肉体を見下ろす悲しげな眼差しまで、ハッキリと見て取れた。
「ママ、麻里絵が………」
 口走ると同時に集中が切れ、空中に浮かぶ麻里絵の意識も見えなくなった。
「見えたようね」
 大きくうなずくと、こらえていた涙が頬にこぼれた。
「このままじゃあ、麻里絵ちゃんの魂は、空気に溶け込むようにして消えちゃうのよ。地球のエネルギーと一体になるんだって、石戸さん言ってた」
「地球のエネルギー?」
 ママは私の肩を押して歩きはじめた。
「そうならないためにも、体外離脱したら麻里絵ちゃんに伝えて。あなたには素晴らしい未来が開けている。なんだってやれるんだって説得するの」
 ママはICUからの光が届かない暗がりへ消えていく。廊下の突き当たりに、手招きだけが浮かんで見えた。照明がない廊下よりもさらに暗いそこは、鉄骨むき出しの階段だった。
「五階に仮眠室があるわ。体外離脱するなら、そこがいいと思ってね」
 ママの声を頭上に聞きながら振り返る。光が洩れてくる廊下から、麻里絵ママの悲痛な泣き声が流れ込んできた。私は、その声に追い立てられるようにして階段を昇る脚に力を込めた。

10
 これで何度目の体外離脱になるのか、よく思い出せない。もはや感動も驚きもない。
 脱ぎ捨てられた白衣、カップ麺の残骸、雑多に入り交じる生ゴミの臭い。仮眠室の惨状の只中で、静かな寝息を立てている自分の肉体には憐憫すら感じる。
 床を通り抜ける自分をイメージする。ものの数秒で、わたしの意識は二階フロアへ移動していた。目の前には、暗い廊下に煌々と光を投げかけるICU、その中心へと向かう。空中に漂う親友の意識は、私の存在にすら気づかずに、チューブにつながれた自分の肉体を、人形のような眼差しで見下ろしている。
 近づき、そっとささやく。
(麻里絵、わたしよ)
(東子……)虚ろだった彼女の視線は、次第にわたしに結ばれ、頬と口の端を持ち上げた。(会いたかった。ずっと、ずっと待ってたんだよ)
(わたしを?)
 笑顔でうなずく瞳に涙があふれる。ぷっくりと盛り上がった頬にこぼれた液体を、わたしは反射的に拭っていた。
 温かかい。だけど、指先が濡れたわけでもない。
 気づいてしまった。石戸の言うとおりなんだ。涙さえ幽霊の一部なのであり、だからこそICUに浮かぶ麻里絵の意識は、お気に入りのブラウスを身につけているんだって。
(私、夢をみている野かなあ。こうして、天国へ旅立つ前に、東子と会えるなんて)
 うっとりとした表情で目を閉じる麻里絵。その肩をつかみ、揺り動かす。
(馬鹿言ってんじゃないよ。あんたはまだ生きている。気をしっかり持ってよ)
(だって……)困惑した眼差しが、治療台とわたしとの間を激しく往復しはじめた。(死んじゃったから、こうして浮かんでいるんでしょ? もう、自分の身体には戻れないんだよね)
 わたしは大きな声で──じゃなくて、強く念じた。
(じゃあさ、わたしも死んだって言いたいわけ?)
(違うの?)
 腹が立ってきた。
(たかが十九や二十歳そこらで死んでたまるもんですかっつーの、ったく……。わたしはね、麻里絵を助けに来たの。裸の写メを要求するメールが届いた夜、麻里絵は泣きながら眠りに就いたよね。その時のこと、覚えてる?)
 期待はしていなかった。
(東子が来てくれたのよね。朝までずっと、添い寝してくれたんだっけ)
 予想は外れた。思わず声が弾む。
(そうよ。あれは夢なんかじゃない。私、いつだって麻里絵のそばにいるよ。麻里絵の身になにが起こったのか、こうして見ていた)
(じゃあ、私が裸の写メを送ろうとしたことも?)
(知ってた)
 麻里絵の表情がみるみるうちに強張り、ついには嗚咽が聞こえはじめる。
 まずいと思った。
 私は、言ってはならないこと、思い出させてはならないことを言ってしまったらしい。このままじゃあ比嘉先生と同じ。ゼロ号室にうずくまる意識は、どす黒い過去を思い出して錯乱状態に陥ったのだから。
 麻里絵の目が大きく見開かれる。
(わたし耐えられない。あんな苦しい思いをするくらいなら、死んだ方がましよ)
 どうする。どうすればいい。彼女をわかってあげるには、苦しみを分けてもらうには、どうすればいい?──
 麻里絵の姿に異変が起こりはじめた。意識の身体を透かして背後の棚が見えている。輝きを放っていた輪郭も希薄になった。これがママが言う『消える』なんだ、と理解できた瞬間、機器類が一斉にアラームを鳴らしはじめた。
 すでにナースがひとり、麻里絵の肉体に取りついていた。つづいてもうひとり、ナースが慌ただしい足音とともに駆け込んできた。
 ママだった。私に一瞥くれただけで、チューブやセンサーに異常がないか調べはじめている。
 ママの声で、
「廣安先生を呼んできて。つかまらなかったら山蔦先生でもいいわ。早く!」
 と聞こえた次の瞬間、わたしは麻里絵の意識にしがみついていた。
 柔らかな髪。いい匂いのするうなじ。華奢な肩。そして温かい。
 私は麻里絵の胸に顔を埋めて強く抱きしめた。
(そうだね。苦しかったんだね。もっと早くにわかってあげられたら、よかったのにね)
 心から泣けた。感情がとめどもなく溢れだしていた。
(ごめん。せめて半分でも、麻里絵の悲しみを背負ってあげられたらよかったのにね)
 麻里絵の意識は動きを止めている。だけど、わたしは彼女を離さなかった。
 どれくらいたっただろう。
(泣かないで)
 気のせいじゃない。たしかにそう聞こえた。
(お願い、東子。もう泣かないで……)
 視界いっぱいに、麻里絵が微笑みかけていた。ほんとうに可愛らしい、生気が横溢する笑顔。こんな子が死線をさまよっているとは思えない。
 麻里絵は、つややかな唇を開いた。
(三木さんと黒澤さんが喧嘩した日のこと、覚えている?)
(……うん)
(千鶴先輩がふたりの喧嘩を仲裁したあと、東子は黒澤さんの車で、どこかへ行っちゃったでしょ。あの時わたし、泣きながら東子を追いかけたよね。あれ、なんでか知ってる?)
 私が首を振ると、麻里絵はクスリと笑い声を漏らした。
(私が泣き虫でいられたのは、いつも東子が傍にいてくれたからなの。ほら、鳥の雛って、よく鳴くじゃない。赤ちゃんだって、泣くからママがすっ飛んで来るんでしょ。あれとおんなじ。わたしが泣いている時、東子は必ず手をさしのべてくれたわ)
(じゃあ、あの日、麻里絵は……)
(不安で不安で、どうしようもなかったの。東子の前で泣きたくてしょうがなかった)
(エッチなストーカーに脅かされていたからね?)
(そう……。泣いたらきっと、東子が助けてくれる、慰めてくれる……。なのに車に乗って行っちゃったでしょ。だからわたし心細くて……)
 わたしは、麻里絵の頭を抱え込んだ。
(ごめん。知らなかったよ。そんなに頼りにされていたって)
(迷惑?)
(ぜんぜん)
 ありがとう、と告げた麻里絵は、小首を傾げてわたしを見据えた。
(だからお願い、もう泣かないで。東子に泣かれたら助けてって言える人がいないんだもの)
 私はもう一度、麻里絵を抱きしめ、
(もう泣かないよ。だから麻里絵も泣かない)
 耳元でささやきながら、彼女の意識を仰向けに横たえた。
(身体に帰ろ。ママが待ってるよ。ヤエさんも)
(東子、わたし……)
(いい子だから、私の言うとおりして。目を閉じて、自分の身体を意識するの)
(身体を意識する……)麻里絵は目をつぶったまま、うわごとのように言った。
(私たちは、まだ若い。これから何十年もつづく幸せが待っている)
(幸せが……待っている……)
(そう……。大好きな人にめぐり合って、大恋愛の末に結ばれて、明るい家庭を築き上げるの)
(……大好きな人?)
(麻里絵は可愛いから、彼氏なんてすぐに見つかるわ)
(本当?)
(私を信じなさい)
 もはや麻里絵の唇から、言葉は漏れなかった。
(恋したいでしょ?)
 かすかにうなずきながら眠りに就いた麻里絵の意識を、ゆっくりと肉体に重なるようと引き下ろしていく。いつのまにかモニターから赤い色は消え、アラームも鳴りやんでいる。
(東子、ありがとう。もういいわ)
 ママは、手元を見つめたまま意識を通わせてきた。麻里絵の胸に聴診器を当て、両の肩を交互に叩き、
「麻里絵ちゃん、わかる? 目を開けられる?!」
 彼女の耳元で声を張り上げる。
 麻里絵のまぶたが、小刻みに動きはじめた。
 動いては静止し、また動く。その何度目かの揺り返しの末に、黒目勝ちの瞳が開かれる。
「わかる? 東子のママよ」
 首に力がないのか、麻里絵は口をパクパクさせるだけだった。声帯を振動させるはずの呼気は、喉に穿たれた穴から体外へと導かれている。
 麻里絵は苦悶の表情を浮かべて、激しく咳き込みはじめた。
「ごめんね、麻里絵ちゃん。すぐ、楽にしてあげるからね」
 ママの呼びかけに、麻里絵は表情で訴えるので精一杯のようだった。駆け込んできた医師は、麻里絵の様子を見るなり、ママが広げてくれたラテックスグローブに両手を同時に突っ込むや、
「抜管用意!」
 と、声を張り上げた。

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