ゴースト・リンク⑦

○ 第七章  闇に棲む者

 附属病院で目撃された幽霊は、比嘉先生の魂なんかじゃないと思います。
 彼女の心は、病室とも呼べない狭い空間に閉じ込められていますし、幽霊の目撃談を語る人は皆、一様に言うんだそうです。“赤い色の幽霊を見た”と。
 わたし思うんです。附属病院、いえ、艇庫を含めた富士見大の施設、そのすべてに、なにか特別な存在がうろついているんじゃないのか、それは死者の魂なんかではなく、何者かの肉体を抜け出した邪な精神じゃないのかって。
 いったい誰が、なんのために?
 その答えは、最初に遭遇した悪霊の、“おまえは生霊だな”という呟きに隠されている気がしてなりません。



 ママが言ったとおり、麻里絵は一般病棟へ移されても、すぐには声を出せなかった。それでも筆談は可能で、ベッドサイドに用意されたホワイトボードに、
『ありがとう。もうだいじょうぶ』
 と書いて微笑む麻里絵に安堵した時は、まだ窓の外に夕暮れが残っていた。
 疲れていた。だけど、わたしよりママの方がずっと疲れているみたいだった。家路についた車の中で、
「夕食は、コンビニのお弁当でいい?」
 とママが絞り出した問いかけには、うなずくのが義務のような気がした。

 そして自室のベッドに倒れ込んだ次の瞬間、いきなり夜明けがやって来た。夢さえ見ない、完全な眠りだった。
 昨日とまるで同じ。物音が耳障りだ。まぶたを閉じていても、明るさが目に焼きつく。しばらく体外離脱を控えたら、こんな症状は緩和されるのだろうか。
 まな板を叩く音。食器が触れ合う音。キッチンタイマーのアラームが、わずかにしがみついていた眠気を奪い取っていく。眩しさをこらえて、腕の時計を確かめる。
 五時。わざとらしく足音を立てて階段を降りていく。キッチンに立っているのが朝日ではないことはわかっている。私は暖簾をはね上げると、声と唇を尖らせた。
「ママは元気そうね」
「やけにトゲのある言い方だこと。それって、オバサンへの嫌み?」
「じゃなくてさあ、こんな朝早くから、ご飯の支度しなくってもいいでしょ?」
 ママはひとしきり笑い声を上げた。
「なに言ってんのよ。今、何時だと思ってんの?」
「って、五時でしょ」
「そうよ。夕方の五時」
「嘘!」
 リビングの置き時計に振り向く。時刻は五時だったけど、弟の朝日がスプラトゥーンに没頭していたから正しいのはママだ。
「それじゃあ私、十二時間以上も寝てたんだ!」
 ママは三人分のスープを手に暖簾を押し上げる。
「十二時間どころか、あと二時間で丸一日よ」
 その言葉に軽いめまいを感じた。睡眠の長さが問題なのではない。昨日につづき、部活をすっぽかしてしまったからでもない。わたしの予定では、朝のうちに麻里絵を見舞い、千鶴さんに礼を述べ、昼食を食べながら良介に報告し、あわよくば彼とダブルスカルの練習をしたかったけど、いくらなんでも今からでは遅すぎた。
「ぼさっと突っ立ってないで、これを運ぶ!」
 ママが手渡したのは、大皿に盛りつけられたビーフンだった。食卓へ振り向きざま、いつもと雰囲気が違っていることに気づいた。
 すっぴん──
 わたしは、山盛りのビーフンを手にしたまま尋ねた。
「ママは、仕事に行かないの?」
「昨日は緊急の呼び出しだったでしょ。だから、今日はその代休。と言っても、いつ呼び出しを食らうかわかんないんだけどね」ママは前髪にため息を吹き上げながら食卓についた。「結局、世の中ってそうなのよ。病院の近くに住んでるナースばかりが重宝されて、このままじゃあ過労死する前に、とんでもないミスを犯しそうで怖いわ」
 ママにつづき私がいつもの席を陣取る。そして、ゲームの切り上げに手間取った朝日が腰かけるのを待って、三人同時に手を合わせる。
 五目焼きビーフン。生姜の香りのするニラと溶き卵の中華スープ。豆腐とジャコのピリ辛サラダ。わたしの好物ばかりだ。
 パパが逝ってから、こんなことは久しく無かった。会話がはずむ。つけっぱなしのテレビが、ニュースを垂れ流していたけれど、ぜんぜん気にならない。朝日は夏休みでのびのびと、ママは過酷な労働から解放され、そしてわたしは、親友を救った満足感から、食べ物が口に入っていないとき以外は、言葉が絶えることはない。
 楽しかった。ちょっと、おしゃべりに過ぎるかもしれないけれど、これが普通の家庭のように思える。メーテルリンクの『青い鳥』じゃないけれど、幸せって、不幸せではないってことなんだな。
 ふと、会話が途切れた。
《つづいて県内ニュースです。本日、正午過ぎ、さいたま市在住の大学教授の男性が、警視庁の捜査員の職務質問中に突然、自宅マンションのベランダから飛び下り、心肺停止の状態に陥っているとのことです。現場は、さいたま市大宮区の……》
 箸を休めなかったのは、朝日だけだった。
 牟田口が自殺した──
 まさか、というのが正直な気持ち。ママには同調してほしかった。あの牟田口敬央という男にかぎって、罪を糊塗するために自殺なんてしない、と。
「ママ……」
 呼びかけても反応がなかった。テレビに釘付けになっている。力なく握られた箸の先からは、スープの涙がこぼれていた。
 諦めてテレビ画面を見つめる。現場を封鎖するテープをくぐり抜けた男の背に見覚えがあった。均整のとれたスーツ姿。カメラをさえぎる指のあいだから、茶色に染めた長髪がのぞいた瞬間、口に入れていたヤングコーンの味がしなくなった。
「東子のせいじゃない。自業自得よね」ママはポツリと言った。
「……でも、いい気はしない」
「わかるけど。自分を責めるのは間違ってるわ。少なくともこれで、麻里絵ちゃんが被害に遭うことはない。そう思いなさい」
 朝日が飯粒をくっつけた唇をはさむ。
「おふくろも姉貴も、なんのことを言ってだよ」
「いいの。あんたは黙って、ごはん食べなさい」
 わたしは、ママが取り分けてくれたビーフンとスープを朝日に押しつける。ママも同じことをした。どの器にもまだ、半分以上は食べ残している。
「ふたりとも、やな感じーっ」
 朝日が席を立つのを待って、ママは呟くように言った。
「これでよかったの。もう誰も傷つかない」
「よくないよ。わたしは、パパがなんで死ななくちゃならなかったのか知りたいだけ。牟田口が死んじゃったら、手がかりが無くなっちゃうかもしれないのよ?」
「そんなこと知って、どうなるというの? ただの自己満足よ」
「違うわ!」私はかぶりを振った。「ウチの大学じゃあさ、パパは薄汚い詐欺師ってことになってるのよ。罪に問われたわけじゃあないからママは満足かもしれない。だけど私は嫌。白倉達男の娘として、いつも胸を張っていたいの」
「東子……」ママは目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。「お願い、幽霊のクスリに首を突っ込むのは、もうやめてほしいの。東子までパパと同じ目に遇いやしないか、それだけが心配」
「そんなの……」自信がなかった。無意識に顔を背けていた。「へ、平気よ。クスリが入っていた箱は、どうせ牟田口のマンションにあるんだろうし」
「ちゃんと三つ、揃ってた?」
「……うん」嘘だった。牟田口の部屋で見つけた木箱はひとつだけ。
「中身は確かめたのね」
「そこまでは……」濁った言葉尻を質問で繕う。「やっぱり、中身は幽霊のクスリなの?」
「たしかに」ママの声は湿りけを帯びていた。「四つの木箱は、わたしが丹精込めて彫りあげてパパに贈ったものだけど、何が入っていたかなんて、パパしか知らないことなの。だから私、クスリのことは忘れることにしたの。東子も忘れなさい」
 ママは顔を伏せたまま席を立った。
 朝日の尻がふたたびリビングの中央を占領し、ママの背が暖簾の向こうへ消える。
 私の家族は、いつものバラバラに戻った。
 パパがいた頃は、こんなじゃあなかった。
 涙がこぼれる。
 パパ、どうして死んじゃったの? わたし、来月で二十歳なのよ。おとなになったら帰ってくるって、言ったじゃない──
 テーブルに座ったまま、私は声を押し殺して泣いた。
 涙を流したぶんだけ、冷静になっていく。
 ママは間違っている。無実を叫ぶことも、汚名を払拭することも叶わないパパに代わって、わたしが戦うべきではないのか──
 玄関でチャイムが鳴っている。ママは洗い物をしていて聞こえない。朝日に動く気配はない。しかたなく席を立つ。
 玄関でハチローが吠えていた。彼は来客があっても、決して吠えないようにしつけられていた。例外は、飛び込みのセールスマンとピンポンダッシュの悪ガキだけ。
 吠えやまないハチローを抱き上げ、ドアチェーンを引っかける。どうせ太陽光発電とか、リフォームのセールス。体よく追い返すつもりでドアを開けた。
「どうも」
 わずかに開いたすきまに、神妙な顔をした瀬島が立っていた。
「突然で恐縮ですが、本日は牟田口教授の件でうかがいました」
 その声を遮るかのように、私の腕の中でハチローが低い唸り声をあげた。



 腕の中で吠えつづけるハチローをなんとかしなきゃって気が先に立って応対どころではない。しかたなく瀬島に玄関で待つよう言い置いて踵を返す。ハチローには申し訳ないけど、しばらくバスルームで吠えててもらうことにする。玄関に戻ってきたときには、瀬島は玄関マットに額をこすりつけていた。
「すでに報道でご存じかとは思いますが、まず最初に謝らなければなりません」彼の土下座を目の当たりにするのは、これで二度目だ。「杉崎麻里絵さんのご家族が被害届を出してくださいましたので、さっそく牟田口教授のお宅へ向かったのですが……」
「パソコンを押収しにですか?」
「いえ、任意での聴取のあいだにガサ状……捜索令状を取るつもりで、とりあえず本庁に同行を願ったのですが、その、ちょっとしたスキにベランダから……」瀬島は、きちんと正座したまま再び頭を下げた。「まったくもって、面目ございません!」
 背後から足音が近づいてくる。リビングを隔てるドアの陰から、ママの困惑した目線が「誰?」と聞いていた。
 私が紹介するより先に、
「日赤病院では、すでにお見知り置きかと存じますが、念のため」瀬島が名刺を手に進み出ていった。「本日は、お母さまにお聞きしたいことがございまして、うかがいました」
 にこやかな瀬島とは対照的に、名刺をなぞるママの視線は厳しさを増していく。
「……どうぞ、こちらへ」
 心なしかおぼつかない足どりのママは、「お茶の用意をするから」と告げてキッチンへ、わたしは瀬島をリビングへ案内する。朝日をゲーム機ごと二階へ追放してしまうと、瀬島が柔らかく言った。
「本日は、わたくし個人の疑問を解消するために参りました」
 如才ない笑顔の背後から、ママが三人分のハーブティーとともにやって来た。テーブルに並べられたそれが、いつもより濃いめの仕上がりなのは見た目だけでわかった。ハーブの芳しい香りは、えぐ味のせいで台無しのはず。こんな失敗、未だかつて記憶にはない。
 なのに瀬島は、表情ひとつ変えずにお茶をすすり、
「結構なおてまえで」
 と社交辞令を述べてから、アタッシェケースから何かを取り出した。
「これをご覧いただきたいのですが」
 重苦しい音とともにテーブルに置かれたそれに、わたしとママの目は釘付けになった。鎌倉彫の木箱。蓋にはユリの花が彫りこまれている。
「見覚えが、ございますでしょうか?」
 ママは答えない。
「箱の裏側に、『桃野美由紀』と銘が彫られておりますが」
 即答しないママがわからなかった。代わりにわたしが口を開きかけた瞬間、
「私が作ったものに間違いありません。結婚する前、主人にプレゼントしたものです」と、ママは力なく言った。
「わかりました」瀬島は満足げにうなずいてから、私を見据えた。「お母さまも、麻里絵さんの件はすべてご存じなのですよね?」
「と思いますけど」
 瀬島はママの虚ろな瞳をのぞきこんだ。
「あなたが彫ったとおっしゃるこの木箱ですが、じつは牟田口教授の部屋で押収したものなのです。どうして、そんな所にあったとお考えです?」
「わかりません」ママは淡々と、しかし即座に返す。
「では、質問を変えます。白倉家と牟田口教授とは、どのようなご関係なのでしょうか」
「東子のクラブ顧問の先生としか。私は直接には存じあげません」
「もう一度お尋ねします。ご主人にさしあげた想い出の品が、何故に牟田口教授の部屋にあったのでしょうか」
「さあ」
「盗まれた可能性はありますでしょうか」
「はい、可能性としては……。でも、ハッキリそうだとまでは言い切れません」
「被害届は出されますか?」
「だから、さっきから何度も言ってます。私にはわかりません!」
 もう我慢できなかった。
「ママ、思っていることを全部言ってよ。あの箱はパパの書斎から盗まれたんだって」
「違うの、東子。あの箱は……」
 立ち上がってしまった私を、ママは上目づかいで追いすがった。そして、大きく肩で息をしてから瀬島に向き直った。
「あの箱は、主人が牟田口先生にさしあげたのかもしれません」
「奥さんが丹精込めて彫りあげた品なのに?」
「ですが、そうとしか思えないんです。牟田口先生は、主人と同じ大学の同僚でしたし、歳も近いですから」
 無難な言い逃れというよりは、こじつけにしか思えなかった。わたしにとって瀬島刑事は、白倉家を救いに来たホワイトナイト。なのにママからは、協力しようという姿勢が見られない。わたしの身を案じてのことなら、余計な心配だと思う。
 瀬島は鎌倉彫を入れたビニール袋を引っつかんで立ち上がった。
「ま、いいでしょう。なにか思い出したことがあったら、名刺に書かれているわたしのケータイ番号に電話してください。ではこれで。美味しいお茶、ごちそうさまでした」
 うやうやしく礼をして背を向けた瀬島を、私は慌てて追いかけた。
「待ってください」
「まだ何か?」
「箱の中身はなんだったんですか?」
 わたしの脳裏には、未使用のアンプルがありありと浮かんでいた。
「空っぽです」
「本当に?」
「ええ。こいつには、なにも入っておりませんでした」瀬島は、ビニール袋ごと木箱を目線に差し上げた。
 わたしが牟田口の部屋に忍び込んでから、瀬島が木箱を押収するまでには時間差がある。そのあいだに、牟田口の手によってアンプルが移動されたのかもしれない。そういうことにしておく。だけどまだ、大きな疑問が残っていた。
「他に、鎌倉彫の木箱は発見されなかったんですか?」
「と、おっしゃいますと」
「鎌倉彫の箱は、あとふたつあるはずなんです。アジサイとボタンが彫られたものが」
「ほう、興味深いお話ですねえ」瀬島の目が異様な輝きを帯びる。「なにか、わたくしに隠し事をしていませんでしょうか?」
「いえ……」                                  「例えば、箱の中身がなんなのか、本当はご存じだとか」
 わたしは曖昧に首を振った。少しだけママを理解できたかもしれない。
「ひとつだけ、聞いていいですか?」後悔を振り切って顔を上げる。「パパの無実は、証明していただけるんですよね?」
 すでに玄関で靴を突っかけていた瀬島は、背中を向けたまま言った。
「所轄が自殺として処理してしまった案件を、今さら蒸し返すのもどうかとは思います。まあ、わたくし個人としては、お父上の死に並々ならぬ興味をいだいているのには変わりありませんがね」ぞんざいに言うと、うしろ手にドアノブをつかんだ。「研究費の横領については、被害を受けた大学側が、訴えを取り下げておりましてね。つまり事件として成立しない。われわれ警察が出る幕ではないってことなのです」
「そんな……」
「ガッカリした目で見ないでください。お父上の件は捜査しないと言っているわけじゃあない。ただし東子さん」瀬島の口元に意味深な笑みが浮かんだ。「例の木箱のことをお話いただけるなら、私としては、ずいぶんとやる気が出ると思いますけどねえ。どうです、今ここでお話してくださってもかまわないのですよ」
 足元に視線が落ちる。瀬島の要求を呑むのは、やぶさかではない。だけど、ママが──
 激しく揺れ動く感情は、わずかな時間で妥協点を見つけ出した。箱の中身が、単に“危険なクスリ”としてなら話しても実害は少ない。そう思いついた時には、すでに瀬島はドアの向こう側へ消えていた。

                   3
 瀬島を追って玄関を飛び出す。
 しかし、瀬島が乗ってきたとおぼしき黒塗りのセダンは、タイヤを鳴らして走り去ったあとだった。
「してやられたな」
 声に振り向くと、生け垣の陰から銀髪の小柄な男が近づいてくる。
「石戸さん……」
「ついさっきまで、刑事が私ンところへも来とったのです。あのパトカーを運転していた角刈りの刑事がね」石戸は、ゆったりとわたしに向き直った。「あいつには皮肉たっぷりに言われましたよ。『まっとうな暮らしをしているか』って。最近、関東一円に霊感商法の被害が相次いでいるんで、念のため探りに来たとか言ってましたけど、そんなのは表向きだ。連中は、わたくしを東子ちゃんの家に近づけたくなかっただけだ」
「なんのために?」
「それは追々」
 アラ還の霊能者は、氷川参道との交差点に輝くブレーキランプを忌ま忌ましげに見つめていた。雪駄に作務衣、脇の下には汗がにじんでいる。
「もしかして石戸さん、ここまで歩いてきたとか?」
「はい、この近くのボロアパートに家賃四万三千円で住んでおるよ……。それはそうと、さっき出ていった茶髪の男、あれも刑事なのかね?」
「ええ。警視庁の警部なんだそうです」
「警部……。歳の頃は三十代前半から中頃か……」石戸の指が、剃り残した顎ヒゲをさする。「見覚えがあるんだ。さっきの刑事が茶髪で長髪じゃなかったら、ある男にそっくりなんだな」
「って、誰に?」
「クスリの被験者にだよ。プロジェクト内では№4って呼ばれていたから名前も素性も知らない。だが、あの鋭い眼光だけは、しっかり覚えてるね」
「まっさか」わたしは、ひとしきり笑い声を上げた。「石戸さんの口ぶりだと、瀬島さんが悪者に聞こえる。あの人、パパの無実を信じて……」
「悪者だから、ハチローくんが吠えた!」石戸は鋭く遮った。「私には初対面から尻尾を振ってくれるのにだ、あの刑事には吠えっ放し。動物的な感覚が、邪悪な魂を嗅ぎ分けたとは思えないかな?」
 沈黙のなかを、バスルームに幽閉されたハチローの声が通り抜けていく。
「時に東子ちゃん、五年前、総理大臣の椅子に座っていたのが誰だったか、覚えておるかね?」
「……いえ。最近は、次々に総理が代わりましたから、ちょっと」
「労働党の高野総裁が、不正献金疑惑で総理の座を追われたのだが、ご存じかな」
「はあ、それならなんとなく」相槌を打ってはみたけれど、そんな事件もあったかな、と言う程度の記憶だった
「検察が不起訴を検討するほど物証に乏しい事件だった。なのに、おおかたの予想を裏切って、有罪の判決が下るに至ったのは何故だったと思うかね」
「と聞かれても……」
「五年前の東京に初雪が降った晩、わたしは高野総裁の自宅近くに停めた車の中で待機を命じらた。ここまで言えば、もうおわかりだろう」
「……誰かが幽霊になって、総理大臣の秘密を盗み見ることができたから?」
「まあね。あの晩、わたしの横でクスリを使い幽霊化したのが、被験者№4だった」言葉を区切ると、なにかを思い出したかのように視線を空へと遠ざけた。「さっきの茶髪の刑事、名前はなんといいましたかな」
「瀬島さん」
「あの若さで警部ってのは、どう思うかね」
「若いですよね」
「見解としては妥当だな」石戸は満足げにうなずいた。「被験者の素性は明かされていないと言ったが、やつらは警察とか自衛隊とかの人間に特有の、カッチリした雰囲気を持っていたな。私の考えが正しければ、クスリの被験者たちには、昇進がらみのインセンティブがあってしかるべきだろう」
「つまり、警部になれたのは、クスリの実験台になった報酬?」
「いや、クスリを使って手柄を立てたからだと見るべきかな。あの茶髪だって、プロジェクトに身を置いた過去を隠すためのコスチュームなのかもしれない」
 そう言って茜色の空を見上げる石戸に違和感を覚えた。
「わたし、石戸さんがわからない。どうして瀬島さんのことを悪者みたいに言うの? 仮に裏技みたいな手段で警部になれたとしてもよ、総理大臣の不正を暴いたんだから正義の味方ないんじゃない?」
「そうだな」石戸の顔に薄い笑みが浮かぶ。「しかし、お父上を殺したのが連中だと言ったら、少しはわたしの言葉に耳を傾けてもらえるのかな」
「……まさか、あの瀬島さんに限って……」
 石戸は諭すように、ゆっくりとかぶりを振った。
「昨日、わたしは日赤病院にいたわけだが、東子ちゃんが連れてきたあいつの顔を見て、逃げ出してしまったよ」
「見覚えがあったからですか?」
「それもあるが、きみたちが来る少し前から気分が悪くなっていてね、その原因が、あの男が発する邪悪な思念のせいだったというわけさ。私のように“見える”人間は、そんなことがよくある。きみのママも、少しくらいは感じていたはずだがね」
「そう言えば……」
「なにか、思い当たる節でもあるのかね」
「瀬島さんが来た時、ママの様子がいつもと違っていました。愛想がないっていうか、何かを怖がっているみたいな」
「少なくともワンちゃんは、気づいているようだね」
 言われて思い出した。ハチローをバスルームに閉じ込めたままだった。かわいそうに、漏れ聞こえてくる声が嗄れている。
「そもそも、刑事はなにをしに来たのかな?」
「牟田口の部屋にあった鎌倉彫の箱に見覚えがないかって、ママに……。木箱は空っぽだったって言ってましたけど」
「嘘っぱちだね。幽霊のクスリは連中の手に落ちたとみていい」
「なんのために?」
「クスリが必要だからだよ」
「だから、なんのために?!」
 石戸は私の大声を手のひらで制すと、周囲の様子に気を配った。誰もいないことにうなずいてから小声で告げる。
「もう一度言うよ。きみのパパ、達男君を病院の屋上から突き落としたのは瀬島、もしくは、やつの息のかかった人物だとにらんでいる。だから東子ちゃんが、どこまで嗅ぎつけたのか探りに来たとも考えられる。しかし本当の目的は、幽霊のクスリの入手にあると思うね、わたしは」
「パパが死んじゃったから、クスリはもう作れないんでしょ?」
「そのはずだ。達男君は、幽霊の行動半径を五百メートルにまで伸ばした最終型を、製造方法を収めたディスクごと持ち去った。しかし、開発途上のクスリは、何処かにたくさんストックされていたのではないかと思うんだ」
「言っていることが、ちぐはぐだわ。クスリがたくさんあるんなら、新たに入手する必要はないと思うんですけど」
 声を尖らせても石戸は動じない。
「五年前なら、そうかもしれない。それが今、クスリのストックが底を突きつつあるとしたらどうかな?」
 辻褄はあっている。牟田口の部屋で見たアンプルは少なくとも三本。それを隠すよりむしろ、中身のアンプルが白倉家の所有物なのかどうか、その素性はなにかを問いただしたほうが、捜査の手法としては適切に思えてきた。
「あ、だからかなあ」
「なにか、思い出したのかな?」
「わたし、鎌倉彫の箱が、あとふたつあるって刑事に言っちゃったんです。そうしたら、すごい興味があるみたいで……。それ以上なにも話しませんでしたけど」
「つまり、残りのふたつについては、連中にも行方が知れないってわけだ。われわれにとっては希望だね」
「希望?」
「そう。残りのふたつの箱の中身は、完成型のクスリと製法を記録したディスクだろうな。それを連中より早く見つけ出しさえすれば、こっちにも勝ち目がある」
「だけど、手がかりはないですよね」
「いや、問いただしてみればいいじゃないですか」
「って、誰に?」
「牟田口にですよ。やつにはまだ辛うじて息がある。きっと今頃は、集中治療室に思念が漂っているはずです。あなたの親友と同じようにね」そう言って、石戸はさらに顔を近づた。「これからは、十分に注意して行動せねばなりません。牟田口の部屋にあったクスリは、連中の手の内にある。やつらだって馬鹿じゃない。むしろ、素晴らしく頭が切れると思った方がいい。わたしが彼に見覚えがあるように、彼も、わたしがプロジェクトに参加していたことを知っていた。だから?」
「石戸さんを、つまらない事情聴取でアパートに足止めした」
「よくできました」石戸の手のひらが頭に覆いかぶさった。「で東子ちゃん、美由紀さんに車を出してもらえるようお願いしていただけますかな」
「ママは……」ため息が漏れた。
「これ以上、幽霊のクスリに首を突っこむな。そう美由紀さんに言われたんですね」
 素直にうなずく。
「心配いりませんよ。なんたって、かつて日本一と言われた霊能者のわたしがついているのですから」すでに玄関へ向かっていた石戸は、振り向きざまに甍を見上げた。「東子ちゃん、朝日君、そして美由紀さん……あなたがたを守っているのは、惨めでちっぽけなわたしなどではない。白倉達男という気高い魂です」
「もしかして、石戸さんにはパパの魂が見えるんですか?」
 詰め寄ったわたしを、石戸は悲しげに見下ろし、
「姿は見えません。なんと申しましょうか、全身で感じるんです。あなたのパパは今でもこの家を守っておられる。いずれ、東子ちゃんにもわかる日が来ると思いますよ」
 そう言い残して玄関のドアを開ける石戸が虚ろに見えたのは、わたしがまだ、瀬島に信頼を寄せていたからなのかもしれない。


 マンションから転落したとなれば、牟田口が担ぎ込まれたのは救急救命以外には考えられない。
 今、わたしの目の前には、赤十字病院の巨大なシルエットが残照に浮かび上がっている。あの病院の同じフロアに、被害者と加害者が収容されている状況は究極の皮肉に思えた。
 道中、ママの運転はいつもより荒っぽかった。アクセル、ブレーキ、ハンドル──すべての操作に“急”がついた。無理もないと思う。石戸に説得されたとはいえ、体外離脱した私が牟田口の意識に接触することに心から同意したわけではないんだから。
 心配げなママの視線を横に浴びながら、シートをリクライニングさせる。
「では東子ちゃん」石戸は、後席の窓から外を眺めて言った。「今のところ、病院の周辺に邪な波動は感じられません。安心してお行きなさい」
 うなずき、肉体のなかで意識をひねりこむ。江ノ島水族館のイルカのように垂直に飛び出すと同時に、石戸の声が意識に響いた。
(もし、危険な目に遇ったら、わたしを強く念じなさい。必ずなんとかしてあげるから)
 うなずき、ICUのある二階フロアを目指して下降する。
 エレベーターホールの手前、ナースステーションの裏から、ソファが置かれた廊下を折れる。すでに処置を終えたのか医師の姿はなく、ナースと医療機器だけが目立つ部屋の中心には、上半身のほとんどをガーゼで覆われた患者が占有していた。体幹の下に敷かれた保冷剤を入りのマット。冷水を還流させるポンプ。体温が凍死寸前の状態に保たれていることを示す“32”の数字。そのすべてが、脳に重大な損傷が起こっていることを無言のうちに語りかけていた。
 近づいて表情をのぞきこんでも、牟田口のパーツをうかがい知ることはできない。それでも目の前に横たわる瀕死の患者が、牟田口であることはわかっていた。
 ICUの隅っこに意識が体育座りをしていた。きちんとスーツを着込んだ姿で。
 驚いたような眼差しでわたしを見つめる牟田口の意識に、ゆっくり近づいていく。
(白倉……なのか?)
(そうよ。生意気な薬学部二年の白倉東子)
(教えてくれ、私は……、私は)
 上から目線で冷たく告げてやる。
(あなたはもうすぐ死ぬの。残念だけど、助かりそうにないわ)
(そうなのか、やはり……)
 牟田口の意識はうなだれたけれど、混乱も驚きも感じられない。クスリで幽霊になったことがあるだけに、その点だけは物分かりがよいのかもしれない。
 わたしは、壁際で膝を抱える意識を睥睨しながら、廊下の途中に置かれたソファに誰も座っていなかったことを思い出していた。
(かわいそうな人よね。こんな容体なのに、家族が呼ばれていないなんて)
(どうせ私には……)牟田口の意識は、膝のあいだでかぶりを振った。
(本当は別れた奥さんがいたとか)
(結婚したことはない。天涯孤独さ)
(だから寂しいのね)私は牟田口の胸ぐらをわしづかみにした。きつく絞り上げると、あっけなく持ち上がるのが不思議だった。(どう? 幽霊につかまれる気分は。けっこう痛いでしょう。私だって、あなたにつかまれた足首が痛かったんだから)
 さらに喉元を締め上げると、牟田口の口から悲鳴が漏れた。
(し、知らん。私が、いつそんなことをした)
(とぼけないでよ)わたしは、牟田口の意識を床に投げ捨てた。(忘れたとは言わせないわ。麻里絵の家に行きましたよね?)
(……い、いや)
(行きましたよねっ?!)
 床にへたり込んだ牟田口の意識は、私を見上げてかぶりを振るだけだった。
(まさか、麻里絵の家がどこにあるか知らないなんて言うんじゃあ……)
(いや、杉崎の家は知っていた。だけど“これから”のつもりだった。ゆっくり、時間をかけて楽しむつもりだった。なのにあいつ、さっさとリスカなんかしやがって……)
(じゃあ、裸の写メを送るよう要求したのも、身に覚えがないことなの?)
(そ……)
(心当たりがあるのね)
(ああ、そうだよ。どうせわたしは、スケベで寂しいハゲオヤジだよ!)
 牟田口の興奮が収まるのを待って尋ねる。
(麻里絵の裸をのぞいたのが彼女の家でじゃなかったら、いったい何処でなのよ?)
(そんなに知りたいか?)
(知りたい。どうしても口を割らないなら、もう一度……)私は再び牟田口の喉元を目掛けてつかみかかっていった。が、牟田口の語りが一瞬早かった。
(どうせ私は死ぬ。白倉、お前だって死にそうだから、そうやって漂っているんだろ?)
 さっきから話が噛み合わない。飛び下りた時のダメージによる、一時的な記憶の混乱なのだろうか。
 牟田口は吐き捨てるように言った。
(冥土の土産に教えてやるよ。杉崎のストリップを拝ませてもらったのは戸田の艇庫だ。シャワーを浴びる彼女の身体は、とても綺麗だったよ。さすがミス富士見大だよな)
(もしかして、わたしの裸も見ちゃったとか)
(へっ、誰がおまえなんか……)牟田口は顔を背けた。
(じゃあ、他の子もさぞかし綺麗だったでしょうね)
(他の子?)
(例えば比嘉由美子さん)
 牟田口は、ほんのわずかな沈黙のあと、
(綺麗だった。わたしが目をつけた女は、どいつもこいつも上玉なのさ)
(宮城恵子さんも?)
 一瞬、牟田口の精神が青く輝いた。かと思うと徐々に輝きを減じ、背後の壁が透けて見えるようになった。麻里絵も、こんな風になったのを思い出す。幽霊に気分とか具合という表現が当てはまるのなら、良くない兆候なんだろう。
(宮城恵子さんが、どうかしたの?)
(あの女の名を言うんじゃない!)牟田口は両手で耳をふさいだ。
(失礼、宮城じゃなくて、結婚する前は比嘉恵子だったわよね)
(頼む、彼女のことを思い出させないでくれ!)
(いったい、彼女とのあいだに何があったの?)
 精神だけのくせに、牟田口は肩で息をしていた。背後でアラームが鳴りはじめる。呼吸が乱れ、脈拍が急上昇している様子がモニターに映し出されていた。たとえ体外離脱の最中であっても、肉体と精神は互いに影響し合うものなのかもしれない。
 アラームが消えた。わたしは、牟田口の耳から手のひらが離れるのを待って尋ねた。
(宮城恵子さんのこと、好きだったのよね)
(……そうだよ)
(それで、ストーカーになったのね)
(ストーカー? けっ、冗談じゃない。あれは復讐なんだよ。わたしを自殺に追いやるほどの苦しみを与えた償いなのさ)
(自殺って……。それじゃあ、これで二度目の自殺なんだ)
(なに言ってんだよ。わたしが自殺を企てたのは、後にも先にも、その時だけだぜ)
 まただ。どうも話が噛み合わない。自分が死に瀕していることは理解できているくせに、そんな状況を作った原因を知らないなんて──
(ま、いいわ。宮城恵子さんには、なにか恨みがあったわけ?)
(馬鹿にしやがったんだ。ハゲは嫌いだって、学生が大勢見ている前でぬけぬけと言いやがった。おまけに私のライバルだった准教授と結婚までして……。だから恵子の身体の特徴を言い当てて脅かしてやったら、あそこ全開の写真を送ってきやがる。そいつをネットに流して、一儲けさせてもらったよ。復讐と実益を兼ねて)
(ついでに、結婚相手にも濡れ衣を着せてやったよのね)              (なんだって?)
(恵子さんのご主人に、研究費横領の濡れ衣を着せたでしょう)
(い、いや。わたしは、そんなことは……。ただ恵子が憎いだけだった)
 どこかでボタンを掛け違っているみたいだ。ただハッキリしていることがひとつ。牟田口敬央という男は、外見からその精神に至るまでサイテーだってこと。
 私がほんのわずかなあいだ思索にふけるうちに、牟田口の精神は悄然とした面持ちで治療台に横たわる肉体を見つめていた。
(私は、どうしたんだ? なあ白倉、教えてくれよ。私はなんで、こんな姿で横たわっているんだ?)
(教えてほしい?)
(ああ、頼む)
(自殺したのよ。マンションのベランダから飛び下りて)
(私が?)
(よーく思い出して。刑事が来たはずよ)
(……そうだ。警視庁の刑事がやって来て……)
 牟田口は両手で頭を抱えて、言葉にならない叫び声をあげはじめた。こうなると、どう宥めても耳を貸してくれないのは、ゼロ号室の比嘉先生で経験済み。
 質問をひとつに絞らざるを得なくなっていた。
 複数のアラームが鳴り響き、モニターには赤い色が点滅している。何人かのナースが駆け込んできて、ドクターを呼んでいる。治療台の肉体に変化は見られないけれど、牟田口に残された時間は、そう長くはなさそうだった。
(ねえ監督、ひとつだけ教えて。幽霊のクスリは、どうやって手に入れたの?)
(……クスリ?)
(そう。鎌倉彫の木箱に入っていたアンプルのこと)
 牟田口の目に少しだけまともな輝きが宿っていた。質問を変えたことは、狂気に冷や水を浴びせることになったらしい。
(私は死ぬつもりで、あのアンプルを使ったんだ。麻酔薬を大量に注射すれば、楽に死ねるって誰かに聞いたことがあったから……。思い出したんだ。ある人から、強力な麻酔薬を預かったことを)
(ある人って、まさか)
(白倉先生だよ、おまえの父親の)
(嘘よ。パパはあんたなんかに、大切なものを預けたりしないわ)
(私したちは、ボート部の先輩と後輩の間柄だから)
(あ……)
 後悔が胸に突き刺さる。もっと早くに、ふたりの関係に気づくべきだった。そうすれば、麻里絵は手首を切らずに済んだかしれない。
 問わず語りは、うつろな口調でつづいていた。
(白倉先生は、麻酔薬を預かったことを口外しないでくれって言ったが、べつに気にも留めなかった。そのうち白倉先生は死んじまうし、あの女にはコケにされるし、教授の座はライバルに奪われるわで、もうどうでもよくなっちまったよ……。そんなとき、クスリのことを思い出したってわけだ。あれを大量に注射したら、楽に死ねるぞって)
 そこから先は、聞かなくてもわかる。自殺は未遂に終わり、同時に体外離脱の副作用にも気づいた。おかげで、複数の女性が彼の犠牲になった──
 でも、そんなことはどうでもいい。背後では、心臓マッサージとカウンターショックが交互に繰り返されている。大電流が肉体に流されるたびに、牟田口の精神は明滅し、そして輝きを減じていく。
 思わず、性急な口調になる。
(クスリは鎌倉彫の箱に入れられていたわよね。パパが預けた箱の数はいくつ?)
(みっつ……だった)
(あなたの部屋にひとつあったけど、残りのふたつはどこ?)
(あ、……ああ?)牟田口の意識はいよいよ希薄になってきた。(なんだって? よく聞こえない)
(クスリは、全部使っちゃったの?)
(……一箱分は残っている)
(もう一箱は?)
(中身はクスリじゃない。それは……)
(それはなに、なんなの?)
(……)
 希薄な唇は何かを言っているらしい。意識を集中させる。辛うじて言葉を拾えた。
(……隠した……大切なものだから……)
(って、どこに?!)
 わたしは、牟田口の肩をつかみにかかった。だけど、わたしの指が触れるより先に、ポリ袋のように希薄になった精神は空気に溶け込むようにして消滅した。
「午後六時十七分、死亡確認」
 声に振り向く。牟田口の肉体は、ドクターとナースの合掌に見守られていた。
 その時だった。
(……東子ちゃん。わたしだ、石戸だ。近くによくない気配が漂っている)
 警告されなかったら、たぶん気づかなかっただろう。牟田口にばかり気を取られていた。その気配が消えても、ICUのどこかにどす黒い圧力を感じる。
 見つけた。無影灯に重なるように、赤い影がうごめいている。わたしが見ていることに気づいたのか、赤い影は天井へとめり込んでいく。そして消え入る寸前、その頭部に不敵な笑みが浮かんでいた。
(待ちなさい。あなたは誰?)
 精神の中心で、石戸が叫び声を上げていた。「近づくな」とか「危険すぎる」とか聞こえたけど頓着しなかった。迷わず赤い影を追って天井へとめりこんでいく。数階分の床と天井を突き抜けるうちに、私は赤い影の足首をつかむことに成功した。そこはもう病院の上空だった。
(しつこいセールスマンだな)赤い影は、私を見下ろして言った。
(あなたは!)
 揺らめく輪郭の頭部に、瀬島の表情が浮かび上がっていた。予感がなかったわけではない。だけど辛い現実ほど、目の当たりにすれば凹んでしまう。おかげで足首をつかむ力も緩んでしまった。
 なのに瀬島は逃げない。それどころか同じ目線に降りてきて、わたしの首に両手の指を食い込ませた。
(知っているか? こうやって幽霊の首を締めてると、肉体も窒息するって)
 喉の軟骨を押し上げる冷たい感覚に、記憶が反応していた。最初に遭遇した赤い悪霊。あれは牟田口なんかじゃあなく、こいつだったんだ。麻里絵の家にいたように思えたのは、幽霊化したわたしを追いかけてきたから──
(言えっ、クスリをどこへ隠した?)
 苦しいながらも気づいたことがある。わたしにクスリの在り処を詰問するからには、瀬島は牟田口が残した言葉を聞いていないはず。
(そんなもの知らない。パパの書斎にあるんじゃあ……)
(嘘をつけ。俺は、おまえの家を幾度となく調べまわったんだ。なのに見つからない。お前らが家の外へ持ち出したんじゃないのか?)
(知らない。知ってたって言うもんですか)
 絞り出した悪罵をあざ笑うかのように、瀬島は鼻を鳴らし、(そうかい。じゃあ俺は、地道に探すことにするよ)私の首を強く締めつけた。
 意識が遠のいていく。うつろに見ていたのは、さいたま新都心の黄昏。がこの世で見る最後の光──
 急に楽になった。意識が途切れたのではない。白い影が瀬島の赤い影をはがい締めにしていた。
(しっかりしなさい、東子!)
(ママ……)
 瀬島に一本背負いのように飛ばされたママだったけど、すかさずわたしの傍らに寄り添い、抱きしめる。わたしを見つめる瞳に、涙が浮かんでいた。本物の液体ではなく、思念が作り出したそれは、わたしを抱きしめるママの体温より温かく感じる。
(ふたりがかりかよ。分が悪いぜ)低くうなるような声で、瀬島は忌ま忌ましげに言った。(まあいい。そうやって慰め合っていろ。おまえらがいかに無力か、思い知らせてやる)
 捨てぜりふを残して、瀬島の意識は急降下して行く。
 追いかけなくっちゃ──
 意識すると同時に、ママに肘をつかまれた。
(追いかけちゃダメ。わたしたちより、あいつの方が早いわ)
 すぐに気づいた。ほぼ真下、病院の裏口にパトランプが点灯していた。
 ママは私の顔をのぞきこんだ。
(石戸さんに言われたこと、覚えてる? クスリの幽霊は、肉体に近づけば近づくほど力が強くなるの)
 すでにそれは、牟田口を追いかけたときに経験済みだった。
(東子、身体に戻ろう。ぐずぐずしてらんないかもよ)
 ママの視線は、急発進したパトカーを捉えていた。サイレンで周囲の車を蹴散らしながら、京浜東北線をくぐるガードに消えていく。その先にあるのは氷川参道の欅並木、そのさらに先は私の家がある天沼町。それがどんな事態を招くかは、よく承知しているつもりだった。幽霊の姿ではのぞき見以外の悪さはできない。だけど人間の姿で、しかも警察権力を身にまとっていれば、この国ではほぼなんでも可能なんだ。
 ママとうなずき合い、せーので目をつぶる。
 同時に、指先にまで肉体の感覚が行き渡った。目を開けると、サイドウィンドーの外に石戸の横顔が見えた。上空を警戒しているらしく、わたしが戻ったのには気づいていない様子だ。
 身体を起こす。隣の運転席に横たえた身体に、ママはまだ戻っていない──のではなかった。目をつぶったまま表情をゆがめ、咳き込み、そのたびに泡を吐き出す。さらに、シートの上で四つんばいになると、湿っぽい呼吸音が狭い車内に充満した。ぜん息発作がひどくなると、こんな姿勢にならないと呼吸ができないことは知っていた。
「ママ、大丈夫?」
 答えない。大きく腹を上下させ、浅く細い呼吸を刻んでいる。
「平気……。久しぶりに体外離脱したから……体力をうんと……消耗しちゃったのね」
 カラ元気にしか思えない笑顔が痛かった。
 ママは無言で足元のポーチを指さした。やっぱり声は出せない。だけど、なにをどうすべきかは承知していた。
 吸入薬を取り出し、ノズルを泡だらけの唇にあてがってやる。霧状になった気管支拡張剤を数度吸い込んだのを確かめて、今度はポータブルの酸素スプレーを手渡してやる。
「ありがとう。おかげで楽になったわ」
 シートに仰向けになったママは、額に浮きでた汗を手の甲で拭った。
 安堵したのも束の間、ママのポーチのなかでケータイが着信を告げた。
 朝日からだ。通話ボタンを押すなり、怒声が吐き出される。
《どこにいるんだよ。俺に黙って家を空けちゃってさ》
「さみしかった?」
《ちげーよ、そんな悠長なことを言っている場合じゃねって!》
 切羽詰まった朝日の声、その背後に聞こえるハチローの咆哮に、小春日和のような安堵感が、いっぺんに吹き飛んでいった。
《警察が来てんだよ。家ん中を捜索をするってさ。俺、どうすりゃいいの?》
「ちょっ、ちょっと待ってもらえるよう、言ってくんない?」
《おせーよ。もう、キッチンとリビングを調べはじめてんだぜ》
「二階も?」
《……まだだけど》
「パパの書斎だけは、わたしたちが帰ってくるまで、絶対に入れちゃあダメよ、いい?!」
《んなこと言われたってさあ、俺、自信ねぇもん》
 聞こえるように舌打ちする。
「あんた男でしょ? パパの代わりに家を守るのは、あんたの役目なんだからね!」
 そう言い放って電話を切る。終了ボタンを押した親指の上に熱い液体が滴った。
 パパ、お願い。私たちを守って──
 だけど祈る時間は与えられなかった。サイドウィンドーを石戸の指が小突いている。
「美由紀さんの様子がおかしい」
 運転席に振り向けば、いつのまにかママはうつ伏せになっていた。胸と腹が交互に上下している。太い気管支までもが痰で塞がれた状態を示す、外奇異呼吸──ぜん息発作の末期症状だった。

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